◎日中に空襲があると留守は家人ひとり(野村兼太郎)
本日も、野村兼太郎『随筆 文化建設』(慶應出版社、一九四六)に載っていたエッセイを紹介する。タイトルは「空襲」。やや長いので、何回かに分けて紹介する。
空 襲
サイパン島、テニヤン島に基地を推進して来た敵は、しばしば帝都の上空にその姿を現はすやうになつた。勿論未だ偵察程度のものに止まり、一機か二機、はるか高空に飛来するに過ぎない。九州地方、沖縄、台湾の空襲とは比較にもならず、又ベルリンやロンドン、その他ヨォロッパの諸都市の受けた恐るべき破壊も今のところ起つてゐない。敵機が来襲したといふ名ばかりで、何らなすところなく遁走してゐるのである。
しかし無気味に鳴り響く警報のサイレンの音と共に、一種慌しい緊張さを感ずることは何人〈ナンピト〉もこれを否定し得ないであらう。話にきく大空襲を受けた諸都会の廃墟と化した状態などを想像はするが、さうした体験をもたないだけに、却つて焦躁と不安とを感ずるのである。それが又神経戦をねらつて、一機二機やつて来る敵の作戦かも知れないが、それだけなら大した効果あるものとは思はれない。かうした経験を繰り返すうちに、却つて防空体制の不備も自ら反省され、大空襲をうけても一向打撃を受けぬ、ねばり強さが出来てくるかも知れないのである。
私どもは湘南に住んでゐるが、家族の者は国民学校に行く児童を除いて、東京・川崎・横浜等へそれぞれ出かけていかなければならない職場をもつてゐる。日中に空襲があるやうな場合には留守は家人ひとりである。今日まで未だ僅かな経験ではあるが、夕食時に帰つて来た各自の話をきくと、それほど隔つた地域でもないのに、報告は相当まちまちである。ある所では相当慌しい騒ぎをしたやうであるのに、他の所は頗る平穏であつたらしい。空襲に遭遇した場所、当人の感受性などに依つても著しく異なり、又実際各地域の状況に依つて避難待機の方法も決して一様であり得ないのである。もし中央からの指令か何かを杓子定木〈シャクシジョウギ〉に守つてやれば、時に大変な滑稽なことをやつたり、又時には大きな誤ちを冒さぬとも限らないのである。
九州・台湾・沖縄等における実際の状態についてもつと客観的な、科学的な観察が発表されたなら、非常に有益でもあり、多少参考にもならう。それとても実際爆撃を受けた時に、どれだけ役に立つかは解らない。実状は個個の場合に依つて異ならざるを得ないからである。が、それでも個人的な主観的な実見談よりは遥かに役に立つであらう。個個の実見談は自己の身の廻りに起つたことに対するその人の感想に過ぎないので、その点は夕食時の食卓の報告と大差ないといつてもよからう。【以下、次回】
このエッセイが発表されたのは、一九四四年(昭和一九)の後半か。野村兼太郎は、その当時、慶應義塾大学の経済学部長、あるいは図書館長だったと思う。