◎古賀峯一連合艦隊司令長官は飛行機に乗って逃げた
安藤良雄編著『昭和政治経済史への証言 中』(毎日新聞社、一九七二)から、遠藤三郎元陸軍中将の証言を紹介している。本日は、その六回目(最後)。
サイパンで最後の痛手
―― 航空機生産が資材の欠乏によって崩壊せざるをえなくなったのは、直接的には海上輸送の崩壊、つまりだいたいサイパンの陥落(昭和十九年七月)あたりでしょうか。
遠藤 そうです。サイパンのときは大西〔滝治郎〕さんはえらいと思うのですけれども、私と大西さんと航空兵器総局の仕事は二の次にして、サイパンの確保に全力を注ぐよう陸海統帥部に意見具申をしておった。ただ意見を具申してもきかんから、二人で手分けして、私は三笠宮〔崇仁親王〕を通じて天皇様に直訴する。大西さんは高松宮〔宣仁親王〕を通じて天皇様に直訴して、あそこで航空決戦をやる。あそこで決戦して負けたらお手上げでやめる。あそこでならば私は勝てるという判断だったのです。というのは、すぐ南にテニヤンがあるでしょう。あそこの飛行場はまだ確保しておる。北のほうでは硫黄島〈イオウトウ〉の飛行場がりっぱに使えるし、南ではトラック島、西のほうにはフィリピンとパラオに飛行場をもっている。それに反して米軍はあの当時、航空母艦からでなくちゃサイパンまでこれない時期です。だからこっちはもう一か八か、全航空戦力をあげてあそこで決戦をやる。そうしてあそこに敵の飛行場をつくらせない。サイパンにいる日本の守備軍にはお気の毒だけれども、ゲリラ戦でもいいから最後まで抵抗してもらう。そして飛行場の占領を妨害する。パラオで油がなくなって動けないでいる連合艦隊にも死に花を咲かすべく、片道の油だけはなんとかしてサイパンまで行って、サイパンに擱坐〈カクザ〉するのです。これは私はサイパンの地形を見てきておりますからよく知っているのです。あそこは泥ですから、ひっくり返らんのです。全速力で浅瀬に乗りあげれば、ちゃんとすわっている。そうして上陸したアメリカ軍の兵隊のケツを串刺しにして、飛行場をつくらせないように砲撃する。そうしてあそこで決戦する。アメリカは日本とちがって上陸したものを見殺しには致しませんから、増援隊を送る。増援隊は船でくるのですし、飛行機にしても航空母艦を基地にしてくるのですから、それを相手にこっちはシラミつぶしにしてやる。そうしたらアメリカもこれ以上やるのはいやだと。ことにご婦人の力がそうとう強い国だから、夫や愛人がバタバタ死ねばいくさをやめてくれやせんかというので、そういう意見具申をやっておった。
ところが高松宮様も三笠宮様も転任させられちゃったのですよ。そうして「陸軍のほうでは、決戦するならば陸軍を二個師団増派しなければならん」というので、きかないわけで す。「とんでもない、そんなことをしたら日露戦争のときの常陸丸を何べんも繰り返すようなものだし、こっちが決戦に使う航空兵力を護衛に使わなければならん。それではいくさ にならんじゃないか」というのだけれども、参謀本部の作戦を担当している部長、課長がわからないから、決戦しようと思うと銃剣をもった兵隊をやらにゃだめだと思っている。しかし海軍のほうはその気になりまして、連合艦隊は出ていくことにきめました。そうして古賀(峯一)連合艦隊司令長官がパラオから出ていったわけですよ。
ところが、飛行機を飛ばしたあとで、敵に見つかったという情報が届いた。そこで航空母艦に帰ってくるはずの飛行機を飛ばしっぱなしにして、艦隊はいのちからがらパラオに逃げてきたけれども、船で帰っちゃ間に合わんというわけで、古賀連合艦隊司令長官は飛行機に乗り、福留参謀長(繁。中将。太平洋戦争開戦時、軍令部第一部長、敗戦時は第十三航空艦隊長官)も別の飛行機に乗ってフィリピンに逃げたのです、船を置いて。これは罪悪だと思うんじゃけんどね。それで古賀連合艦隊司令長官は行方不明です。スコールにあったか、敵につかまったかわからないけれども、とにかく行方不明です(戦死)。福留氏は幸いにしてフィリピンまでたどりついたけれども、日本軍のいないところに着陸しちゃってひどい目にあったあげく、生命だけは助かって帰ってきましたが、出て行った飛行機は終わりですよ。
