礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

フィヒテ、生産的独立性と自己充足性を説く

2025-01-16 00:03:08 | コラムと名言
◎フィヒテ、生産的独立性と自己充足性を説く

『社会経済史学』第9巻第2号(1939年5月)から、フィヒテ著・出口勇蔵訳『封鎖商業国家論』(弘文堂書房、1938年8月)についての梶山力の書評を紹介している。本日は、その三回目。

 この計画経済の原理については、もちろんその大綱が示されてゐるだけである。だが、それが今日世界に拡まりつゝある統制経済の形態ときはめて類似してゐることに、吾々は驚異を感ぜずにはゐられない。たとへばフィヒテは外国貿易への倚存〈イゾン〉が国民経済を不安にするといふ理由から、国内自給に移行すべきことを説いていふ、「何人であれ外国人との市民の直接の取引の一切は、徹底的に廃棄されなければならぬといふこと、このことが要求されてゐるのである。……」(一七八頁)また「その際には(即ち国家の自然的境界を決定する際)、たゞ単に軍事的に掩護〈エンゴ〉された要害堅固な国境のみに注意すべきでは決してないのであつて、遥かに多く生産的独立性と自己充足性とに一層注意すべきである。」(一七八頁)そして代用品の問題にも論及されてゐるのである。また生産及び労働の統制については、フィヒテは三つの階級(生産者・職人・商人)の人員が互ひに一定の均衡を保つやうにすべきことを説いて云ふ。「或専門に於て労働者が欠乏する惧〈オソレ〉があるやうな際には、市民をこの専門につくやうに奨励する仕方は、その製品の値上げを行ひ、これによつて他の階級を出し抜いた利益を得ることが彼らに許されるといふことに依るのであつてならない。」(四二~四三頁)そこでその合理的方法について述べてゐるのである。最後にもう一つ、価格統制について彼のいふところを聞かう。「商人は、彼がその人々の手から商品を受取るところの生産者及び工人に対して、この両者が耕作したり製造したりする間は彼らの業務にふさはしい快適性をもつて生活しうるだけのものを、支払はねばならぬ。商品を商人の手からしか受取らぬところの商人以外の人は、この購買価格以上に、商人も亦その取引期間には同一の尺度に従つて生活しうる様になるだけそれだけ尚ほ多く支払はねばならぬ。……一切の商品のこの二重の価格(即ち、商人の購買価格と販売価格)を、政府は設立せられた根本命題にふさはしい予めなされた計画に従つて、法律によつて規定し、刑罰を以てこれを監視しなければならない。」(五七~五八頁)こゝに説かれてゐるものは、今日固有の意味の価格統制――即ち原価計算を基礎とする価格形成の方法にほかならないのである。
 かうしたフィヒテの革新的思想については、それが社会主義であるかないかについて、さまざまの見解がおこなはれてゐる。リッカート〔Rickert〕やマリアンネ・ウエーバー〔Marianne Weber〕等が社会主義としてみるのに反して、シュパン〔Spann〕やメーリング〔Mehring〕は各々の立場から、それを社会主義とは全く無関係なものとしてゐるのである。が、さうした議論は結局言葉のうへの問題にすぎないことを知らねばならない。シュパンのやうにデモクラシーを社会主義の本質的要素とするならば、勿論フィヒテは社会主義者ではないであらう。だがもしアルフレット・ローゼンベルク〔Alfred Rosenberg〕のやうに「個体或ひは全共同体が一切労働力を搾取されぬやうに一集合体が保証すること」をもつて社会主義とするならば――それは吾々の見解に最も近いものであるが――フィヒテの主張は最も純粋な意昧での社会主義にほかならないのである。〈117~118ページ〉【以下、次回】

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« プロレタリアとしての立場を... | トップ |   
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

コラムと名言」カテゴリの最新記事