礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

清水澄の「帝国憲法の解釈に付いて」(1933)を読む

2022-08-09 05:07:47 | コラムと名言

◎清水澄の「帝国憲法の解釈に付いて」(1933)を読む

 憲法学者の清水澄(しみず・とおる、1868~1947)については、このブログで、何回か触れたと記憶する。法学博士、枢密院議長。最近、必要があって、清水澄博士の論文をふたつ読んだ。「帝国憲法の解釈に付いて」、および「帝国憲法改正の限界」である。前者は、『国家学会雑誌』第四七巻第八号(一九三三年八月)所載、後者は、同誌第四八巻第五号(一九三四年五月)所載。
 本日以降、「帝国憲法の解釈に付いて」を読んでみたい。かなり長いので、何回かに分けて紹介する。

  論説  帝 国 憲 法 の 解 釈 に 付 い て    清 水 澄

    
 帝国憲法の条項を改正するには、枢密院官制第六条第二号の規定に依り枢密顧問の諮詢を経、帝国憲法第七十三条の規定に依り帝国議会の議決を経て、之を勅裁せられる。之と異なりて、帝国憲法の条項に関する疑義を解釈するには、枢密院官制第六条第二号の規定に依り枢密顧問の諮詢を経たるのみにて、帝国議会の議決を経る〈フル〉ことなくして、之を勅裁せられる。されば、改正と解釈とは素より之を区別せねばならぬ。之を約言すれば、改正は、既成の法規中に存せざる新条項を追加する場合は別として、既成法規の条項を変更する条項を設くることであり、解釈は、既成法規の条項の意義を明〈アキラカ〉にすることである。かくて、改正と解釈とは一応截然〈セツゼン〉と区別せらるるものであるが、而も両者の間に極めて密接なる関繫〈カンケイ〉を存する。それは、或る法規の条項に関し従前の解釈と異なりたる新解釈を立つるや、其の実際の適用に於ては該条項を改正したると同一の結果を生ずることに依つて明であらう。抑々〈ソモソモ〉また、法規は其の形体たる法文と其の精神たる法意とより成立するものであつて、其の法文を変更するには改正の手続に依るの外はないが、其の法意に至りては単に解釈に依つて之を変更することが出来る。乃ち〈スナワチ〉、法規の改正と其の解釈とは啻に〈タダニ〉其の帰趨を一〈イツ〉にするのみならず、時としては法規の解釈に因つて其の改正と同一の効果を齎す〈モタラス〉ことすらある。世上或る論者は、「法規の解釈も亦立法である」と喝破〈カッパ〉して居る。かかる一見奇怪なる命題と雖〈イエドモ〉、法規の改正と其の解釈との間に存する密接なる関繫に想到すれば、必ずしも一概に之を否定すべきではない。以て、いかに法規の解釈が重大なる価値を有するかを知るべきである。而して、法規の解釈は之を公定する場合と雖、別段の法規を以てするに非ざる〈アラザル〉限り、法規の改正に於けるが如き厳格なる手続を要するものではないだけに、之が為めには努めて慎重なる思索を費さねばならぬ。一般普通の法規の解釈に付て然り。況んや〈イワンヤ〉国家最高の法規たる帝国憲法の解釈に於てをや。
 独逸公法学者リヨエニング氏は、其の著名なる論文「憲法改正の手続に依らざる憲法の改正」に於て、憲法改正の煩瑣なる手続を避くる為め、憲法の或る条項に違反する所為を為し、其の所為の反復せらるること数回なるに及んで、其の所為を実質とする慣習が成立し、其の慣習が進んで慣習法となり、遂に憲法の当該条項が実施せられざるに到ることあるを論じ、且之を承認し、結局憲法の区域に於ても慣習法が成文法を変更するの効力を有するものであることを説いて居る。これは慣習法論者の常套〈ジョウトウ〉の所論であるが、余は年来反対の主張を確守する。余の持説――それは総て〈スベテ〉成文法論者の是認する所である――に従へば、慣習法は成文法に牴触せざる範囲内に於てのみ効力を有するものであつて、従て〈シタガッテ〉慣習法を以て成文法を変更することを得るものではない。法規の解釈に依つて其の法意を変更するを得る〈ウル〉こと前述の如くであるが、それは如何なる場合に於ても慣習法を以て成文法を変更するものではない。何となれば、法規の解釈は従前の解釈を変更するときと雖、法規の条項に違反する所為の原由〈ゲンユ〉となることはなく、一層適実に其の条項に合致する所為を促すものたるに外ならず、従て其の解釈に基きて成立する慣習法は、成文法に対立することはなく、成文法に合体してひたすら其の意義を宣明するものに外ならぬから。ただ、法規の条項に違反する行為を敢てすると、法規の解釈として稍々〈ヤヤ〉其の文詞より離れたる意義を認むるとは、往々間髮を容れざるが如き相隣の関係を有するものであるから、前掲のリヨエニング氏論文は、法規の解釈が頗る〈スコブル〉重要なる価値を有することを示唆するものである。
 英国は由来不文法を国是とする。而も尚、憲法の区域に属するものと認めらるる若干の成文法規を有する。其の憲法的成文法規の条項に違反するを「憲法違反」と称し、憲法上の慣例又は条理に違反するを「違憲」と称して、之を区別しつつ、両者共に努めて避けざるべからざるものと為して居る。其の所謂「違憲」は、動も〈ヤヤモ〉すれば、法規解釈の区域に生ずるであらう。又以て、法規の解釈に深甚なる用意を要することを見るべきである。
 帝国憲法は国家最高の法規なるが故に、特に其の解釈を戒慎すべきこと既記の如くである。更に又、帝国憲法は其の形体極めて簡潔にして、其の条項の数少く各条項の文詞概ね短略であるから、之が解釈に関しては其の其意を捕捉する為めに最も周密なる考慮を払はねばならぬ。
 余は次項以下に於て、帝国憲法の解釈に関する平生〈ヘイゼイ〉の抱懐数件を臚列〈ロレツ〉して、世上の一粲〈イッサン〉に供したいと思ふ。それは概ね嘗て〈カツテ〉実際に疑義を生じたるものか、然らざるも少くとも疑義を生ずるの虞〈オソレ〉あるものである。若し多少の参考とならば幸甚である。【以下、次回】

 文中、「独逸公法学者リヨエニング氏」とあるのは、Edgar Löning(1843-1919)のことか。なお、伊東巳代治編『法律命令論 命令篇』(牧野善兵衛、一八九〇)の第八章第五節は、「ロエニングノ説」と題されている(国立国会図書館デジタルコレクション)。

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