◎清水澄の「帝国憲法改正の限界」(1934)を読む
憲法学者・清水澄(とおる)博士の論文「帝国憲法の解釈に付いて」(『国家学会雑誌』第四七巻第八号、一九三三年八月)を読み終えた。引き続き、同博士の「帝国憲法改正の限界」(『国家学会雑誌』第四八巻第五号、一九三四年五月)を読んでみたい。かなり長いので、何回かに分けて紹介する。
なお、「國體」という言葉については、正字(旧漢字)を使用した。
論説 帝 国 憲 法 改 正 の 限 界 清 水 澄
大日本帝国憲法は、国家根本の法則であり百世不易の法典である。乍併〈シカシナガラ〉、時勢の変遷と事態の推移とに伴つて、時に之に多少の改訂を加ふるの必要に逢著〈ホウチャク〉することなきを保せぬ。いかに根本不易の大法なればとて、国家生存の要求に適合するため、其の条規に幾分の増減を施すの已む〈ヤム〉なき場合に遭遇することは、実に絶無を期し得べき限〈カギリ〉ではない。さればこそ、帝国憲法それ自身もまた将来其の条項を改正するを可とすることあるべきを予想して、其の第七十三条の正文を以て憲法の改正に関する国法上の手続を明定して居る。即ち、将来帝国憲法帝の条項を改正するの必要あるときは、勅命を以て議案を帝国議会の議に付し、両議院は各々の其の総員三分の二以上出席して議事を開き、出席議員三分の二以上の表決を以て之を譏決する。其の議案は帝国議会に提出せらるゝに先つて〈サキダッテ〉枢密顧問の諮詢に付せらるべきこと、枢密院官制(第六条第五号)に明規せられたる所であり、其の帝国議会に於ける議決は更に天皇の御裁可を受けて初めて確定の効力を生ずるに至るものなること、我が国法の情理上疑〈ウタガイ〉を容れざる所である。かくて帝国憲法の改正が成立するや、上諭を附して之を公布すべく、其の上諭には、枢密顧問の諮詢及帝国憲法第七十三条の規定に依る帝国議会の議決を経たる旨を記載し、親署の後御璽〈ギョジ〉を鈐し〈ケンシ〉、内閣総理大臣年月日を記入し他の国務大臣と俱に〈トモニ〉之に副署すべきこと、公式令(第三条)に規定せられたる通りである。
かやうに、帝国憲法は自ら其の条項の改正を予期して、其の改正手続に関する的確なる条規を用意して居る。従て〈シタガッテ〉、関係条規の適用の下に帝国憲法の改正が適法に成立し得べきことは、今更喋々〈チョウチョウ〉を要せぬ所である。だが併し、単に手続上の条規を恪守〈カクシュ〉するに於ては、果して帝国憲法のいかなる条項に付ても適宜の改正を施すことが出来るであらうか。否、断じて然らず。帝国憲法の或る条項は到底変更すべからざるものである。苟くも〈イヤシクモ〉我が憲法の存する限り苟くも我が国家の氓びざる限り、それは絶対的に改訂を許さゞるものである。適法なる手続に拠つてすれば、帝国憲法の孰れ〈イズレ〉の条項と雖〈イエドモ〉之を改正するを妨げずと言ふか如きは、憐むべき誤解か然らざれば憎むべき曲説である。かくて、帝国憲法の改正には、おのづから一定の限界の存することを認めねばならぬ。
然らば、帝国憲法改正の限界は何処から生れて来るか。それは如何なる意趣に胚胎するものであるか。之を概言ずれば、牢乎〈ロウコ〉として動かすべからざる我が国家の根本体制及憲法成立の由来である。我が国家の根本体制は、君主國體たること並に立憲政体たることである。我が憲法成立の由来は、畏くも〈カシコクモ〉明治天皇の叡旨に頼りて〈ヨリテ〉制定せられたる欽定憲法なることである。帰する所、凡そ斯くの如き独特の旨義が、帝国憲法の改正の限度を画定する原由〈ゲンユ〉となるのである。【以下、次回】
文中、「我が国家の氓びざる限り」とあるのは、原文のまま。ここは、「我が国家の泯びざる限り」と表記すべきところである。「氓」には、「ほろぶ」という訓はない。