礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

一日も速かに漢字を絶滅さする(原敬)

2013-05-15 05:49:45 | 日記

◎一日も速かに漢字を絶滅さする(原敬)

 ここ数日、原敬が、大阪毎日新聞の記者時代に発表した「漢字減少論」(一九〇〇)を紹介してきたが、本日はその最後。出典は、改造社の現代日本文学全集『新聞文学集』(一九三一)。本日紹介するのは、「漢字使用の困難」という項の全文である。

 漢字使用の困難
 漢字は読むにも書くにも、またその意義を了解するにも困難なる文字〈モンジ〉であることは、吾輩の贅言〈ゼイゲン〉を俟つ〈マツ〉までもない。世間では既に認めてをるであらうと思ふ。
 たとへば納の一字はタフの音〈オン〉もあれば、ナフの音もある。またイルヽとも読めばヲサムとも読む、その他の場合によりてはツヾルともツケルとも読む。故にその読方は甚だ困難であるが、これを書くにもまた困難である。モシ扁を誤つて衲となせば、ダフ又はナフの音晋となる、或はツキ、ヌフ、ツヾルなどと読む。また誤つて訥となさばトツといふ音になつてドモルと読む。その字画が複雑にしてこれを書くに手数多きばかりでない、少しくその字画を誤れば別文字となることは斯くの如くである。また漢字は羅列したる位置の如何によつて意義を異にするものであるから、同じ文字でも置場所よつて意味を異にする。それゆゑ正当に漢字を書き、また正当に漢字を読んだといふだけでも、その意義を判然と了解するにはまた更に困難なきを得ざる次第である。斯様なる困難多き漢字は万を以て数ふるほどある。今引用したる例は何人も知りをる容易なる文字に過ぎないが、万を以て数ふる漢字中にはドレだけ六かしき〈ムツカシキ〉文字があるか、測り知るべからざる次第である。
 漢字の使用困難なること斯くの如くであるが、これに加ふるに近来は漢字の使用著しく乱雑になつてをるから、普通漢字を解する者でもどういふ意義であるかこれを解するに苦しむ言語文章は甚だ多い。殊に訳字の類に至りては、その漢字だけの意味ではどうしても了解することが出来ない、強ひて了解せんとすれば甚だしき誤解を醸す〈カモス〉虞〈オソレ〉がある。故に訳書ばかり読んでをる人には時々非常の誤解があつて、笑ふべきこともあるが、兎に角〈トニカク〉正当に訳字の意味を了解しようと思へば、是非ともその原語は如何なるものであるか、原語を繹ね〈タズネ〉ざればこれを了解することが出来ない場合が多い。吾輩とても幼年より多少漢籍を学んでをればこそ、不十分ではあるが幾分か漢字を解し得ないではないが、漢字の素養なくして漢字を了解しようと企つるは、その困難実に思ひ遣らるゝ次第である。
 漢字使用の困難なることを述ぶれば、際限もなきことであるから、これを詳論することを止め、試に〈ココロミニ〉この漢字を学ぶ者の情況を述ぶ述ぶれば、尋常小学はいふまでもない、高等小学を卒業したる者でも満足に普通の手紙を書き得ない、普通の書付〈カキツケ〉も読み得ない、などといふ非難を父兄から聞くことは少なからぬが、これは教授法の如何にもよることで、今日の学制では已む〈ヤム〉を得ないといふ事情もあるであらう。さりながら帰する所は漢字使用の困難なるためである。小学卒業生に限らず、尋常中学の卒業生でも高等中学の卒業生でも、満足に漢字を読み、漢字を書き及びその意義を了解する者は幾らもあるまい。大学卒業の学士でも、時としては十分に漢字を読み及びその意味を了解することが出来ないといふ人がある、甚しきに至りては何々博士といふやうな高等の学者でも、自分の専門に属して飽くまで知りをる事柄を、欧文であれば兎に角、日本文では到底自分で書くことが出来ないといふ人もある。又ヨシ日本文で書いた所が不文にして読むに堪へないといふ人は少なからぬ。かく教育ある人ですら漢字は十分に使用し切れないとすれば、いろいろ原因もあるであらうが、漢字使用の困難なることは疑ひなき事実である、かゝる困難なる漢字を永世末代に使用しなければならぬ理由は決してあるべき筈のものでない。一日も速かに漢字を絶滅さするは、我〈ワガ〉文明の進路に至大の便利を与ふることであるが、如何せん、前にもいふが如く、漢字の使用はその根源深く俄に〈ニワカニ〉これを全廃することが出来ないのみならず、この漢字に代ふべき文字は差向き〈サシムキ〉仮名であるが、仮名の使用は、久しく漢字の勢力に圧せられて、毫も〈ゴウモ〉進歩しをらぬ。この進歩しをらぬ仮名を恃んで〈タノンデ〉、俄かに漢字を全廃しようなどといふことは、無論に行はるべき事柄でない。
 故に吾輩は今日に於ては漢字全廃論を唱へない。たゞ一方に於ては消極的に漢字の減少を図り、また他の一方に於ては積極的に仮名の進歩を図つて、漢字の減少と仮名の進歩と、相伴うて以て遂に漢字全廃の域に達することを希望するのである。

