礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

甲午農民戦争当時の朝鮮中央政府要人一覧

2014-09-25 04:08:51 | コラムと名言

◎甲午農民戦争当時の朝鮮中央政府要人一覧

 昨日の続きである。『内乱実記 朝鮮事件』(文真堂、一八九四)の二一ページに、甲午農民戦争当時における朝鮮中央政府の要人の一覧表が載っている。本日は、これを紹介してみよう。

 中央官
領議政 沈瞬沢     左議政 趙秉世
右議政 鄭範朝     吏判書 閔泳煥
戸判書 朴定陽     兵判書 李承五
刑判書 李正魯     礼判書 洪鐘軒
工判書 金鶴鎮     外 督 趙秉稷
内 督 閔応植     左捕将 申正照
右捕将 李凰儀     扈衙使 金煥始
統衙使 閔泳駿     経理使 同 上〔閔泳駿〕
壮衙使 李鐘健     総御使 韓圭咼
海軍統制使 閔応植   総制使 閔泳玉
郵電総弁 趙秉稷    鉱務総弁 閔泳■〔■は、サンズイに羽〕
典圜局総弁 成岐運   転運総務官 趙弼永
 八道監司
京畿監司 金圭弘    忠清監司 趙秉鎬
全羅監司 金鶴鎮    江原監司 閔亨植
慶尚監司 李容直    平安監司 閔丙□〔□は、渦のツクリ〕
黄海監司 洪淳馨    咸鏡監司 朴箕陽

 この一覧表は、仁川領事官の書記生・小川盛重が、一八九四年(明治二七)の六月に帰国した際に持参し、『内乱実記 朝鮮事件』の筆者に示したものだとある。小川盛重というのは、鳩山和夫の実兄・小川盛重のことであろう。
 この一覧表のあとに、同書は、次のような注釈を付している(二一~二二ページ)。おそらくこれも、小川盛重がもたらした情報であろう。

但し、右の内、忠清監司・趙秉鎬〈チョウ・ヘイゴウ〉は、変乱の為め逃走し、全羅監司・金鶴鎮〈キン・カクチン〉は、前監司・金文鉉の逃走後、新たに命ぜられたるものなるも、変乱の為め任所に赴く事を得ず、難を他に避け居れりと。又、右中央官にて最も勢力ある物は、統衙使〈トウガシ〉兼経理使たる閔泳駿〈ビン・エイシュン〉にして、苟も〈イヤシクモ〉地方官たらんと欲するものは、先づ閔泳駿に依ざる〈ヨラザル〉を得ざる程にして、全国八道の監司以下留使〈リュウシ〉、府使〈フシ〉、牧使〈ボクシ〉、県監等の地方官の惣数〔総数〕は、大略三百名位にして、此内、百六十名位迄は、閔氏の推撰に係る程なれば、閔族の勢力の熾〈サカン〉なる、推して知るべし。

 

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甲午農民戦争(1894)当時の朝鮮の兵制

2014-09-24 05:07:42 | コラムと名言

◎甲午農民戦争(1894)当時の朝鮮の兵制

 二〇年以上前に、『内乱実記 朝鮮事件』(文真堂、一八九四)という冊子を入手したことがある。本文三〇ページ。筆者の名前はないが、奥付に「編輯発行兼印刷者 岡田庄兵衛」とあるので、この岡田が筆者ということも考えられる。
 ここで「朝鮮事件」というのは、今日、「甲午農民戦争」あるいは「東学党の乱」と呼ばれている事件で、これが日清戦争を誘発したことは、歴史の教科書の記す通り。この冊子は、この事件が起きた一八九四年(明治二七)の七月一三日に発行されている。
 紹介してみたいところは多いが、本日は、「朝鮮乃兵制」について、述べているところを紹介してみたい(一八~二〇ページ)。いわゆる変体仮名を、今日のひらがなに直し、句読点を適宜、補った。

