◎同一の措辞は原則として同一の意義を有する
『国家学会雑誌』第四七巻第八号(一九三三年八月)から、清水澄の論文「帝国憲法の解釈に付いて」を紹介している。本日は、その三回目。文中、傍点が施されている箇所があったが、下線で代用した。
四
帝国憲法の解釈に付ても亦、一般法規の解釈に於けると同じく、文理解釈と論理解釈とを適当に併用せねばならぬ。其の文理解釈に於ては、同一の措辞は原則として同一の意義を有するものと為すべきである。
帝国憲法の数多の条項に「法律」なる措辞が用ひられて居る。それは総て、実質的には法規たり形式的には帝国議会の協賛を経たるものの謂なりと解すべきこと、既述の通りである。帝国憲法第五十七条第一項に、「司法権ハ天皇ノ名ニ於テ法律ニ依リ裁判所之ヲ行フ」とある。裁判所は民事及刑事の訴訟に於て、法律・勅令・省令・さては慣習法・理法とあらゆる法規を捜索し、其の憑拠〈ヒョウキョ〉すべきものに憑拠して事案を裁断せねばならぬ。或る論者は右の条項を以て此の義を規定したるものと為し、従てここに所謂法律は成文法と言はず不文法と言はず裁判の標準となるべき一切の法規を包括するものと解すべしと為して居る。乍併、かかる見解は明に誤謬である。右の条項は、裁判所が法規に憑拠して事案を裁断すべきことを定めたるものではなく、法律の定むる所に従つて訴訟手続を遂行すべきことを定めたるものである。乃ち、裁判所は訴訟手続を遂行するに当り法律に依るの外何等の拘束を受くることなき旨を定め、以て裁判所が行政部に対し独立の地位を有することを明にしたるものに外ならぬ。従つて、ここに謂はゆる法律は、他の条項に於ける法律と何等異なりたる意義を有するものではない。
乍併また、同一の文詞と雖、時として異なりたる意義を有するものと解すべきことがある。
帝国憲法第十七条第二項に「摂政ハ天皇ノ名ニ於テ大権ヲ行フ」とあり同第三十一条に「本章ニ掲ケタル条規ハ戦時又ハ国家事変ノ場合ニ於テ天皇大権ノ施行ヲ妨クルコトナシ」とあり、同第六十七条に「憲法上ノ大権ニ基ツケル既定ノ歳出(中略)ハ政府ノ同意ナクシテ帝国議会之ヲ廃除シ又ハ削減スルコトヲ得ス」とある。帝国憲法の全条項を通じて、「大権」なる措辞の用ひられたるは此の三箇所に止まる。而して、其の意味する所は必ずしも同一でない。第一の大権は、司法権のみを除外したる統治権全体を意味するものであらねばならぬ。何となれば、摂政は天皇に代はりて統治権を総攬せらるべきものであり(帝国憲法第四条)、ただ司法権は常に裁判所に委任して行はしめらるべきものである(帝国憲法第五十七条第一項)が故に。第二の条項は憲法の条規に拘らざる大権の自由の行動を是認するものであるから、そこに所謂大権は帝国憲法に規定なき統治権の作用を意味するものと解するの外はない。而して、第三の大権は其の条項に「憲法上ノ大権」と明に限定してあるから、帝国憲法の条項に掲げられたる大権の作用を意味するものと解すべきこと勿論である。【以下、次回】