礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

鈴木貫太郎「ここに一つ不思議な話があつた」

2023-01-16 02:57:53 | コラムと名言

◎鈴木貫太郎「ここに一つ不思議な話があつた」

『特集文藝春秋 天皇白書』(一九五六年九月)から、鈴木貫太郎の回想記「嵐の侍従長八年」を紹介している。本日は、その六回目(最後)。昨日、紹介した「思想の犠牲 安藤大尉」の節のあとにある「死より再生す」の節を紹介する。
 なお、この「死より再生す」の節は、かつて、当ブログの〝鈴木貫太郎を救った夫人の「霊気術止血法」〟という記事の中で、「二・二六事件」の節とともに、紹介したことがある(2016・2・25)。それと重複するが、補足することもあるので、再度、紹介しておきたい。

  死より再生す
 襲撃隊が引揚げると同時に、妻は私を抱き起して出血する個所、殊に頭と胸の血止めに努めた。それから電話で事の次第を侍従職に告げ侍医の来診をお願いした。その時の当直の侍従は黒田〔長敬〕子爵であつたが、すぐ知合いの塩田廣重博士に電話で診察を頼んでくれた。間もなく真先に湯浅〔倉平〕宮内大臣が見舞に見えられたので、私はその御好意を感謝し、「私は大丈夫ですから御安心して頂くよう、どうか陛下に申上げて下さい」とお願いした。血が、ドクドクと流れるので、妻から「もう口を利いてはいけません」と云われた。つづいて廣幡〔忠隆〕皇后宮大夫が見舞に来られた時は只目礼で謝意を表した。まだ三十分から一時間と経たないうちに、塩田博士が御自分の自動車を待つ間ももどかしく、円タクを拾つて駈けつけて下さつた。博士は妻に、「私が来たから大丈夫だ、御安心なさい」と言葉をかけて部屋へ入ると、一面の血に辷つて〈スベッテ〉転ばれたのであつた。博士はお宅を出る時飯田町の日本医大に緊急の用意を命令して来られたので、御自身は医療の道具を持つておられなかつた。すぐ現状を診断され、気忙し気〈キゼワシゲ〉に妻に繃帯はありませんかと云われ、ありませんと答えると何でもいいから白布を出しなさいとのことで、それならばと羽二重〈ハブタエ〉の反物を切つて使つた。一応それで出血を止めた。私は寒い寒いと云つたそうだが、だんだん冷たくなる、脚が冷える、例とかしてくれそうなものだと思つたが、怪我をした者は動かしてはいけないというので畳の上に転がつたままだつた。それでもどうやら一間〈イッケン〉ばかりの所につくつた床の上に移されたが、その動かした後で意識がなくなつてしまつた。塩田博士は雪の中を円タクを見つけて日本医大へ行かれたが、この時には稲垣博士と吉田博士が見えていた。稲垣さんは輸血の方へ電話をかける。妻は駄目かと心配しながら懸命に霊気術をかけている。そこへ白衣の塩田博士が二名の助手を連れて帰つて来られた。すぐにリンゲルの注射が打たれ、この時私は気がついた。
 飯島〔博〕博士が輸血者を連れて来て、稲垣さんが輸血をすることになつた。五百グラム採血する途中、脈がだんだん衰弱して来てこれ以上待てないので、取敢えず三百グラム注入するとこれがよく利いた。脈がしつかりして来たので十畳の間へ移り、夜になつてから床の下に乾板を入れてレントゲンを撮り弾丸のありかを調べた。こうして治療は続けられて行つたが、ここに一つ不思議な話があつた。それは飯島博士が輸血者を伴なつて急いで来る途中、総理大臣官邸の前で兵に車を止められた。それで議会の方へ抜けようとすると又止められて何処へ行くと問われた。鈴木侍従長の所へ行くと云つたら、下士官が行つちやあいかんと云つて自動車へ乗り込んで来た。そして御案内しましようと云つて英国大使館前までついて来てくれ、ここまで来れば大丈夫ですと別れた。それは飯島さんの病院で一カ月前に助けられた人だつた。
 十日間絶対安静で仰向けに寝たままだつたが一週間目ぐらいに塩田博士から「もうこちらのものになりましたよ」と云われたので愁眉を開いた。
 この時の顳顬【こめかみ】に入つた弾丸は耳の後に抜け心臓部の弾丸は背中にとどまつて今でも残つている。心臓を貫いたのだというのと、その傍を廻つたのだというのと二説ある。最近は心臓を貫いてもすぐ血をとめれば生ききられると云うことだが、これは妻が必死にやつた霊気術止血法が成功したのかも知れない。
 私は最初死去したと報道され、後〈ノチ〉重傷で命は取り留めたと報道されたので、叛軍が再撃を図る恐れがあるというので、当局では厳重な警戒を怠らなかつたそうである。
 臥床中宮中から栄養物、スープ、牛乳など毎日のように御鄭重な御下賜品があつた。私は御慈愛に感激した。又各方面からの懇ろな御見舞を受けて感謝に堪えなかつた。
 傷は重かつたのに拘わらず予後は順調で五月中旬頃参内して親しく御礼を申上げ、その夏には葉山にお伴し、九月北海道の陸軍大演習にも、十月の海軍特別大演箇にもお伴したが、奉仕は七十になつたら御辞退申上げるつもりでいたので、丁度その十一月に御暇を願うことにし、幸いお許しが出たので時従長八年の奉仕を終えることになつたのである。その翌年から毎年二月二十六日には齋藤實高橋是清渡邊錠太郎大将のお墓詣りをすることを今日まで定例としている次第である。
 侍従長を拝辞してかけは専ら枢密顧問官としてお勤めし、昭和十五年〔一九四〇〕枢密院副議長、同十九年〔一九四四〕議長。終戦内閣の総理大臣になつた。

 飯島博士というのは、たぶん飯島博医学博士のことであろう(同博士には、「輸血」関係の論文がある)。それにしても、飯島博士と輸血者が乗った車を、飯島博士に世話になったことがある下士官が停止させ、安全なところまで案内したというのは、ずいぶん「不思議な話」である。
 ところで、二〇一六年に当ブログで、この「死より再生す」という文章を紹介したとき、「霊気術」をインターネット検索したところ、「鈴木貫太郎の命を救ったレイキ(日本発祥の手当て療法)」という記事にヒットした。その記事によれば、レイキ(霊気術)とは塩谷信男医学博士(一九〇二~二〇〇八)が開発した「ハンドヒーリング」である、とのことだった。
 今回、改めて、その記事を読もうとしたが、どうしても見つからなかった。かわりに、ウィキペディアに、「臼井甕男」という項を見つけた。同項によれば、「現在レイキとして世界中に広まっている手当て療法を中心とした民間療法」は、臼井甕男(うすい・みかお、一八六五~一九二六)が創始した「臼井靈氣療法」のことだという。
 臼井甕男は、一九二二年(大正一一)四月に、「臼井霊気療法学会」を設立したという。時期からいって、鈴木たかが、同学会の「霊気術」を学んでいたことはありうる。ただし、臼井甕男と鈴木たかとの接点は未詳。

今日の名言 2023・1・16

◎もうこちらのものになりましたよ

 瀕死の鈴木貫太郎を救った日本医大の塩田廣重博士の言葉。あやうく「あの世」の者になるところが、「この世」の者として戻ってきたという意味だろう。上記コラム参照。

*このブログの人気記事 2023・1・16(9・10位に珍しいものが入っています)

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