礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

一年有半にわたる紛争は一段落した

2022-05-13 04:51:18 | コラムと名言

◎一年有半にわたる紛争は一段落した

 中野清見『新しい村つくり』(新評論社、一九五五)を紹介している。本日は、その三十九回目で、第二部「農地改革」の10「和解協定」を紹介する。この章の紹介としては、二回目(最後)。

 彼らを迎えてから計画は少しずつ具体化して行ったが、地主との抗争はいつ果てるとも思えなかった。騒ぎが長くなり、しばしば新聞種にもなったので、両者を妥協させようという動きが、県や県農委の中にも起って来た。私も譲り得る線まで下って和解した方が得策だと考えた。地主側でも情勢が次第に不利になるのを見て、これに応ずる気配を示して来た。遂に〔一九四八年〕七月十日を期して、県農委の代表と県係官を仲介人として、両者が和解のために一堂に会することになった。初めに私や農民組合長、開拓組合長を小作者側の代表とし、地主は岩泉龍他数名が代表となって、村木家で相会した〈アイカイシタ〉。和解条件として示された条項は、私の常にいっていた範囲から出ないもので、特別の譲歩を意味するものではなかった。ただそれまでは相手側で本気に聞いてくれなかったに過ぎないのだ。
 そのあとで、五日市小学校に全員が集まった。県農委の代表小原正嘉が雄弁をふるい、皆その仲介に服することになった。次頁のような協定書が作成され捺印された。しかしこの時の和解には、別に地主の個々から、口頭で条件が述べられ、それを県農地委員と県係官が承諾したというので、後々まで問題を残した。和解協定書の調印と同時に、地主の一人一人が自分の異議と訴願の取下願に捺印したわけだが、それを県から来た人々が、各〈オノオノ〉分担して取扱った。その際地主たちは、買収はされても仕方がないが、その代替地をくれとか、その場所をそのまま自分に配分してくれるかとか申入れたといい、それを各係官、各委員が皆承諾したというのである。そのときはすでに時刻が夜になって、ローソクの灯の下で、あわただしく捺印させた。私は遠くに離れて眺めていた。
 ほっとした気持であった。のちにこの日のことで起った問題は、出来るだけ忠実に守ったが、中には虫のよすぎることをいい出すのもあって困った。本当にそんな約束をしたかと、そのときの係官たちにきいても覚えてないのが多かった。
 ともあれ、これで一年有半に亘る紛争は一段落した。地主たちによってこの日取り下げられた異議、訴願は、提出されたときにも、個々でやったのではなく、統制されていたものである。【後略】

 このあとに、昭和二十三年七月十日付の「和解協定覚書」が引用されるが、割愛する。
 さて、『新しい村つくり』という本の紹介を、ながながと続けてきたが、「和解協定」の章をここまで紹介したところで、この本の紹介を終える。明日は、話題を変える。

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