◎秘密の存するところには疑惑が伴ふ(野村兼太郎)
本日も、野村兼太郎『随筆 文化建設』(慶應出版社、一九四六)に載っていたエッセイを紹介する。「流言蜚語」(りゅうげんひご)というタイトルだが、これは「時観」というククリ(雑誌に連載されたものか)の12番目に位置づけられている。以下はその全文。
12 流 言 蜚 語
新聞の報ずるところに依ると当局は流言蜚語を取締るために、これが対策を講じたとのことである。如何なる流行蜚語が行なはれてゐるのか、全く解らないが、当局がその対策に腐心するやうでは、一部に相当デマが飛ばされてゐるものとみなければならない。これが対策に如何なる名案が案出されたかについては何も報ぜられてゐなかつたやうであるが、結局取締を厳にするといふくらゐの申合せが落〈オチ〉ではなかつたのか。
元来流言蜚語が行なはれる原因は真相を知らせないことにある。秘密主義の政治が行なはれる時には、必ず流言蜚語が盛んである。だから江戸時代の如きは、その尤なるものである。一二例を挙げると、文化四年〔一八〇七〕にロシア人が蝦夷――即ち樺太、汗島等に寇したことがあつた。その時江戸市民は陸奥〈ムツ〉まで切取られたといふ流言を飛ばしてゐる。又例の有名な天保八年〔一八三七〕の大塩の乱には、大坂は落城し、堀〔利堅〕伊賀守は京都へ逃げ出し、跡部〔良弼〕山城守は百目筒〈ヒャクメヅツ〉に当つて、首は微塵〈ミジン〉に砕けてしまつたと噂をしたさうだ。泰平の市民が何か事あれかしと思つてゐたところに、少しでもセンセェショナルなニュウスがはいると、それを誇大に吹聴することはありがちのことである。だがやがて真相が明かにされれば、それらは直ちに雲散霧消する。
流言蜚語を絶滅するためにはもつと真相を明かにすべきである。勿論軍事上、外交上、今日のやうな時勢では、秘密にしなければならないことが沢山あらう。だがそれほどでもないことを「秘」とか「極秘」とか称して他に知らすことを禁ずる風習が一部には極端に行なはれてゐる。秘密だといへば知りたがるのが人情である。人が耳こすりをしてゐるのをみてさへも、何を話してゐるのかと疑ふのが常である。
秘密の存するところには疑惑が伴ふ。疑惑の大なる時、民は政府を信じない。政府が如何に安んぜよ〈ヤスンゼヨ〉といつても、民は安んずるを得ない。幕末ペリィの来航の節、海辺近くの江戸市民は倉皇〈ソウコウ〉として家財を纏めて避難した。真相を知らせすに流言蜚語を取締ることは困難である。いつそ始めから何も知らせないのなら又それもよい。しかしなにも知らせないといふことは殆ど不可能に近い。片鱗を知らせて全貌を隠さんとするのであるから、ますます流言蜚語を生む。しかもその片鱗を示す者は当局者、又はそれに関係ある人人であることが少くないのである。
かくして国民に疑惑を生ぜしめ、神経衰弱に陥らしめんよりは、もつと大胆にして、率直なる政治の行なはれることが望ましい。国民はそれに耐へられるだけの力をもつてゐる。最もよき政治は真実を赤裸裸に示して、以つて国民の進むべき目標を具体的に与へ、その所信を大胆率直に述べることにある。