礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「足すり合うも戸塚の縁」(内海桂子師匠)

2020-08-30 00:03:54 | コラムと名言

◎「足すり合うも戸塚の縁」(内海桂子師匠)

 一昨日の新聞報道によれば、今月二二日、漫才師の内海桂子師匠が亡くなられたという。九十七歳。ご冥福をお祈りいたします。
 師匠は、本業の話芸のみならず、エッセイを得意とされ、『転んだら起きればいいさ』(主婦と生活社、一九八九)、『七転び八起き人生訓』(主婦と生活社、一九九一)など、多数の著書がある。
 私は、以前から、師匠の『七転び八起き人生訓』を座右に置き、愛読してきた。今月一日に刊行した『独学文章術』では、その付録で、『七転び八起き人生訓』中の「袖すり合うも他生の縁」という一文を推奨しておいた。
 本日は、その「袖すり合うも他生の縁」の全文を紹介してみたい。これを味読しながら、しばし、故人を偲びたいと思う。

袖すり合うも他生の縁
〇忘れられない古い旅籠での一夜

 はからずも戸塚の古い旅籠【はたご】に泊まって、いろいろ学んだことがありました。昭和三十四年〔一九五九〕のことで、現天皇陛下が美智子様と結婚なさった年です。
 私は小田原の公会堂で昼夜興行の仕事があり、昼の部が終わってから、街に買い物に出かけました。そこでしゃれこけてパンタロンとハイヒールを買い、それに着替えてから、会場に戻りました。夜の部もたいへんな盛況で、入り口にお客さんが行列していたので、私は美智子様気取りで手を振って会場に入ろうとしたのです。
 あの当時、美智子様が国民に手を振られるしぐさが流行【はや】っていたので、それをまねたつもりでしたが、慣れないことを、しかも新しいハイヒールを履いてやったものですから、つんのめって足首を捻挫【ねんざ】してしまいました。それでも痛みをこらえて、なんとか舞台をすませました。
 その翌日は小田原からさほど遠くない戸塚での仕事が待っています。ボウリング場の開場式に出ることになっていたのですが、当初の予定ではいったん東京の自宅に戻り、明くる朝、出直そうとしていました。ところが、マネジャーとして同伴していた息子が、
「母さん、足を引きずって行ったり来たりするのも大変だから、戸塚に泊まりなさい。ぼくがあした車で迎えに来よう」
 と言ってくれたので、そうすることにしました。
 息子とは戸塚駅で別れて、駅前でタクシーを拾い、「どこかいい旅館に行ってちょうだい」と頼んだところ、駅の近くの古風な旅籠屋に運んでくれました。足を引きずって玄関まで行き、「泊めてください」と大声を出しても、しばらく応答がない。ようやく出てきたのがそこの主人で、
「きょうはお客は一人もいないし、うちの連中は熱海に行っていて、一人で留守番をしているんだ。それでよかったら、泊まっていきな」
 と言うのです。見ると、その主人も足を引きずっていました。
 夜も遅くなっていて、お腹【なか】もすいていたので、食事を頼むと、
「おれは足を捻挫していて何もできないから、店屋物でもとろうじゃないの」
 と言うのです。
 寿司が来るのを待つ間、主人は、
「姐【ねえ】さんも捻挫したのかい。なら、おれがきょう戸塚の総合病院でもらってきた膏薬【こうやく】があるから、これ貼りなよ」 
 と、大きな膏薬袋を差し出してくれるのです。そこで二人は仲よく足首に膏薬を貼りました。
 やがて二人分の寿司が届いたので、主人と一緒に炬燧【こたつ】で食べることにしました。ここか ら炬燧で向かい合っての面白い話が始まります。
「姐さん、三下【みくだ】り半というのを見たことあるかい」と、いきなり聞くのです。私が首を振ると、「年季証文【ねんきしょうもん】は知っているだろう」とも聞かれました。
「知りません」
 と言つたら、
「芝居なんかで見せる証文は、はじっこが切れているけど、あれは証文にはならないんだよ。証文というのは一枚漉【す】きでなければ役に立たないんだ」
 と言い、主人は痛い足をひきずり、簞笥【たんす】の中から分厚い紙束を出して戻ってきました。 
「これが本当の年季証文だよ。おれんとこは古い旅籠だから、昔は飯盛り女というのがいてね。親が娘を連れてきて、五両借りるのと引き替えに娘を飯盛り女として置いていった んだ。そのときに三年とか五年の年季を決めて、証文を取ったというわけだ」
 と、奉書紙の証文を見せながら教えてくれました。
「この年季証文を取ると、娘がどんな男に抱かれても、親は文句が言えなかったんだ」
「どうして?」
「十両盗んでつかまったら、首をはねられた時代だ。五両借りるというのは体半分売ったことになるのさ。だけど、五両の値打ちは四両二分だったので、親は四両二分しか借りられなかったんだ。それで証文には親から兄弟から親戚にいたるまで全員が判を押させられたものだ。もっとも、女は判を持っていなかったから、爪印というのを押していたんだよ」
 その証文には、娘にいかようなことがあっても苦情は申しません、という意味のことが書かれていました。封建的な江戸時代の貧民の苦しさがわかるようです。
 話はまだ続きます。
「姐さん、昔は自分の判をどこにしまっておいたか知ってるかい」
「知りませんね」
「煙管【きせる】入れの尻にしまったんだよ。江戸時代には華奢【きやしや】禁令(奢侈【しやし】禁止令)があって、ぜいたくしちゃいけないというんで、百姓は竹筒で作った煙管を使っていて、煙管入れの尻んとこに判が入るようになっていたんだ。ただ、男は判を持っていたけれど、女は大店【おおだな】のおかみさんでもないかぎり、判を持たせてもらえなかったので、爪印を押していたのさ」
「爪印というのは今の拇印【ぼいん】と同じですね」
「そう、この世に二つとない印だよ。それから、百姓が字を書けないというのは、本当はうそなんだ。字が書けたから、年貢米を納めるときに、なんのたれべえ何俵納めた、というのを自分で書けたんだよ。書けなかったら、村役が代筆したり、十人衆とかが証人になってくれないと、納められなかったからね」
 こんな話が夜のふけるまで続いたのです。
 この旅籠屋には江戸時代からの古いものが保存されているし、主【あるじ】の頭には当時の世相がいっぱい詰まっていました。それもそのはず十六代も続いていた旅籠屋というのですから。
 この旅籠屋はいまや転業していますが、私にとっては捻挫の足が取り持つ縁で忘れられません。『袖【そで】すり合うも他生【たしよう】の縁』と言いますが、さしずめ『足すり合うも戸塚の縁』とでも言うのですかね。
『袖すり合う……』と同じような意味で『一村雨【ひとむらさめ】の雨やどり』というのがあり、なかなか風情があって私の好きなことわざです。

*このブログの人気記事 2020・8・30(10位に極めて珍しいものが入っています)

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