◎デング熱研究70年、堀田進博士の業績
昨日の報道によれば、東京都は、代々木公園のほとんどの区域について、立ち入り禁止の措置をとったという。代々木公園で採集したヒトスジシマカから、デング熱ウイルスが発見されたからだという。適切な措置であると思う。
ただし、遅きに失したとも言える。一昨日の報道によれば、全国に散らばっているデング熱の発症者は、すべて代々木公園を訪れているという。関係機関が、この事実を把握したのが、いつであったかは知らないが、それを把握した時点で(蚊の採集および検査以前に)、代々木公園を閉鎖してもよかったと思う。
さて、昨日の当ブログに対しては、かなりアクセスが多かった(おそらく歴代15位)。本日は話題を変えようかと思ったが、もう少し、「デング熱」の話を続けよう。
一昨日のコラムで、デング熱研究の権威である堀田進博士に言及したが、本日は、同博士の業績について述べる。といっても、インターネット上で読んだ追悼文の主要部分を紹介するだけである。この追悼文は、『ウイルス』第六一巻第二号(二〇一一)に掲載されたものだという。
故 堀田進先生を偲んで
小西英二 大阪大学微生物病研究所 寄附研究部門教授
日本ウイルス学会名誉会員で、神戸大学名誉教授の堀田進先生は、平成23年〔二〇一一〕11月17日に御逝去されました。堀田先生と御一緒に長年デングウイルスや日本脳炎ウイルスの研究を続けてきた門下生を代表して、お別れの言葉を述べさせていただきます。
堀田進先生は大正7年〔一九一八〕9月26日のお生まれで、幼少期からずっと大阪で過ごされました。昭和17年〔一九四二〕に京都帝国大学(現京都大学)医学部を卒業後、木村廉教授(当時)が主宰されていた同医学部の微生物学講座に入局され、デングウイルスの研究を開始されました。そして、翌昭和18年〔一九四三〕に、太平洋戦争中の復員兵が東南アジアから持ち帰り長崎で流行したデングの患者さんからデングウイルスの分離に成功されました(英文雑誌での報告は昭和27年〔一九五二〕)。この時の分離ウイルスは患者さんの名前に困んでデングウイルス1型望月株(Dengue virus type 1,Mochizuki strain)と名付けられ、世界で最初のデングウイルス分離株として認められています。昭和28年〔一九五三〕から昭和30年〔一九五五〕まで米国シアトル市にあるワシントン大学医学部に留学され、微生物学講座のChar1es A.Evans教授のもとでデングウイルスの研究を行い、昭和33年〔一九五八〕に同大学から博士号(Ph.D.)を授与されておられます。留学から帰国後まもなく昭和32年〔一九五七〕に兵庫県立神戸医科大学(昭和39年〔一九六四〕に国立移管して神戸大学医学部)に教授として赴任されてからも、デングウイルスや日本脳炎ウイルスの研究を続けられ、昭和57年〔一九八二〕に神戸大学を御退官されるまで、一貫してデングウイルスの研究に邁進されました。さらに、神戸大学御退官後も、昭和60年〔一九八五〕から平成元年〔一九八九〕まで金沢医科大学熱帯医学研究所長として同研究所の運営に努められる傍ら、デングウイルスや日本脳炎ウイルスの研究指導にも携わられました。
堀田先生は、太平洋戦争終戦後間もなく、当時の新進気鋭のウイルス学者の諸先生方と共に、昭和24年〔一九四九〕のヴィールス談話会(後の日本ウイルス学会)の発会と、昭椥26年〔一九五一〕からの雑誌「VIRUS」(後の「ウイルス」)の発行に編集委員として貢献されました。創刊号を含む初期の巻号は、数年前に日本ウイルス学会が全巻号のPDF保存版を作成した時に国内の主要大学・研究機関では見つかりませんでしたが、堀田先生が在職された神戸大学医学部微生物学講座に保管されていることがわかり、PDF保存版の原本になったと伺っています。
堀田先生は、デングウイルスの研究を通して、東南アジアとの学術交流を積極的に進められました。その端緒は昭和39年〔一九六四〕に開始された神戸医科大学インドネシア医学調査隊に遡ることができ、昭和40年〔一九六五〕には第二次調査隊の隊長としてインドネシア各地で研究調査を実施されました。それらの海外医学学術交流活動が文部省(当時)に評価され、昭和54年〔一九七九〕の神戸大学医学部附属医学研究国際交流センターの設立に繋がり、堀田先生もセンター長として多大の貢献をされました。なかでも、インドネシア大学医学部長、学長、そしてインドネシア保健大臣を歴任されたSujudi教授と親交が深く、多くの若手(当時)インドネシア人医学教育者・研究者の人材育成にも尽力されました。インドネシアとの活発な学術交流は、日本学術振興会(JSPS)による「アジア地域等学術交流事業・二国間拠点大学事業」や「大型共同研究方式による多国間拠点大学事業」を通してさらに確固たるものとなりました。【中略】
このような堀田進先生のデングウイルス研究の御功績及び海外学術交流への御貢献に対して勲三等旭日中授章(1992年)を受章されています。
堀田先生は晩年には足が不自由になり車イス生活を送っておられましたが、デングに対する知的好奇心はすこぶる旺盛で、こつこつと執筆活動を続けておられたようです。御逝去の数ヶ月前に、“Dengue and Dengue Virus”という英文の書物を出版されたと伺っております。なんと約70年間、デング研究を続けてこられたことになります。筆者も堀田先生の並々ならぬ向学心を少しでも見習いたいものと思っています。これまでの長い間に堀田先生からいただいた御指導と先生の御功績に対し、尊敬と感謝の意を表しますと共に、心からのご冥福をお祈り申し上げます。合掌
このあとにある「故 堀田 進 先生 御略歴」によれば、堀田進博士は、一九四二年(昭和一七)二月に、京都帝国大学医学部を卒業し、同月、同学部の副手、同年三月、同学部の助手になっている。この年は、長崎で、デング熱が流行した年である。博士は、さっそくデング熱の研究に着手し、翌一九四三年、長崎の望月という患者から、デングウイルス1型望月株(Dengue virus type 1,Mochizuki strain)を分離した。それから、逝去の年である二〇一一年に、“Dengue and Dengue Virus”を出版するまで、デング熱の研究を続けたわけであるから、文字通り、「デング熱研究七〇年」ということになる。
さて、貴著「日本保守思想のアポリア」( 批評社)へのわたしのブログコメント、ご引用OKです。はなはだ光栄ですが、つい親密に書く余りつい狎昵に流れる癖があります。
お詫びします。