礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

八王子で一番の本屋さんは「ようらん社」

2019-07-20 02:19:04 | コラムと名言

◎八王子で一番の本屋さんは「ようらん社」

『丘もゆる』(『暴風雨の中で』の出版を祝う会、一九九七)から、田中紀子さんの「『暴風雨の中で』の出版記念会によせて」という文章を紹介している。本日は、その二回目。

 橋本義夫さんに初めてお会いした当時第三小学校の校長は河本巌先生でしたが、絵の上手な方でした。その河本校長が、私に、八王子で一番の本屋さんは「ようらん社」という本屋だと教えてくださいましたので、その日学校の仕事が終ると直ちに横山町のようらん社へ行きました。
 初めて会った橘本義夫さんは、心から歓迎してくれました。それからの一学期は、ほとんど毎日のように、授業の終るのを待って、明日の教案簿を職員室の前の机の上に置くと、直ちにようらん社へ行き、橋本さんの世相談議や、新本の紹介に耳を傾けました。
 今と違って、新刊本などは極めて少ない時代でしたし、物資不足も目立つようになりつつありましたから、書物の出版も大へんな時代でした。殊に昭和十一年〔一九三六〕十一月二十五日に、日独防共協定が結ばれ、「共産インターナショナルに対する日独協定」ということで、日本は反ソ、反共を軸として、ドイツと提携することによって大陸政策を有利にし、国際的孤立を打開するためのものでした。
 書店には、新刊としてヒットラーの『わが闘争』(マイン・カンプ)やヒットラーユーゲントの組織的で科学的な教育方法や、訓練された学生達の写真などの載った本などがありました。橋本さんは、日本の教育に比べて、組織的で科学的な教育方針に感動しておりましたから、口角泡をとばすの勢いで話してくれました。昭和十二年〔一九三七〕十一月六日にはイタリアの参加で、日独伊防共協定へと進み、更に昭和十五年〔一九四〇〕には日独伊三国同盟が結ばれ、日本中が湧き返っておりました。
 私は昭和十三年〔一九三八〕三月に結婚し、日野に住むこととなりましたが、相変らず勤務学校は八王子市内の学校で、三小、盲学校、二小、尋高(現七小)と転々といたしましたが、折を見てはようらん社へはよく寄りました。初めの頃は、和服の似合う美人の奥さんが、お店の本にハタキをかけているのを時々見掛けました。幼い鋼二さんもまれにお店に見えておりました。【以下、次回】

 ここに、「尋高」とあるのは、「八王子尋常高等小学校」のことである。この小学校は、「尋常科」と「高等科」が併置されていた。「三小」、「二小」とあるのは、それぞれ、「八王子第三尋常小学校」、「八王子第二尋常小学校」。つまり、「尋常科」のみで、「高等科」は置かれていなかったのだろう。現・八王子市立第七小学校は、一八九二年(明治二五)六月に、「八王子高等小学校」として発足、当初は、「高等科」のみの小学校だったという。一八九三年(明治二六)八月、八王子尋常小学校を増築し、同居。一九一〇年(明治四三)三月、八王子尋常高等小学校と改称。そのあと、一九一六年(大正五)七月に高等科を分離したようだが、一九一七年(大正一〇)四月、新たに「八王子尋常高等小学校」が設立された。――インターネット情報によって、このように書いてみたが、あるいは、事実誤認があるかもしれない。

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