原敬の「漢字減少論」は、このあとも続くが、すでに趣旨は十分に示されていると思うので、紹介はこれまで。

今日の名言 2013・5・15

◎漢字に代ふべき文字は差向き仮名である

 原敬の言葉。「漢字減少論」(1900)より。上記コラム参照。

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学ぶのも困難、読むのも困難な漢熟字

2013-05-14 07:03:47 | 日記

◎学ぶのも困難、読むのも困難な漢熟字

 ここ数日、原敬が、大阪毎日新聞の記者時代に発表した「漢字減少論」(一九〇〇)を紹介している。出典は、改造社の現代日本文学全集『新聞文学集』(一九三一)。本日紹介するのは、「漢字の使用」という項の後半である。

 たとへば往時の公用文又は現在の文章が維新以後に至りて更らに〈サラニ〉変体となつたのである。尤も一時は漢文をそのまゝ僅かに仮名を交へた〈マジエタ〉だけで使用することの流行したこともあつたが、それは一時のことに止つて〈トドマッテ〉、漢字の使用はますます乱れ、加ふるに翻訳の流行して以来、漢字の使用は一層乱雑を極めて居る。古〈イニシエ〉よりありもせぬ熟字を使用して怪しまないばかりでない、その熟字は使用する人の意見次第で毎日製造すると云ふ有様である。たゞでさへ困難なる漢字がかういふ情況であるからますます以て了解するに困難なる次第となり、これを学ぶ者も困難すれば、これを読む者も困難する、斯様なる状況は即ち、今日の実況である。
 漢字はいふまでもなく支那字である。支那字は現に清国に於て使用せられてをる。シカシ日本に伝来して日本に使用せられている漢字は、その形状こそ同一なれども支那に於ては古文に属し、今日清国に使用せられてをる文字ではない。この古文は清国人にても特別に学問しなければ了解することが出来ない、いはゞ死語である。恰も〈アタカモ〉欧洲に於けるラテン語の如きものである。ラテン語は欧洲に於ても一時は一般の公文に使用せられ、条約にしても、憲法その他の法文にしても、皆なラテン語を以て記載せられたものであるが、その使用は漸次に衰へ、今日に至りてはラテン系統の言語を使用してをる国でも、学者の学問上使用する場合でなければ、ラテン語そのものを直に使用することはない。併し日本に於ては、そのラテン語同様の漢字を普通の言語にも文章にも使用してをる。而してその使用法は日々変化し、ますます乱雑を極むる次察であるが、さりとて遽に〈ニワカニ〉この漢語混用の文章を全廃することは出来ない、強ひてこれを全廃せんとすれば殆んど現に使用する日本語を全廃すると同様の結果になる。故にヨシ漢字を全廃したりとて、漢字混用の言語文章は依然としてその系統を存在するに相違ないが、もしも何十年の後にか、欧州に於てラテン系統の文章を使用しながら、ラテン語を普通に使用せざるが如く、漢字混用の言語文章を使用しながら、ラテン語を普通に使用せざるが如く、漢字混用の言語文章を使用しながら、漢字を普通に使用しないやうな結果を得る〈ウル〉ならば、社会に与ふる便利は実に量るべからざる次第である。

 文中、「ラテン語そのものを直に使用することはない」という箇所があり、「直」には「たゞち」というルビが振られていた。この場合の、「ただちに使用する」は、「じかに使用する」(直接使用する)という意味であろう。ということは、講演で原敬は、「じかに(ぢかに)使用する」と言った可能性があるが、もちろん推測にとどまる。