○直 話
 (一)朝鮮乃兵制
東学党のために連戦連敗したる朝鮮の兵制に就て、某氏の談に拠れば、朝鮮国の常備兵と云ふは、京城〈ケイジョウ〉に屯営〈トンエイ〉するものにして、実際の兵員は四千人許り〈バカリ〉もあるべく、之〈コレ〉を四営に分ち、一営の員数は称して千五百乃至千六百と云へども、この兵士の手当として官より給与受くる時の目安に供する虚数にして、実際は一営に一千内外の兵士を見るのみ。故に内実の兵員と表向〈オモテムキ〉の総員との差に相当する兵士の手当丈け〈ダケ〉は、各営の上長官〈ジョウチョウカン〉に於て私消するか分配するか、何れにしても正当には支払はれざるなり。而して隊伍の編成は、十人を最下級の組となし、夫〈ソレ〉より二倍宛〈ズツ〉を増して、名を変へ隊を組み次第して一営をなし、一営に長たるものは、権威なかなか盛〈サカン〉なりと雖も〈イエドモ〉、兵に将たるの才幹・技倆は全くないと云〈イウ〉も可なり。故に平時に於ける兵士の調練等は、我〈ワガ〉日本にて云へば、曹長位の格式の人、専ら之を司り、米人デニー氏、之が師範役たる位にして、将校は常に袖手〈シュウシュ〉傍観し居れるのみなれば、号令の下し様〈クダシヨウ〉すら弁へ〈ワキマエ〉ざるものあり。此の弊や実に、階級の上る程、甚だしと云ふ。平時の有様、既に斯くの如くにして、士気更に振はざれば、是等の将校・兵士をして、能く敵と戦ひ能く敵を敗らん事、到底望み得べからず。況して〈マシテ〉是等兵士の師範役たる米人デニー氏は、曾て我神戸の税関に雇はれ居たりし人物にして、兵事には余り練達したりとも見えざれば、此の教〈オシエ〉を受くるもゝの手並は察すにに余りあるべし。然れども〈サレドモ〉、銃砲は四営とも米国製にして、製式亦同一なれば、此点稍々〈ヤヤ〉見るに足るべしと雖も、暴徒鎮撫の為めとして、既に京城を繰出せし三千内外の兵士中には、銃器・弾薬を敵に奪はれたるものも少なからざるべし。此の外、朝鮮の兵員を彼の地に渡りて彼の国人に問へば、至る処にて、此処にも彼処にも、幾千幾百の兵ありと、左も〈サモ〉誠らしく答ふれども、実際の兵員にもあらず。そは朝鮮に於ける往昔〈オウセキ〉の兵制は、屯田兵の組織に依り、頗る〈スコブル〉時宜に適中し居たりしものなるべく、藩あれば茲に〈ココニ〉土着の兵あり、随時徴集訓練して、万一の変に備へたれども、星移り、物変りて、折角の制度も次第に弛廃〈シハイ〉し、其極、戦陣の実役〈ジツエキ〉に稍や〈ヤヤ〉服し得べき兵士の実数す非常に少なく、武器亦之なきにも拘らず、泰平に慣れたるの余り、是等の実地を調査して実力を養ふの挙を企つる〈クワダツル〉ものなく、因襲の久しき、今尚之を改むる能はず〈アタワズ〉して、地に依り場所に従ひ、徒に〈イタズラニ〉何千の兵ありと呼称するに過ぎず。且つ、郡府県等、官衙〈カンガ〉の所在地には、兵器を蔵する庫〈クラ〉あれども、曾て之を開きたる事なく、その兵器は何れも錆切つて、僅に〈ワズカニ〉其形を存するのみ。某国の士官、同国漫遊の際、此の武器庫の一見を至る処に求めたれども、封印の侭、前任者より受継ぐの慣例にして、曾て開きたる事なければ、今更之を他国人に示し難しと、何れの管守人も之を謝絶したるよし。依て〈ヨッテ〉士官は、窓より窃に〈ヒソカニ〉内部を窺ひしに、物の用に立べき器具は殆んど目に止らざりしと云ふ。又、水営と称して、我邦〈ワガクニ〉の鎮守府〈チンジュフ〉と同性質の官署なきにあらざれども、軍艦らしきものすら一艘も之なき位なれば、営所と云ふも見るに足らざるなり。之を要するに、今日の朝鮮国には、洋式に依て訓練せし兵士四千有余あれども、京城に屯営中のものは、今は千数百に過ぎざるべしと云へり。

