◎国鉄総裁下山事件のミステリー(大森実)
先日、近所の古書店で、大森実著『日本はなぜ戦争に二度負けたか』(中央公論社、一九九八)を買い求めた。
タイトルは、内容とは、ほど遠いものがある。「日本はなぜ戦争に二度負けたか」について、ジャーナリスト大森実が、みずからの見解を示した本ではなく、「国際記者」として知られた大森実が、みずから立ち合い、取材してきた数々の重大事件について解説している本である。看板に偽りはあるものの、本自体は、スリリングで興味深い。文章も読みやすい。
本日は、同書のうち、「17 国鉄総裁下山事件のミステリー Ⅰ」の章を紹介してみたい。
17 国鉄総裁下山事件のミステリー Ⅰ
昭電事件後、一九四九年一月二十三日に行われた総選挙で、吉田〔茂〕民自党〔民主自由党〕は二百六十四議席をとって安定政権となったが、反面、共産党は、前回の四議席から一挙に三十五議席に躍進した。空前の勢力伸張で、共産党が最高点を記録したところは、東京一区で野坂参三、大阪一区で志賀義雄のほか全国八選挙区に及んだ。これは、思想的に左右の振幅が大きくなったこと、すなわち極端な戦後インフレで貧富の差が開いたことを意味していたが、社会党が四十八議席に転落した数字が示す通り、昭和電工事件で、国民が日和見主義政党にソッポを向いた結果とも言えよう。片山哲〈テツ〉、加藤勘十〈カンジュウ〉、加藤シヅエらが落選した。
吉田第三次政権の発足直前であったが、トルーマン米大統領は、デトロイト銀行頭取のジョセフ・ドッジを日本に派遣した。
日本をアジアにおける共産主義侵略の防波堤にするという基本政策を決定した米政府は、最悪事態に達しつつあった日本のハイパー・インフレを沈静させる必要を感じたのである。
丸いフレームレス眼鏡に、黒ソフト、黒のオーバー、いかにもバンカーらしい服装で来日したドッジは、日本経済を「竹馬経済だ」と酷評した。
「日本の経済は両足を地につけていない。竹馬である。一つの竹馬の足はアメリカの援助の上に乗っかり、もう一つの足は国の補助金制度に乗っている。両足を上げようとすると転倒するから、緊急に竹馬経済を矯正する必要がある」
ドッジ・ラインと呼ばれるようになるが、その安定政策の大綱は、三本立てになっていた。
第一は、総予算の均衡化で、財政支出を総ナメにカットするオスティリティ(緊縮)政策に併行して、同じころ来日したシャープ勧告に基づく、直接税中心の大税制改革を実行すること。第二はあらゆる国家補助金にナタを振るうこと。第三はインフレの主原因だった日銀引き受けの復興金融金庫債(国債)の発行を停止、回収することであった。
ドッジは、この三目標を三年で達成するようマッカーサー元帥に義務づけたが、均衡予算の目標は達せられて、インフレは安定化に向かったが、極端な予算削減に伴う公私企業のリストラ( 人員整理と賃金カット)が強行されたため、国鉄九万五千人の首切りに象徴された社会不安は、二・一ゼネスト前夜〔一九四七〕を凌ぐものがあった。
これは「安定恐慌」と呼ばれ、社会不安は全国的に広がった。
吉田首相は、ドッジ・ラインの執行者として、池田勇人を蔵相に起用したが、池田は、「ドッジ・ラインという大政策転換をやるためには、五人や十人の業者が倒産し、自殺者が出てもやむを得ない」とする、有名な問題発言を行った。
ドッジは、日本の物価を国際物価にサヤ寄せする〔開きをせばめる〕という意味で、単一為替レートを設定した。一ドル三百六十円に設定されたこのレートは、一九七一年のニクソン・シヨックによる変動相場制まで続くこととなる。
ドッジは、日本の鉄鋼生産目標を百八十万トン(戦前五百万トンだった)にし、その三分の一に当たる六十三万トンを輸出に当てさせたが、これは明らかに「飢餓輪出」で、インフレ克服のための外貨獲得という目的のウラには、冷戦激化に伴う、アメリカ国内とマーシャル・プラン〔欧州復興計画〕の鉄鋼不足分を日本に依存しようという狙いもあった。
【一行アキ】
国鉄総裁下山事件の第一報を報じた四九年七月六日付けの朝日新聞記事は次の通りであった。
「国鉄総裁・下山定則氏(四十九歳)は、七月五日午前八時半、大田区上池上町〈カミイケガミマチ〉の自宅を乗用車で国鉄本社に向かい、途中、丸の内千代田銀行本店に立ち寄った後、日本嬌三越本店に入ったまま行方不明となった。午後三時、国鉄と運輸省当局から国鉄本部、警視庁に捜査を願い出、当局は直ちに都内及び近県に手配、捜査を行っているが、三越に入った以後の同氏の足跡は全く謎に包まれたままである。
乗用車の大西〔政雄〕運転手は、夕刻まで三越前で下山氏を待っていたが、午後五時のラジオ・ニュースで同氏の行方不明が報じられているのを知り、びっくりして国鉄本庁に電話連絡した。警視庁は、同運転手を取り調べた結果、拉致、誘拐の可能性よりも事故の公算が多いとの見解をとっている。
下山氏は大正十四年〔一九二五〕東大出の技術者で、運輪次官を経て、この六月に日本国有鉄道の初代総裁になったばかりである」
この記事の通り、国鉄が「日本国有鉄道公社」となり、下山定則〈サダノリ〉が初代総裁に任命されたのは六月一日であったが、GHQの担当官シャグノン中佐から、ドッジ・ラインに沿う行政整理の至上命令として、九万五千名の首切りが伝達され、三万七百名の第一次整理者リストが国鉄各職場で発表されたのは、下山総裁が失踪した前日(七月四日)であった。
国鉄労組は、解雇通告返上政策をとり、労組内の共産党フラクション鈴木市蔵(前出)は、ゼネスト指令を出す構えを見せていた。【以下、次回】
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