◎八王子市第三尋常小学校の火災と田中与四郎訓導
先日、『丘もゆる』(『暴風雨の中で』の出版を祝う会、一九九七)を手にした。ふだん記運動で知られる橋本義夫(一九〇二~一九八五)に、『暴風雨〈アラシ〉の中で』(ふだん記旭川グループ、一九九六年六月)という遺著(橋本鋼二編)がある。『丘もゆる』は、一九九六年一〇月六日に八王子市内で開かれた「『暴風雨の中で』の出版を祝う会」の記録である。
多くの出席者の発言、あるいは関係者の文章が掲載されているが、まず注目したのは、田中紀子〈トシコ〉さんの「『暴風雨の中で』の出版記念会によせて」という文章である。田中紀子さん(故人)は、歴史民俗学研究会の会員で、一九九六年二月から二〇〇三年三月まで、同会の機関誌『歴史民俗学』に健筆を揮っておられた。
『暴風雨の中で』の出版記念会によせて 田 中 紀 子
【前略】
私が橋本さんに初めてお会いしましたのは今から五十八年前の昭和十二年〔一九三七〕の四月でした。八王子市寺町の第三小学校は、今でも同じ場所に、新校舎が建っておりますが、私が勤めた頃には木造でした。その校舎は翌年〔ママ〕、近所からの貰い火で焼失しましたが、その日は亡夫の宿直でした。当日私は松本へ行く用事があって八王子駅へ着いた時に、第三小学校が焼けたことを知りました。松本行を中止して直ちに第三小学校へ行きますと、先生方が数人おられ、田中君は御真影を市役所へ運んで市役所にいるということでした。市役所へ行くと夫は寝巻の浴衣〈ユカタ〉のまま素足でおりました。私は直ちに日野へ帰り、夫の洋服とシャツ、靴などを届けました。昔は何を置いても、御真影を先ず他へ移すことが第一の仕事でした。今とは全く違う雰囲気でした。昨日椚國男〈クヌギ・クニオ〉さんの『土の巨人』の出版記念を兼ねてたましん地域文化財団主催の見学会があり、その時第三小学校の前を通って、八王子市郷土資料館へ参りましたので、ついなつかしくて横道へそれてしまいましたが、五十年や六十年は夢の間にすぎますね。
本日の紹介は、とりあえずここまで。田中紀子さんが「亡夫」と言われているのは、のちに都立立川高校の名物教師(「政治経済」担当)となる田中与四郎先生のことである。田中与四郎先生が、府立二中の教諭になる以前に、八王子の第三尋常小学校の訓導を務めておられたことは知らなかった。同校の火災で焼失した際、御真影を運び出したことも、もちろん知らなかった。
なお、インターネット情報によれば、八王子市第三尋常小学校は、一九三九年(昭和一四)八月一〇日、東校舎より出火、十四教室を全焼したという。
また、手元の『東京市教育関係職員録』(勝田書店、一九四二年一二月)によれば、田中与四郎先生は、一九四二年(昭和一七)七月現在で、すでに府立第二中学校に教諭として在籍されている。
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