すでにミッドウェー海戦(昭和十七年六月)で海軍は航空戦力の大半をなくしていました。それに加えて今回のサイパン出撃でもう海軍の航空は全滅です。とても戦争遂行の能力なし。また私の本任務に帰っても、サイパンを失えば日本本土を爆撃されますから、もう航空工業もなにもありゃせんというので戦意を失っちゃった。バカらしい。「こんな阿呆らしいいくさやっておってもしようがない」と思って、任務を放擲しようと思ったが、これまた大西さんに忠告されて思いとどまりました。大西さんというのはえらいですな。「長官、ヤケ起こすんじゃない、必ずもう一度戦機がくると思うから、我慢しましよう。その戦機を待ちましよう」。そうして彼はすばらしい意見具申書を書いた。それを私に、ちょっと見ていただきましょうという。見ましたら、ほんとうに涙がこぼれるような、諸葛孔明の出師の表〈スイシノヒョウ〉を見るようなりっぱな戦局転換の意見書です。要は首班人事の交代です。第一は、 嶋田(繁太郎)海軍大臣が軍令部総長の兼務をやめて、海軍大臣に専念する。軍令部長には末次(信正)大将を予備から現役に復活してきてもらう。そうして海箪次官には多田(武雄)中将、これも海軍大学を出ない人ですけれども、人物としてはりっぱな人です。その次に私の驚いたのは、あの難局にもっとも苦しい仕事である海軍の軍令部次長に乃公〈ダイコウ〉みずから行くというのです。その勇気と、私心のないということに感激したですよ。ほんとうに涙のこぼれるような意見具申であるけれども、その次がいけない。「条件として陸軍は参謀次長 に遠藤をもっていけ」というのです。
それで私は、「せっかくの意見具申がこれで台なしだ」といった。陸軍は私をそんなに高く買っていないのです。それに参謀次長には優秀な河辺虎四郎中将がなったばかり(昭和二十年四月就任。その前に駐ソ、駐独武官、飛行団長等歴任)じゃないか。どうしてそれを更迭できるか。そんな馬鹿なことをいったら、せっかくのあなたの意見が汚れるから消しなさいといったのだが、これはあなたの部下の航空兵器総局の総務局長としての意見具申じゃない、一海軍軍人としての意見具申だから、なにも長官から指図を受ける必要はない。ただ徳義上見てもらっただけだ。こういうわけです。
その意見具申を見た当局は大さわぎです。「遠藤と大西でクーデターやるから、二人ともすぐ東京から退去させにゃいかん。二人ともフィリピンにやれ」。大西は第一航空艦隊司令長官、私は第四航空軍司令官に出すというわけです。これはいよいよもってまた死刑の宣告だわいと思っておったら、こんどは軍需大臣が抗議を申し込みまして、二人いっしょじゃ困る、順序をつけて出してもらわんと、航空兵器総局の仕事はストップしちゃうというわけで、直接意見書を書いた大西滝治郎氏が第一に出されちゃったのですよ(その後大西氏は昭和和二十年五月末に軍令部次長に戻った)。そして私は残りました。
その後も第四軍司令官にという話があったけれども、またどこからか抗議が出ましてね。行かずに終わりまで長官をやっておったもんだから、生命が助かったわけで、本日あなた 方にお目にかかれたのもそのおかげですよ。
話が余談になりましたが、航空生産の崩壊の最大原因は資材の不足、爆撃の激化もさることながら、根本原因は戦争目的の不純にあるのでしょうね。「大東亜共栄圏」などと美名に飾られておりましたが、やはり日本の帝国主義的不純なものであったことは否めません。それゆえ、日清戦争や日露戦争のときのように国民の一致協力ができず、緒戦の成功に心おごり、戦況が非になると戦意を失い、真におのれを空しゅう〈ムナシュウ〉した真剣さに欠けておったことを忘却することはできないでしょう。アジア諸国の真の協力を得られなかったこともそのゆえでありましょう。
「これは罪悪だと思うんじゃけんどね」という一言に、遠藤三郎の苦々しい感情が読みとれる。なお、本書三一一ページに、次のような注がある。
遠藤三郎氏 明治二十六年〔一八九三〕、山形県に生まれる。大正十一年〔一九二二〕陸大卒、参謀本部部員、フランス駐在を経て、参謀本部、関東軍等の要職を歴任したが、日華事変期には、野戦重砲兵第五連隊長として華北に出征、太平洋戦争では第三飛行団長としてジャワ攻略戦などに参加した。陸軍航空士官学校長から陸軍航空本部総務部長を歴任、 昭和十八年〔一九四三〕、軍需省航空兵器総局長官に就任した。陸軍中将。戦後は、平和憲法擁護国民連合の常任理事。
明日は、話題を変える。
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