今日の名言 2013・5・14

◎翻訳の流行して以来、漢字の使用は一層乱雑を極めて居る

 原敬の言葉。「漢字減少論」(1900)より。欧州の文献の翻訳にともなって、漢字による「熟字」が新造されてきたことを指している。上記コラム参照。

 

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日本の文章は和漢混淆の変体物(原敬「漢字減少論」)

2013-05-13 05:34:12 | 日記

◎日本の文章は和漢混淆の変体物(原敬「漢字減少論」)

 一昨日からの続きである。原敬が、大阪毎日新聞の記者時代に発表した「漢字減少論」(一九〇〇)である。出典は、改造社の現代日本文学全集『新聞文学集』(一九三一)。本日紹介するのは、「漢字の使用」という項の前半である。

 漢字の使用
 漢字は文字〈モンジ〉だけ日本〈ニホン〉に輸入したる訳ではない。儒教の伝来と共に日本に輸入したるものであるが、その後漢字を以て翻訳したる仏教が輸入したから、丁度儒仏の二教が相扶けて漢字の使用を全国に伝播〈デンパ〉せしめたのである。その事実はいふまでもなく歴史上明瞭の事柄である。和学者の説によれば、日本に固有の文字があつたと称して居る。有つたでもあらう、シカシその文字はドウいふものであつたであらうか、今日和学者の唱へて居る所の説には疑ひなきを得ざることが多い。但しその詮議は本論に必要がないから姑く〈シバラク〉これを措て、兎に角〈トニカク〉固有の文字があつてその文字がドンナ文字〈モジ〉であつたにもせよ、漢字に比較しては誠に〈マコトニ〉発達せざる文字であったに相違ない。而して優勝劣敗の結果漢字のためにその文字が社会より掃蕩されて、社会に痕跡を留むることが出来得ざるやうになつたといふ事は疑なき事実であらう。
 シカシながら自国の言語といふものは、他国の言語のために全然消滅するものではない。また自国の言語といふものは他国の言語を以て完全に翻訳し得らるゝものでもない。これ殆んど何れの国の事情に徴しても明かなることである。故に漢字の勢力は実に〈ジツニ〉旺盛なるものであつたであらう、漢字でなければ何事を記載しても明瞭でない。漢語を使用しなければ何事をいうても野卑たることを免れ〈マヌカレ〉ない、といふやうな感じが一般に起つて、漢字の根柢をますます深からしめたに相違ない。さりながら日本文を尽く漢文にすることも出来なかつたのであるし、また日本語を尽く漢語とすることも出来得なかつたのである。これ畢竟〈ヒッキョウ〉漢字なるものは他国の文字言語であるから、到底日本の言語文章を全く一変することは出来得なかつたのに外ならぬ。斯様な〈カヨウナ〉次第であるから、日本の言語といふものも、文章といふものも、純然たる日本語でもなければ純然たる日本文でもないが、さりとて純然たる漢語でもなければ純然たる漢文でもない。而してその結果は和漢混淆〈コンコウ〉の変体物〈ヘンタイブツ〉を生じたる訳である。然るにこの変体物は年を経る〈フル〉に従つてますます変体となり、漢字ばかり羅列したる文章は、一見すれば漢文の如くであるが、その実漢文とは殆んど縁のない文章が多い。【以下は明日】

 改造社の現代日本文学全集は、総ルビに近いので、当時の漢字の読みを知るためには、興味深い資料である。しかも、この「漢字減少論」この文章は、講演の速記録であるというから、その意味でも貴重な資料と言える。ただし、速記者が、原敬の発音を正確に記録しているかどうか、現代日本文学全集の編集者が、速記録の通りルビを振っているかどうかは不明である。
 上記で言えば、文字という言葉は、〈モンジ〉と〈モジ〉の二通りのルビがある。前者が圧倒的に多いが、この使い分けに意味があるのかどうかは、ハッキリしない。