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永田裕之氏評『日本人はいつから働きすぎになったのか』

2014-09-23 04:13:42 | コラムと名言

◎永田裕之氏評『日本人はいつから働きすぎになったのか』

 昨日、三〇年以上のおつきあいがある永田裕之氏から、拙著『日本人はいつから働きすぎになったのか』の書評が送られてきた。
早速、紹介させていただこう。

「日本人はいつから働きすぎになったのか」を読む  永田裕之
 礫川全次さんの「日本人はいつから働きすぎになったのか」を読んだ。勤勉性をめぐって多くの資料を駆使して展開されているので、付け焼き刃で細かいことを言うのは気が引ける。そこで、私の38年間の高校現場での経験をもとに「高校教員の勤勉性」について考えてみたい。
 1970年に赴任した最初の学校は、定時制高校だった。かなり変則的な定時制だったが、話がややこしくなるから説明は省く。16時までに学校に来いと言われた。勤務の終了は20時30分だった。勤務時間は4時間半である。友人は皆、普通の民間会社に行ったから、会うとうらやましがられた。正式の勤務時間は12時30分からだったのではないかと思う。私が割り当てられた部活動は熱心に活動していて普段はほとんど練習しなかったが、休日は実に多くの試合があった。最初の年、4,5月はほとんど休日がつぶれた。手当はもちろん、代休などというものは一切なく、試合に行くのに交通費も出なかった。ただ、夏休みなどの長期休業中はほとんど学校には行かなかった。夏休みは3週間しかなく、私は大いに不満だったが、3週間は2,3日をのぞいて学校には行かなかった。春休みも10日近くあって、この点も友人たちにはうらやましがられた。給料は民間会社の友人たちの方が良かったが、のんびりした時代だったと思う。
 1970年代半ば頃から勤務条件は大きく変わった。勤務の開始は16時30分になり、休日出勤すれば代休がつくようになった。代休がとれないときは安いながらも手当がついた。週に半日程度研修もとれるようになった。この研修は自宅に帰っても良いというものだった。相変わらず生徒たちが熱心だったので、部活動関連の休日出勤は多かったが。職員会議は勤務時間を過ぎればよほどのことがなければ終わったし、長期休業中は以前と変わらなかった。全日制に転勤すると、勤務時間は8時30分から17時までと言われたが、16時には帰宅できた。夏休みは部活動で20日くらい出勤したが、残りの20日くらいは何でも自由にできた。定時制併設校だったが、定時制の教員は17:00出勤で、研修日は週に一日あった。
1980年代に入るとこうした勤務形態は外部からいろいろと言われるようになった。当時東京都の教員と話す機会があったが、彼は、教員もしっかり勤務すべきだ、朝のホームルームは全員が行うべきだと言い、そんなことは当たり前だと思っていた私を驚かせた。
 1990年頃まで高校教員は、勤勉だとは思われていなかった。いやむしろ、こんな楽な職場はないと思われていたのではないか。こうした見方は誤解もあったが、的を射ている面もあった。夏休みにほとんど学校に来ない教師もいた。来ないからと言って肩身が狭くなることもなかった。いやむしろ学校に来ないことを誇りにしているような教師さえいた。こういう状態が勤勉と言えるだろうか。楽をしている人はいたが、時間外勤務を強いられている人もいた、というかもしれない。確かにそうだ。だが、少なくともそんな人は多くなかった。部活があるはずだ、という声もあるだろう。確かに部活は大変だ。部活で夏休みに40日出勤する人もいるし、土日も休めない、という場合も珍しくはない。だが、そんな人も部活以外のことは手を抜いていた人も多かった。部活も他の仕事も勤勉にこなしていた人の方が少なかったのではないか。部活と言ったが、本当に部活に一生懸命取り組んでいた人ばかりでもなかった。自分の専門分野以外の部活顧問になってしまうと徹底的に手を抜く人もいた。そういう人がやっていたのは部活ではなく、バレー、野球、サッカーなど自分の好きな競技だったのだと思う。つまり仕事のやり方が自分勝手だったのだ。
 1990年代後半から高校現場は大きく変わった。まず、「世間」にうるさく言われるようになった。「世間」の声を受けて勤務時間は条例通りになった。定時制では17時出勤など許されなくなり、全日制では17:00まで勤務ということになった。研修も次第に狭められ、やがてほとんどゼロとなった。手当もないのに時間外勤務は増え続けている。なぜそうなったのだろうか。疑いもなく、強制されているからである。
「日本人はいつから働きすぎになったのか」を読んでいると勤勉性は日本人の宿命なのか、という気さえしてくる。もちろん礫川さんは日本人の勤勉性も歴史的な所産、それもたかだか数百年のことと断っているが。私は言いたいのは高校教員の働きすぎはたかだか20年だと言うことだ。しかもその理由ははっきりしている。強制されているからだ。

