礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

安房北条駅の駅長室で終戦の放送を聞く

2022-08-15 00:20:10 | コラムと名言

◎安房北条駅の駅長室で終戦の放送を聞く

 例年、この時期になると、一九四五年(昭和二〇)の八月一五日に、どこでどういう形で、終戦の放送を聞いたかという話題が登場する。
 たまたま、昨日、インターネット上に、「房日新聞」の「乗客も玉音放送聞く 8月15日の安房北条駅(千葉県)」という記事を見つけた(8月14日 6:30配信)。本日は、これを紹介してみよう。

 乗客も玉音放送聞く 8月15日の安房北条駅(千葉県)

「終戦の日」はこの時期、メディアで取り上げられる。報道だけでなく、ドラマや映画でも。出征兵士やその家族、祖国を守った人々……。では、あの日、市井の民はどう8月15日を迎えたのか。戦後77年。国民の8割が戦後生まれとなり、戦争体験者が高齢化する中、文献から終戦の日の模様を振り返った。(忍足利彦)

 館山市の那古連合町内会刊行の『那古史』(平成19年発行)。自治体発行の「市町村史」並みの立派な内容だ。
「鉄道の発達」の節があり、ここで現在の館山駅のその日の様子が取り上げられている。昭和20年(1945)4月に、安房北条駅(当時)の駅長に着任した男性(那古史では実名)の日記を掲載している。孫引きになるが、一部を抜粋しよう。
「8月15日早朝、空襲警報のサイレン吹鳴に直ちに出勤す。(略)敵機の攻撃なし。管理部より十二時のご放送時刻にわたり、運転中の列車は、その終了まで発車せしめざる様指令あり」
 正午の玉音放送終了までは、列車の運行を止めたということだ。
 駅長日記は、この放送の自身の受け止めを「ソ連に宣戦布告ならんと想う」と述べている。下り列車が正午前に到着するので、乗客にも通告し、駅長室でラジオを聞くよう手配する。
 5分前に駅員一同がラジオの前に整列。乗客の中の海軍将校、駅員の後に乗客が整列する。
 正午、君が代が流れる。放送が終わると、一同は無言で室外に退出する。
 映画やドラマで、庶民が玉音放送を聞くシーンがあるが、館山駅では、駅員と将校、乗客が放送に耳を傾けたのだ。
 駅長は助役に指示する。「戦いは終わったのだ。これからは、列車運転の確保が急務だ」。だが、駅長自身も「暫(しばら)くは放送を聞き間違いたるに非(あら)ざるか」と戸惑っている。
 この玉音放送後の思いは、全国の国民共通だったであろう。【以下、略】

 文中に、「安房北条駅(当時)」とあるが、内房線「館山駅」の旧称である(一九四六年三月改称)。
 また「那古連合町内会」という名前が出てくる。インターネット情報によれば、館山市には、「館山市町内会連合協議会」という協議会があり、この協議会には、「館山地区連合区長会、三町地区連合会、三軒町連合町内会、六軒町連合町内会、長須賀区連合町内会、八幡連合区、上高湊地区連合町内会、那古地区連合町内会、船形地区連合区長会、西岬地区連合区長会、神戸地区区長会、富崎地区連合区長会、豊房神余地区区長会、館野地区連合町内会、九重地区区長会」が属しているという。「那古地区」とは、かつて、安房郡那古町(なごまち)だった地区を言うのであろう。なお、安房郡那古町は、一九三九年(昭和一四)に、同郡の館山北条町、船形町と合併して館山市を新設した。

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