◎出口勇蔵訳『封鎖商業国家論』(1938)の「訳者序言」
ここで、フィヒテ著・出口勇蔵訳の『封鎖商業国家論』(弘文堂書房、1938年8月)を読んでみたい。今日、この本は、国立国会図書館のデジタルコレクションで、容易に閲覧できる。本当は、訳者・出口勇蔵による「解説」を紹介したいところだが、これは60ページ分もあるので(9~68ページ)、紹介を断念し、その代わりとして、「訳者序言」を紹介したいと思う。
これもかなり長いので、前後二回に分けて紹介する。
訳 者 序 言
本書はJohann Gottlieb Fichte; Der geschlossene Handelsstaat(1800)の全訳である。テキストとして、J・H・フィヒテ編纂の全集版を用ひ、かたはらメディクス編纂の哲学文庫版とヴェンティヒ編纂の社会科学名匠集版とを参照した。後の二つには、而して最後のものには特に、誤植が多いやうである。訳文の便宜上適当と思はれるところには、ダッシュを補つたが、原文のダッシュと区別して示すことをしなかつた。訳文の上欄に示されてあるローマ数字トアラビア数字とは、全集版の巻数とその頁数である。
フィヒテは吾国では『知識学』や『独逸国民に告ぐ』やによつて、哲学界ならびに相当広範囲の読者層の間では知られてゐる。けれども彼の経済思想に至つては、専門雑誌に於て若干の論議が加へられたに過ぎなかつたやうである。この独逸理想主義の勇士から実践的な政策論を聴くべく、本書を、吾国の読者に近づけることは、二重の意味に於て重要であると思ふ。一つには、吾国の哲学界が従来の認識論的な方向を去つて、歴史的社会的現実の基礎理論の探求に進みつゝある情勢の下にあつて、本書は実践理論を通してのフィヒテの再評価再批判に役立つであらう。二つには、経済学の専攻者に対しては、政治経済学の基底に立てらるべき経済哲学への自覚が別して要求せられつゝある現代に於て、本書は此要求に答へて経済哲学の一つの古典的な型を提供するであらう。
フィヒテは古い封建制の土壌から頭をもたげたドイツに於ける資本主義の芽生〈メバエ〉が、フランスに於ける血腥い〈チナマグサイ〉ブルヂョア革命の雷鳴のとゞろく大暴風雨の余波を受けて、特異な形態に変容したところのドイツ的現実に生き且つ思索した。彼は十八世紀と十九世紀との両つ〈フタツ〉の面貌を持つ「ヤーヌスの頭の所有者」(ウィンデルバント)である。フィヒテが生きたドイツの現実の複雑な構成とその思想的表現の多岐性とそれらのめまぐるしい変遷とは、彼の思想を一つの天才的な思想の芽生の平静な順当な発展であると見ることを許さない。故に本書が正当に読まれるためには、フィヒテとの環境との理解が予め〈アラカジメ〉必要である。そこで訳者は此必要を満たすために、貧しいながらも「解説」を草し、之を訳文の前に添へて、本書の成立までのフィヒテの社会思想の概観と、本書の公刊前後の事情とを、社会的現実との相即〈ソウソク〉に於て説明した。又本書が従来解されて来、又現在解されつゝある種々の立場をも併せて読者に示しておいた。本書の健全な理解と、読者の自由な批判とに対して、此解説が読者を妨げることなくして役立つならば、と訳者は思ふ。〈1~3ページ〉【以下、次回】
ここで、フィヒテ著・出口勇蔵訳の『封鎖商業国家論』(弘文堂書房、1938年8月)を読んでみたい。今日、この本は、国立国会図書館のデジタルコレクションで、容易に閲覧できる。本当は、訳者・出口勇蔵による「解説」を紹介したいところだが、これは60ページ分もあるので(9~68ページ)、紹介を断念し、その代わりとして、「訳者序言」を紹介したいと思う。
これもかなり長いので、前後二回に分けて紹介する。
訳 者 序 言
本書はJohann Gottlieb Fichte; Der geschlossene Handelsstaat(1800)の全訳である。テキストとして、J・H・フィヒテ編纂の全集版を用ひ、かたはらメディクス編纂の哲学文庫版とヴェンティヒ編纂の社会科学名匠集版とを参照した。後の二つには、而して最後のものには特に、誤植が多いやうである。訳文の便宜上適当と思はれるところには、ダッシュを補つたが、原文のダッシュと区別して示すことをしなかつた。訳文の上欄に示されてあるローマ数字トアラビア数字とは、全集版の巻数とその頁数である。
フィヒテは吾国では『知識学』や『独逸国民に告ぐ』やによつて、哲学界ならびに相当広範囲の読者層の間では知られてゐる。けれども彼の経済思想に至つては、専門雑誌に於て若干の論議が加へられたに過ぎなかつたやうである。この独逸理想主義の勇士から実践的な政策論を聴くべく、本書を、吾国の読者に近づけることは、二重の意味に於て重要であると思ふ。一つには、吾国の哲学界が従来の認識論的な方向を去つて、歴史的社会的現実の基礎理論の探求に進みつゝある情勢の下にあつて、本書は実践理論を通してのフィヒテの再評価再批判に役立つであらう。二つには、経済学の専攻者に対しては、政治経済学の基底に立てらるべき経済哲学への自覚が別して要求せられつゝある現代に於て、本書は此要求に答へて経済哲学の一つの古典的な型を提供するであらう。
フィヒテは古い封建制の土壌から頭をもたげたドイツに於ける資本主義の芽生〈メバエ〉が、フランスに於ける血腥い〈チナマグサイ〉ブルヂョア革命の雷鳴のとゞろく大暴風雨の余波を受けて、特異な形態に変容したところのドイツ的現実に生き且つ思索した。彼は十八世紀と十九世紀との両つ〈フタツ〉の面貌を持つ「ヤーヌスの頭の所有者」(ウィンデルバント)である。フィヒテが生きたドイツの現実の複雑な構成とその思想的表現の多岐性とそれらのめまぐるしい変遷とは、彼の思想を一つの天才的な思想の芽生の平静な順当な発展であると見ることを許さない。故に本書が正当に読まれるためには、フィヒテとの環境との理解が予め〈アラカジメ〉必要である。そこで訳者は此必要を満たすために、貧しいながらも「解説」を草し、之を訳文の前に添へて、本書の成立までのフィヒテの社会思想の概観と、本書の公刊前後の事情とを、社会的現実との相即〈ソウソク〉に於て説明した。又本書が従来解されて来、又現在解されつゝある種々の立場をも併せて読者に示しておいた。本書の健全な理解と、読者の自由な批判とに対して、此解説が読者を妨げることなくして役立つならば、と訳者は思ふ。〈1~3ページ〉【以下、次回】
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