◎内郷村の村落調査、「お歴々方の農村研究」と事前報道
一九一八年(大正七)の八月後半、柳田國男らによって、神奈川県津久井郡内郷村を対象とする村落調査が実施されたことは、数日前のコラムで紹介した。この村落調査については、その実施前あるいは実施後に、新聞紙上で紹介がおこなわれ、かなり大きな話題となっていた模様である。
まず、実施前の新聞報道を見てみよう。以下は、『横浜貿易新報』(『神奈川新聞』の前身)が同年七月一九日に報じた記事である。この記事は、『相模湖町史 民俗編』(相模原市、二〇〇七)に引用されているものを重引させていただく。
●お歴々方の農村研究
新渡戸博士を始めに柳田貴族院書記官長等
来月半〈ナカバ〉本県津久井郡に
出張して実地に其研究
東京小石川小日向台一ノ七五新渡戸〔稲造〕博士邸で十七日の午後六時から郷土研究会と言ふ面白い相談会が開かれた、来会者は主人博士を中心に斯道〈シドウ〉の
▽権威者で 現に貴族院の書記官長たる柳田國男氏外〈ホカ〉同会員であるが、此の夏期を利用して本県下津久井郡内郷村〈ウチゴウムラ〉を歴史地理の上から充分研究して見るに就いて、各自其の担当科と顔振〈カオブレ〉とを極めやうと云ふのが会合の主な目的であつた、右について会員の一人は語る『研究資料の豊満な
▽農村なり 漁村を探し出すと云ふことは頗る〈スコブル〉至難の業〈ギョウ〉であつたが、幸ひ神奈川県下に理想的の土地を得たので愈々〈イヨイヨ〉実行することとなつたのである勿論全村の生活状態から家屋の構造、地勢河水、交通、教育、宗教など凡そ〈オヨソ〉人文地文に干繋〈カンケイ〉あるものは悉く〈コトゴトク〉
▽研究する 筈〈ハズ〉であるから何う〈ドウ〉しても村民其ものの承諾を得る〈ウル〉の必要もあるが幸ひ土地の智識階級の人の好意で全村を学術研究のために開放して呉れる事になつたから割合に趣味ある且つ有益な結果を得られると思ふ出発は多分八月十五日ごろであらう云々』
この記事にある「会員の一人」は、「幸ひ土地の智識階級の人の好意で全村を学術研究のために開放して呉れる事になつた」と語っているが、こうした楽観的な期待が、結果的には、この村落調査を「失敗」に終らせた一因になったと言えよう。なお、取材に応じた「会員の一人」というのは、おそらく柳田國男のことであろう。
『相模湖町史 民俗編』によれば、この前日の七月一八日、『東京日日新聞』が、「学術的に内郷村の研究」という記事を載せているようだが、記事そのものの紹介はない。ちなみに、『相模湖町史 民俗編』の編集に当たったのは、倉石忠彦氏および小川直之氏であるという(ともに、民俗学者)。【この話、続く】
今日の名言 2012・9・15
◎俺も父さも変りなく朝も早よから畑仕事
1955年(昭和30)年にヒットした歌謡曲「ご機嫌さんよ達者かね」の一節。作詞・高野公男、作曲・船村徹、歌・三橋美智也。「俺も父さも」は、〈オラモトトサモ〉と読む。一昨日13日の東京新聞夕刊「この道」より。この歌は、半世紀以上前、ラジオでよく聞いたものだが、東京に出てきた青年が、ふるさとから届いた母の手紙を読むという設定になっていたとは知らなかった。
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