今日の名言 2013・5・13

◎畢竟漢字なるものは他国の文字言語である

 原敬の言葉。「漢字減少論」(1900)より。上記コラム参照。

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昭和16年発表、文部省「標準漢字表」の中の難字

2013-05-12 05:57:18 | 日記

◎昭和16年発表、文部省「標準漢字表」の中の難字

 昨日のコラムで述べた通り、一九四二年(昭和一七)に文部省が発表した「標準漢字表」の紹介を続けようとしたが、思いがけない支障が生じ、一時、中断せざるをえなくなった。その「思いがけない支障」とは、端的に言えば、手ヘンのところに、見かけない漢字を発見してしまったことであった。
 それは、暮という字の日の部分が手となっている漢字であった。その字の前にあるのは、摸(模という字のヘンが手ヘン。ただし、クサカンムリは、左右にわかれている)があり、その字のあとには、撚という字がある。したがって、この字が、手の一二画の字であることは間違いない。しかし、一万字を収録しているという『新字源』に、この字を見出すことはできなかった。
 一九四二年(昭和一七)に文部省が発表した「標準漢字表」には、全部で二六六九字が載っている。義務教育六年間(国民学校初等科)において習得すべき漢字であるという。しかし、この字(暮という字の日の部分が手となっている漢字)は、おそらく、多くの日本人が生涯で一度も見ることなく、もちろん使用もしない字だと思う。なぜ、そんな珍しい漢字が、二六六九字の中に、はいっているのか。この一字のために、この「標準漢字表」そのものに対して、ふつふつと疑念が生じてきた。
 もちろん、この難字は、ブログ上では表示できないであろう。実は、それ以外にも、ブログ上で表示できそうもない字が、いくつも出てきた。そんなわけで、「標準漢字表」の紹介を続ける気が、すっかり失せてしまったのである。
 なお、この難字(暮という字の日の部分が手となっている漢字)が実在することは、間違いない。昨日、簡野道明の『字源』を引いてみたところ、これには載っていた。摸とほぼ同義の字のようだ。しかしそれならば、「標準漢字表」には、摸を採用すれば十分なのであって、なぜわざわざこの難字を採用したのかという疑念が生ずるのである。
 本日は、こんなことを述べたために、原敬の「漢字減少論」(一九〇〇)の紹介のほうも、中断することになってしまって、恐縮である。明日は再び、原敬の「漢字減少論」に戻りたい。なお、「標準漢字表」の紹介は、きわめて困難であるし、今は紹介する気力もないが、そのうちまた再開することになるかもしれない。

【昨日のクイズの正解】 2 大阪毎日新聞に勤める以前、他の新聞社に勤めていたことがある。■原敬は、1879年(明治12)に、郵便報知新聞社に入社、1882年(明治15)退社。同年4月、『大東日報』の主筆となり、同年10月退社。

今日の名言 2013・5・12

◎自分の未来には、もう涙しか用意されていない気がした

 作家の青山七恵さんの言葉。小学生のとき、先生が「そして、トンキーもしんだ」というお話を読み聞かせてくれた。先生は、それを読みながら泣いてしまった。青山さんは、その事件の回想を中心に、「わたしの『先生』」というエッセイを書いた。必読である。本日の日本経済新聞「文化」欄より。

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原敬の「漢字減少論」(1900)

2013-05-11 05:59:55 | 日記

◎原敬の「漢字減少論」(1900)

 一九四二年(昭和一七)に文部省が発表した「標準漢字表」の紹介を続けようとしたが、思いがけない支障が生じ、一時、中断せざるをえなくなった。当時は、義務教育において習得すべき基礎的な漢字とされていた漢字にもかかわらず、今日においては、ブログで表示しえない漢字があまりも多いことが判明したのである。
そこで本日は、原敬の「漢字減少論」(一九〇〇)を紹介することにしたい。のちに首相となる原敬であるが、このころは、大阪毎日新聞の記者であった。
出典は、改造社の現代日本文学全集『新聞文学集』(一九三一)。本日紹介するのは、その冒頭部分である。

