◎露伴の作品には、おうおう説教臭味がある(小泉信三)
雑誌『世界』の「第22号」(一九四七年一〇月)から、小泉信三のエッセイ「露伴と今日の読者」を紹介している。本日は、その四回目。
露伴作品に就いていへば、私自身の趣味は太だ〈ハナハダ〉眼られて居り、その凡べて〈スベテ〉を愛読したとはいはれない。最も好んで読むのは、先年、改造社から出た「幽秘記」に収められた、支那の歴史と文学に取材する諸篇、就中〈ナカンズク〉巻頭の長篇「運命」であつて、私一個としては、これが露伴第一の作ではなからうかとひそかに思ふものである。後世露伴の代表作として伝へられるものは何か。五重塔や風流仏は多分それとして挙げられることだらうが、私はあまり好きではない。甚だ過言で失礼かも知れないが、露伴先生の作品には、住々或る説教臭味があり、また、余りにも豊富な文字が文字そのものゝために使はれて、往々マンネリズムの如きものが感じられた。先生は無論承知の上でやつて居られたことだらうが、自分に就いていへば、これが屡々鑑賞の邪魔になったのは事実である。私と同感の人もあつたことゝ思ふ。序でにいふと、漱石は「三四郎」を書き、鴎外は「青年」を書いたが、露伴には其に類する作品はない。露伴は現代の青年に興味のない作家であつたやうだ。青年に興味を持たない作家に青年の方でも、興味を持たなかつたのは、自然であつたかも知れない。それは余談であるが、「運命」では、露伴は最も自分に適した国、時代、事件、人物を題材とし、それを書くのに先生の知識、詩想、文章其他あらゆる素養が一〈ヒトツ〉の調和した力となつて、渾然たる一篇の大作を成すことに成功したといひ得るやうに思ふ。【以下、次回】