礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

昭和天皇の心配や西園寺公望の憂慮は現実のものとなった

2021-10-16 04:14:48 | コラムと名言

◎昭和天皇の心配や西園寺公望の憂慮は現実のものとなった

 先月の二四日から三〇日にかけて、近衛文麿の「三国同盟に就て」という文章を紹介した。その後、偶然に、近衛のこの文章を厳しく批判している論文を見つけた。本日以降、これを紹介させていただきたい。
 その論文は、渡辺俊一氏の「近衛文麿と国体主義」である。渡辺氏の著書(論文集)『福沢諭吉の予言――文明主義対国体主義』(東京図書出版、二〇一六年四月)の一部である。
 渡辺氏は、この論文の二三一ページ上段で、近衛の「三国同盟に就て」について、「言い訳と責任逃れに満ちた三国同盟に関するこの文章は、近衛という人間の本性を示すものである」と酷評している。
 渡辺氏の「三国同盟」観、あるいは「近衛文麿」評を正確に捉えるために、少しページを遡ったところから、同論文を読んでゆくことにしたい。

 ㈢ 三国同盟と新体制
 近衛〔文麿〕の国体主義に基づく内外の政策は外国においても大きな影響を及ぼすことになる。対外硬特有の客観的な外国の情勢や国際世論に無関心の近衛は、このような国際的反響に殆ど無頓着であった。既に悪化していた日米関係は、近衛の登場とその政策によってさらに深刻化した。米国は〔一九四一年〕七月には、石油とくず鉄などの軍需品の輸出制限を強化し、九月に日本が仏印に進駐すると、くず鉄及び鉄銅の輸出禁止措置をとった。日本が対米戦争の口実とした「経済封鎖」とか「ABCDの包囲」とは、日本の侵略的政策に対する反応であり、英米の一方的な政策ではない。しかし、この様な関係悪化が、直ちに日米間の戦争に転化するわけではなかった。中国問題で米国が日本と戦争する可能性は低かった。しかし、日独伊三国同盟は直接に戦争に通じる決定的な政策であった。既に前年〔一九三九〕に欧州大戦が始まり英国はドイツと死闘を繰り広げていた。米国は英国を援けてナチスドイツを亡すという基本的政策を確立していた。そのような状況の中で、日本がドイツと同盟を結ぶということは、明確に米国の敵対陣営に立つことを意味した。
 内政における新体制運動に匹敵する、外交面での第二次近衛内閣の最重要政策が三国同盟の締結であった。近衛が松岡洋右を外相に起用し、荻窪会談で「日独伊枢軸の強化」が合意されたことで、三国同盟は殆ど既定の路線であった。事態を憂慮していた西園寺〔公望〕は〔一九四〇年〕九月二日に、「今日の様なやり方では、陛下の御聡明を蔽ふやうに」なると言って、近衛に注意してくれと原田に言った。そして「差し当つてはドイツが戦勝国となるやうに見えるかもしれないけれども、しかし結局はやはりイギリス側の勝利に帰すると自分は思ふ」と述べていた。この様に、最晩年の西園寺が最も心を痛めていたのは三国同盟の問題であり、結局はこの問題に関する煩悶〈ハンモン〉が彼の死を早めたように見える。
 以下に交渉の経過を伝記の記述に従って紹介する。九月七日にリッベントロップ独外相の特命を受けたスターマー特使が来日して、直ちに松岡外相とだけ交渉を開始した。スターマーと松岡の会談は、九、十日に松岡の私邸で余人を交えずに極秘裏に行われた。会談は順調に進み、会談終了後四相会議で彼は経過を報告し、スターマーの提案をそのまま呑むべしとの意見を述べた。十四日の五相連絡会議の打ち合わせで、日米戦への用意はないと反対する海軍軍令部に対して、松岡は、ドイツの提案を蹴った場合にはドイツの占領地から閉め出されると脅し、米国に接近するためには支那事変では米国の言う通り処理し以後五十年は米国に頭が上がらなくなるなどと言い、それでは国民が承知せずに、十万の英霊にも満足できない(下p155)などと、 自説の根拠に大衆感情や英霊をもちだす典型的な対外硬の論法で、同盟の必要を主張した。その強弁に海軍測も折れた。
 この様な情勢に憂慮を深めたのは、英米を軽んじドイツと同盟するような外交方針を「最もこれを排斥された」(動乱上p236)と重光葵〈シゲミツ・マモル〉が形容した昭和天皇であった。天皇は、三国同盟による対米関係の悪化を心配し、九月十五日木戸〔幸一〕に、近衛は「あゝ掻き廻しておいて」、「少し面倒になると又逃げだす様なことがあつては困るね、こうなつたら近衛は真に私と苦楽を共にして呉れなくては困る」と仰せられたので、木戸は、「今度近衛が参内した時に、陛下からぢかに近衛におつしやつて戴きたい」と申し上げた。結局、この天皇の心配や先の西園寺の憂慮は現実のものとなってしまった。
 十六日に緊急閣議が開かれ、松岡が経過を報告し、「日米の国交はもはや礼譲や親善の希望だけでは駄目で、むしろ毅然たる態度で対抗することが却つて国交転換の機会となるのだと説いた。(中略)松岡はこれを断行すれば、旧ドイツ領の南洋諸島は、無償とまでは行かぬにしても日本に貰える。スターマーは、油もドイツの占領地域拡大によつて豊富になつているし、ソ連やルーマニアからも取れると言つているから、日本にも相当貰えるだろう。又ソ連と国交調整ができれば、北樺太の石油利権を貰う様に斡旋して貰う心算だ。場合によつては全部買物してもよい、などと駄法螺〈ダボラ〉を吹いた」(下p156)と伝記は伝えている。この様な松岡の言葉に、反論するものはいなかった。松岡という人間は、ある目的を達成するためには、平気でその場限りの虚偽を言うことをためらわない異常性格者であった。それ故に、第一次近衛内閣時、蔵相であった池田成彬〈シゲアキ〉は、その外相起用提案に断固反対したのである(上p558)。【以下、次回】

 以上、二二七ページ上段から二二八ページ下段まで引用した。
 ここで渡辺俊一氏は、第二次近衛内閣の最重要政策を、内政においては「新体制運動」、外交面においては「三国同盟の締結」と捉えている。
 文章の途中、(下p155)とあるのは、矢部貞治『近衛文麿 下』(弘文堂、一九五二)の一五五ページを指し、(動乱上p236)とあるのは、重光葵『昭和の動乱 上』(中公文庫、二〇〇一)の二三六ページを指している。

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