 漢字減少論
 漢字減少は吾輩〈ワガハイ〉の久しく抱懐したる議論なるが昨年〔一八九九〕七月名古屋経済会の招待を受けて、同地に赴きたるとき、名古屋教育協会より一場の演説を望まれ、其時これを公言し、同年九月二日以後の紙上にその速記を登載して、識者の教〈オシエ〉を請ひたるが、偶然にも輿論も近来漢字減少に傾きたるの感あれば、再びこれを諭じて吾輩の論旨を明かにせんと欲する次第である。 原 敬
 総論
 吾輩の漢字減少を主張するは、漢字減少だけを以て満足する訳ではない。終局の目的は漢字全廃にあるのである。シカシながら漢字を全廃することは何十年の後に成功するか、殆どその期限を予知すること能はざる次第であるから、今日に於ておいては漢字現象を唱ふるに過ぎない。
漢字減少といふことは今日に於て出来得ざる〈デキエザル〉事柄でない、のみならず漢字を減少すればするほど、社会のあらゆる方面に便利を覚ゆる次第である。その故に漢字を減少することは、社会に便利をなしつゝ遂に漢字を全廃し得るの域に達する道であるから、今日に於て漢字減少を努むるならば、他日に於て漢字全廃を断行すること決して望〈ノゾミ〉ない事柄でないと信ずる。
 先年仮名の会といふものも起り、ローマ字会といふものも起り、その会は今日に至りて如何なる情況であるか、更に聞くこともないが、その会員は今日に至りても存在し得ると見え時々その論を聴かぬではないが、未だ何等の成功を見ない。その成功を見ないといふ訳を以て、世間では一概に空論として排斥する傾〈カタムキ〉もあるけれども、吾輩は決して空論とは思はない。吾輩は固より〈モトヨリ〉仮名の会員でもなければ、ローマ字会員でもない、故らに〈コトサラニ〉その会を弁護する意思は毛頭ないのである。又その会の主張した所もドンナものであつたか今日では実は記憶し居らぬぐらゐであるが、もし仮名の会にしてもローマ字会にしても、今日に於て遽に〈ニワカニ〉漢字を全廃し、仮名又はローマ字を以てこれに代用しようといふならば、それは空論に相違ない。左様〈サヨウ〉なることは到底今日に於て出来得べき〈デキウベキ〉ものではない。シカシ漢字全廃といふことを終局の目的にして、何十年の後にか遂にその目的を達し、仮名、若くは〈モシクワ〉ローマ字に改むるといふならば、決して出来得ざる事柄でないと思ふから、吾輩はこれを空論として排斥することをなさぬのである。
 元来漢字は書くにも読むにもまた意義を了解するにも、甚だ困難なる文字である。それがために我文明の進歩を妨ぐることが、ドレほど甚だしきものであるか、誠に測り知られぬ次第である。故に漢字を全廃することは、文明の進歩に於て非常なる便宜を与ふるといふことは疑ひないが、さりながら漢字は兎も角も〈トモカクモ〉千年以上国民の慣用したる文字であるから、他にいかほど便利なる文字があるとも、一朝一夕に漢字を全廃することは出来得べきものでない、たゞ出来得ないばかりでない、モシ法律その他の力によって強ひて漢字を全廃するやうなことがあつたならば、所謂〈イワユル〉角を矯めて〈ツノヲタメテ〉牛を殺すといふやうな訳で、その便利を得ないばかりではない、社会の事物を記することは総て暗黒となりて、漢字の存在したる時よりも数倍の不便を醸す〈カモス〉であろう。
 故に如何なる考案を以てした所で、今日に於て遽に漢字を全廃することを得ざるは明瞭の次第であるから、終局の目的を漢字全廃に定め〈キメ〉、今日に於て出来得るだけ漢字を減少するは、社会に何等の激変を与ふることなくして遂にその目的を達すべき順序であらうと思ふ。

今日のクイズ 2013・5・11

◎原敬の経歴で正しいものは次のうちどれでしょう。

1 新聞記者として勤めたのは、大阪毎日新聞一社のみである。
2 大阪毎日新聞に勤める以前、他の新聞社に勤めていたことがある。
3 大阪毎日新聞を退社した以後も、他の新聞社に勤めている。

【昨日のクイズの正解】 3 寛は当用漢字、正字としては別の字があるが、▲ではない(▲は、寛にテンが加わった字)。■『新字源』によれば、寛の正字は、寛にテンが加わった字ではありません。寛にテンが加わった字の、クサカンムリの部分が左右に分かれている字です。ただし、寛にテンが加わった字を、寛の正字としている漢和辞典もあります。

今日の名言 2013・5・11

◎終局の目的は漢字全廃にある

 原敬の言葉。原敬は、基本的には、漢字全廃論者であった。上記コラム参照。

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