◎安田善次郎の怪腕には玄人筋も舌を捲いた
吉野作造『講学余談』(吉野作造著作集、「主張と閑談」第六、一九二七年五月)から、〝宮島資夫君の「金」を読む―朝日平吾論〟の紹介をおこなっている。本日は、その二回目。
啻に〈タダニ〉之ればかりでない。本書の冒頭に現れた株式市場の攪乱〈コウラン〉の如きも、正に是れ安田翁の常套手段と見做されて居る。私の聞知する所に依れば、無事平穏の際に在て〈アッテ〉は、彼は温顔を以てしきりに金を使つて呉れと頼み廻る。斯く諸方に資金をおろせば、自然株の値段が上つて来る。値段が上れば更にまた貸出をふやす。斯くて景気が進んで最高潮に達した頃、彼は担保に取つた株式を上手に売り始める。之と同時に全国各地の自家系統の銀行に号令一下して急に貸出を引き締めしむる。これ丈でも反動安が来ねばならぬのに、売り始めた持株の数が馬鹿に多い。「金」にも書いてあるやうに、誇張していへば『売らう、売らう、いくらでも売つてやる』といふわけになる。そこで相場は、俄然として暴落せざるを得ない。貸出しを停止した銀行は、株式の暴落に乗じて増担保〈マシタンポ〉をせまる。ぐんぐん押し詰めて敵を追究する手際は、宛も〈アタカモ〉勝に乗ぜるはやり男の無人の野を走るが如きものがある。斯の際彼が何人〈ナンピト〉に対しても又如何なる情実にも断乎として耳を傾けざりしことは、亦普ねく〈アマネク〉人の知る所である。とどのつまり、彼はかねて担保に取つた株式を(実は好景気の時高価で売り放して莫大の利益を収めたのだが)二束三文で引き取ることにする。之等の手管は無論上手に運ばるるのだから、人に尻尾〈シッポ〉をつかまるやうなへまはせぬ。けれども変動のある度毎〈タビゴト〉に、また安田かと財界の人は誰しも老翁を怨みの的にしたものだといふ。只何分財界に絶大の勢力があつたので迂つかり〈ウッカリ〉之に楯突くことが出来なかつたまでのことだ。「金」の中に説いてある大正九年〔一九二〇〕の大変動も、無論安田のいたづらからとはあのころ誰しも観て居つた所だが、消息通の推測する所に依れば、あの騒動に乗じた安田の活躍は、実に前後三回の多きに及び、海山千年の黒人筋〈クロウトスジ〉もその変幻自在窮りなき怪腕には舌を捲いて驚いたものださうな。独りあの時ばかりではない。あの前欧州大戦中にも二度程大きな芝居を打つて居る。何せ勢力が大きいので、相場に乗ずるのではない。自分でおのづから相場を作ることになるのだから、百戦百勝は受合〈ウケアイ〉なわけだ。いこの点に於て彼は実に財界の神様であつた。加之〈シカノミナラズ〉彼は他のすべての実業家と違ひ、毫末も政府の保護に頼らない。真に独立独行であれ丈けの地歩を築き上げたのは、何と謂つても一代の偉人である。其の代り金を以て人を助けるなどいふことは、爪の垢ほどもしなかつた。金の為には親類縁者と絶つて毫も之を苦とせなかつた。彼から不思議に無理な金を借り出し得たものは、跡にも先にも浅野総一郎翁たつた一人位のものだらうといふことである。【以下、次回】
猛暑が続いている。昨三日早朝、この夏初めて、クマゼミの声を聞いた。午後三時前に、遠雷が聞えたが、ついにこの日は雨が降らなかった。