礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

長期戦下、人心の荒むことに戒心を要する

2022-05-30 00:33:50 | コラムと名言

◎長期戦下、人心の荒むことに戒心を要する

 本日も、野村兼太郎『随筆 文化建設』(慶應出版社、一九四六)に載っていたエッセイを紹介する。「無愛想」(ぶあいそう)というタイトルだが、これは「時観」というククリの22番目に位置づけられている。以下はその全文。

    22 無 愛 想

 われわれの祖先は、「朝日の直〈タダ〉さす国、夕日の日照る〈ヒデル〉国」を理想的な国土とし、「朝日の日照る宮、夕日の日かげる宮」を理想的な家とした。麗か〈ウララカ〉な太陽の照り映える現世をこの上もなく欣び、陰鬱な常夜〈トコヨ〉の国を恐れた。潑剌たる生の国を愛し、日光のない死の国を厭うた。従つて彼らは極めて現世的であり、楽観的である。単純であるかも知れないが、甚だ朗〈ホガラカ〉な民族であつた。日本人はさうした性質を保有してゐた。勿論永い間にはそれと相反する性質をもつ他の国の思想の影響を受けなかつたわけではない。例へばあの厭世的な仏教思想に影響に依つて多くの厭世観は培はれてゐた。しかしその厭世観すらも極めて淡白なものであることは、仏教を単なる祈祷教化してしまつたことでも解る。
 長く海外にあつて支那事変以後帰国したある人に、帰朝して最も変つたと感じた点は何かと尋ねたところ、人間が著しく無愛想になつたことだと答へた。現世的で楽天的で快活で、淡泊な反面には、安易を欣び〈ヨロコビ〉、困難に耐へる意志の力が乏しく、不徹底であり、自信を欠く。将来に対する大きな計画をもち、如何なる困難があらうとも、これを切り抜けていかうとする強い執著心に乏しい欠陥がある。その日その日を暮していくことだけより考へない。その厭世観の如きも何ら深き哲学的思索に基づくものではない。「心には厭ひはてつと思ふらむ、あはれいづこも同じうき世を」といふやうな絶望的な厭世観にしても、その厭世の基礎は単にこの世が末世澆季〈マッセギョウキ〉的であると感じたからに過ぎない。換言すれば多くは現世に希望を失つたからである。少しく欣しい〈ヨロコバシイ〉ことがあれば、直ちに楽天的になり、この世をばわが世と思ふ者が少くない。少しく悲しむべきことがあれば直ちに悲観的になり、今にも世の中が没却〈ボッキャク〉し去るかの如く歎き悲しむ。一喜一憂頗る〈スコブル〉単純である。
 事変後すベてについてむかしの如く思ふやうにならない。業務は煩雑になり、労働の負担は増大する。神経衰弱的になつた人人に愛想がなくなつたことは確かである。殊に従来最も愛想のよかつた接客業者が最も多くの束縛をうけるため愛想がなくなつた。それが一層人人に無愛想の感を強からしめる。これは明かにわが国民性の短所が強く現はれ、長所が隠れたためとみられる。人心の荒む〈スサム〉ことは長期戦下において特に戒心を要する。

「末世澆季」は、「澆季末世」ともいう。「道徳や人情が希薄になった末法の世」の意味。

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