礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

1918年8月15日、内郷村の村落調査始まる(付・自作自演の国難)

2012-09-16 06:08:31 | 日記

◎1918年8月15日、内郷村の村落調査始まる

 一九一八年(大正七)の八月一〇日、今度は、『東京朝日新聞』が取りあげた。この記事も紹介しておこう。この記事は、『相模湖町史 民俗編』(相模原市、二〇〇七)の四二七ページに影印の形で載っている。

 ●一個の村を隅々まで
  研究する郷土会
  ▽此夏は神奈川県津久井内郷村に出張す
 新渡戸〔稲造〕博士を中心とせる郷土会は本年夏季中の記念事業として休暇を利用し地理、歴史、理科等の専門家が各自地方の調査用紙を作り
▲此様式を 実地の当りて研究する為め研究材料の豊富なる一村を選択したる結果神奈川県津久井内郷村を以て之〈コレ〉に充つる〈アツル〉事とし此処〈ココ〉にて全村の生活状態、建築、河水〈カスイ〉其他全般に亘り仔細に研鑽する由〈ヨシ〉一行は新渡戸、三宅(驥一)、草野(俊一)の三博士〈ハカセ〉、柳田〔國男〕貴族院書記官長、石黒〔忠篤〕、小平〔権一〕両農商務商農務局事務次官、田中〔信良〕鉄道院副参事、中桐〔確太郎〕早大
▲分科教授 正木〔助次郎〕東京府第三中学教諭、陸軍技師田村鎮外〈ホカ〉数氏にして滞在期間は来る十五日より二十五日迄の十日間、宿泊所は内郷村正覚寺〈ショウカクジ〉なりといふが内郷村は相模川〈サガミガワ〉の上流道志川〈ドウシガワ〉との合流地点に近く吉野与瀬の古駅に隣り〔接し〕有名なる石老山下〈セキロウサンカ〉なり

 句読点がほとんどなく読みにくいが、これが、当時の新聞記事は、これが一般的であった。
 さて、この段階にいたると、参加者、日程、宿舎などが、かなりハッキリしてきたことがわかる。ただし、記事に挙げられた参加予定者と、実際の参加者との間には、若干の異動があった。
 内郷村の場所についても、短い紹介がおこなわれている。相模川の上流で、道志川が合流するあたりといってもわかりにくいが、相模湖ピクニックランドのあたりいえば、位置がつかめる方もあろう。
 引用記事中、「吉野与瀬の古駅」とあるのは、甲州街道の吉野宿および与瀬宿の意味である。当時、内郷村から最も近い鉄道の駅は、中央本線の与瀬駅(現在の相模湖駅)であった。
 調査は始まったのは、八月一五日であった。参加者のひとりである小田内通敏(早稲田大学講師)は、その日の一行の様子を、次のように生き生きと描写している。

 一行の大部は飯田町駅から乗車したが悉く〈コトゴトク〉揃ったのは新宿駅、十人十色の打装なれど心は同じ内郷村、吉祥寺・境両駅を過ぐる頃、窓外広き武蔵野農村の眺〈ナガメ〉ははやくも一行の心をそそり、あの作物は何、桑の仕立方はどうのとそろそろ調査の練習が始まった。多摩川を渡り日野・豊田両駅を通ると、南多摩の山影は南の窓に落ち、山麓の農家の厳しき構えは、はや武蔵野農村のそれと異れるを感ぜしめた。南の窓から北の窓に吹き抜くる風も一際涼しく、程遠からぬ内郷村の気分もさこそと思われた。
与瀬駅に着き、村長や校長を始め村の有志に迎へられつつ南に桑畑の間を下り〈クダリ〉、流〈ナガレ〉速き桂川に架った釣橋の上に立った時、自分は一種の馴しさ〈ナツカシサ〉と嬉しさを感じたが、一行の顔を窺くと何れも包みきれぬ喜〈ヨロコビ〉と希望とをあらはし、佐藤〔功一〕君などは巧に柳田君の得意な時のヂェスチアを語っていた。

 これは、『都会及農村』第四巻第一一号(一九一八年同年一一月)に掲載された「内郷村踏査記」の一部である。ただし、原文を参照することができなかったので、『相模湖町史 民俗編』から重引させていただいた。引用文中、「打装」は「扮装」の誤植ではないかという気がしたが、そのままにしておいた。【この話、さらに続く】

今日の名言 2012・9・16

◎あの国難は、いわば自作自演の国難ではなかったか

 脚本家の早坂暁〈ハヤサカ・アキラ〉さんの言葉。本日の日本経済新聞「文化」欄より。早坂さんのいう「あの国難」とは、元寇と太平洋戦争の双方を指す。早坂さんは、いわば直観の提示にとどめているが、これは検証に価する大きな問題提起であろう。

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