◎光の中を歩まう(『光』創刊号より)
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
何か、新年にふさわしい題材はないかと思っていたところ、たまたま、雑誌『光』の創刊号が出てきたので、本日は、これを紹介してみる。
雑誌『光』は、光文社が最初に手掛けた出版とされる。その第一巻第一号(創刊号)は、奥付によれば、「昭和二十年九月十五日印刷納本/昭和二十年十月一日発行」である。編輯人は丸尾文七、発行人は小玉邦雄となっている。本文三二ページ、定価八〇銭。
その巻頭(表紙見返し)に、「創刊のことば 光の中を歩まう」が載っている。無署名だが、おそらく丸尾文七の執筆にかかるものであろう。本日は、この「光の中を歩まう」を紹介してみたい。
◇創刊のことば◇
光 の 中 を 歩 ま う
日本は敗れた。そして無条件降伏をした。それは暁に見た夢ではなくて厳たる現実であり、冷静に、敗因を討尋すると、敗れたのには敗れただけの理由があつたことを率直に認めなければならない。
だが我々は敗れたことによつて、錯覚と迷妄とから脱却し、理想的文化国家としての新発程をなしうることになつたのである。
このときに当つて、何よりも必要なことは、深い反省であり、その反省から来る創造的躍進である。
日本は民主主義国家となることを世界に向つて公約した。尤も、日本に於ける民主主義が日本の國體と完全なる調和の上に立脚することはいふまでもないが、それにしても、既に民主主義国家たる決意の上に新生しようとするに当り、特に、今後は、武備なき国家として進むのであるから、平和と道義との中に高度の文化を建設若くは創造してゆかねばならないのである。
そのためには、国民一般の文化水準も高められねばならないし、出版も亦、そのための文化寄与のためにのみ在らねばならない。
全く出版は自由でなければならぬ。それは憲法第二十九条が炳乎として明示したところである。しかるに、法律の範囲内でさへ言論、著作、印行の自由が完全にまで抑圧されてゐた。しかるに、今やその歪曲から解放され、言論表明の自由は取戻された。
人々は自由な気持で、あるべき化日本のために考へ、発言し、且行動しうるやうになつた。いや、進んでさうしなければならぬ責務をさへ持つに至つた。
そして平和的文化国家を理想的な段階にまで押し進めねばならぬのである。そしてそれは日本国民全体の肩にかゝつてゐる問題ではあるが、特に若き人々の熱意に依存してゐるといへよう。その意味で新しい光は、若き人々から発射されねばならない。彼等こそ、新しい時代の、即ち民主主義文化日本の発行体であり、文化闘士ともならねばならないのである。
昨日までは全く暗き日本であつた。だが、これからは光と自由との清新な日本に再生しようとしてゐる。条理と明智との日本、科学知識を高く、芸術味豊かに世界人類の文化に寄与しなけれぱならないのだ。
暗黒は悪魔の棲家であり、罪悪の巣となり易い。だが、今日の日本には 光が徐々に射し始めたのだ。そして光の中を歩むのが、これからの日本及び日本人の態度であり、心構へでなければならぬ。みんなが、善き意思をもち、正しく明るい光の道を手を携へて進んで行かねばならない。人々は心から覚醒し、そして各自の良識に依拠し、曽ていひ慣されてゐた言葉―東海の君子国―といつたそれを、自由と民主主義的清明さのうちに、ほんたうに具体現する必要がある。
凡ゆるものに光が添はねばならぬ。さうだ、無智が闇だとすれば、明智は光だ。科学の進歩に遅れてゐることはそれだけ闇の陰影の澱んであることであり、それが進歩すればするほどそれだけ光度を増すのだ。また芸術の香気が高く、道義の力が強くなればなるに従つてそれだけ燭光が加はるのだ。さうすることによつてのみ文化の発揚が可能である。
今の日本は,全く日本にとつて曽てない大切な時である。人々は敗戦と敗戦から来た暗鬱に絶望してはならない。絶望は闇だからだ。そして希望を強くもたねばならぬ。希望は光だからである。
光、それが我々を、それのみが我々を救ひ、我々を強くする。
光の実義を諸事万般について考へる必要がある所以である。
若干、コメントする。「敗れたのには敗れただけの理由があつた」ことを率直に認め、「理想的文化国家」を展望しているところは評価したい。執筆者は、しかし、「創造的躍進」を目指し、「若き人々」に対して、「新しい時代の、即ち民主主義文化日本の発光体」たれ、「文化闘士」たれ、などと訴えている。このあたりの「教導」調、叱咤激励調に、戦中との連続性を見ることができる。
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