◎某伍長は、銃を左手に持ち代えて車の踏み台に立ち……
昨日のコラムの補足である。
昨日のコラムで、鈴木貫太郎の回想記に出てくる「飯島博士」とは、「たぶん飯島博博士のことであろう」と書いた。この推定は、間違っていなかった。そう書いたあとに、国立国会図書館に赴いて調べたところ、飯島博博士は、戦後になって、「生きていた侍従長」という文章を雑誌に発表していた。あまり知られていない文章だと思うので、本日と明日は、これを紹介してみよう。出典は、『小説公園』第四巻第八号(一九五三年八月)である。
生 き て い た 侍 従 長 飯 島 博【いいじま ひろし】
昭和十一年二月二十六日、日本中を震撼【しんかん】させた所謂「二・二六事件」は、最近に至つて小説「叛乱」においてその全貌が再現されました。尨大【ぼうだい】な資料を縦横に駆使して、よくここまで事実を調べ上げたものと賞賛の的となつておりますが、なおもここで私が口を挟むもうとするのは、折角評判の小説に半畳を入れるためでは勿論なく、私自身鈴木侍従長の身近にあつて治療し、親しく事件を見聞【けんぶん】したものとして、なお一層の正確さを願い、立派な作品として洛陽【らくよう】の紙価を貴からしめたい気持に他なりません。
そ の 前 夜【略】
鈴 木 侍 従 長 斃 る
【約三ページ分、略】
その時パッと飛び込んで来た人が、血潮でべつとりと濡れた畳に、危く滑りそうになりながら、
「奥様、私が来ました」
と云つた。この日まつ先にやつて来た塩田〔廣重〕先生であつた。
急場のこととて、繃帯の用意もないことを見てとると、側〈ソバ〉に白羽二重〈シロハブタエ〉を引裂いて頭部に巻き始めた。この時、稲垣、足立、吉田の三先生が現れ、後を追うように令嬢の「さかへ」さんや子息の「一」さん夫妻もやつて来た。
一同はじつと息を呑んで、医師の繃帯を巻く手を見詰めていた。やがてそれが済もうとした時、
「なんだか腰がさむい」
という侍従長の声に、躯〈カラダ〉を静かに蒲団に移した時だつた。顔色が土気色〈ツチケイロ〉に急変し、目を閉じてしまつた。
一同は色を失つた。
ことの重大さに部屋中が狼狽の渦〈ウズ〉に落ちこむ中にあつて、「一」さんと「さかへ」さんは端然と坐したまま、顔色こそ変つていたが、決して見苦しい態度を見せようとはしなかつた。「一」さんの夫人「布美子」さんは、最初侍従長の姿を見た時烈しく嗚咽【おえつ】したが、やはり取乱さなかつた。
一方そうした近親者たちの毅然とし態度をよそに、医者たちはあわてふためいていた。
それは責任の余りの重大さに、心身を鞭〈ムチ〉うたれたからであろう。
塩田先生は二十分も経たない中〈ウチ〉に、二人の白衣の先生を伴つて戻つて来た。「リンゲル」液が直ちに注入された。この適切な処置が侍従長を死から救うキッカケとなつた のであつた。
【一行アキ】
鈴木侍従長襲撃の電話を受けると、私はすぐに車に飛び乗つて、大森山王の自宅から京浜国道を北へ北へと急いだ。輸血が遅れてはならなかつた。
葵坂〈アオイザカ〉まで来ると、坂の途中に少数の兵がいて車を通してくれない。朝早くからの雪中演習と思つて、車を戻し、現在の文部省の北側の急坂を昇つて、首相官邸前の三角形の広場に出た。
此処も沢山の兵隊で固められていて、車は物々しい銃剣に取り囲まれてしまつた。これは只事じやないと気付いたが、何と弁明しても通行を許してくれない。その時、訊問するためにやつて来た伍長が、
「アッ、先生ですか。私は三年前に手術してもらつて御世話になつた某というものです。これからどちらへ行かれますか」
といつたので私は吃驚【びつくり】したが、早速渡りに舟と、急患があつて九段方面に往診する由〈ヨシ〉を語つたところ、詰問するどころか、銃を左手に持ち代えて車の踏み台に突つ立ち決つ立ち、窓枠に右手をかけて、要所要所に挨拶し、英国大使館附近まで送り出してくれたので、ようやく虎口を脱することが出来た。
官邸の外部は尾島〔健次郎〕という曹長が機関銃を持ち、六十名の兵隊とともに警戒していたのだから、若しこの時、あの伍長に出遇わなかつたならば、私は殺されたかも知れないし、侍従長を救う機会を永久に失つてしまつただろう。実に天佑というべきである。【以下、次回】
特に、【一行アキ】以降は、当事者以外には語れない、貴重な証言だと思う。それにしても、この「伍長」の名前がわからないものだろうか。
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