 元高校教師である永田裕之さんは、「高校教員の働きすぎ」の歴史は、「たかだか20年」に過ぎないと指摘されている。これは重要な指摘である。日本人の「勤勉性」にせよ、教師の「働きすぎ」にせよ、ものごとは相対的に、あるいは歴史的・構造的に捉えてゆく必要があるということである。
 さて、永田さんの話によれば、高校教師は、少なくとも二〇年前までは、「働きすぎ」てはいなかった。それが、この二〇年間で激変した。こうした変化は、おそらく、この間に生じた郵政の民営化や、社会保険庁の廃止といった動向とパラレルなものであろう。教師あるいは広く公務員の「働きぶり」については、たしかに批判の余地があったのかもしれない。しかし、比較的、よい労働環境を享受していた公務員が、「世間から」指弾を受け、その労働環境が後退させられたことは、日本の労働者全体の労働環境を後退させる結果を招いたとは言えないか。ただしこれは、一九七五年の国鉄のスト権ストあたりから、歴史的な経過を追いながら、キチンと検証してみた上で、言うべきことかもしれない。いずれにしても、書評という形で、貴重な証言をいただいた永田裕之さんに感謝申し上げます。

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夏目漱石とルビつき活字

2014-09-22 03:22:26 | コラムと名言

◎夏目漱石とルビつき活字

 本年の三月九日に、「内田百間と『漱石全集校正文法』」と題するコラムを書いた。これは、『送り仮名法資料集』〔国立国語研究所資料集3〕(秀英出版、一九五二)という本に収録されていた内田百間の「送り仮名論」を紹介したものである。この「送り仮名論」のタイトルは、「動詞の不変化語尾について」で、雑誌『東炎』の一九三五年(昭和一〇)に掲載されたものだという(初出、未確認)。
 論旨は、送り仮名は、動詞の不変化語尾も含めるべきだ(「尽す」でなく「尽くす」)というものであるが、その部分については紹介せず、「漱石全集校正文法」や「ゲーテ全集文典」に言及している末尾の部分のみを紹介した。もう一度、それを紹介してみる。

 大正六年〔一九一七〕、漱石全集第一版が岩波書店から刊行せられた時、私は同門の二三君と共にその校正にあたつた。
 これより先数年、先生〔夏目漱石〕のまだ在世せられた当時、既に、先生の新著及びその頃盛に翻刻された縮刷版の校正にあたつて、私の手にかけた数は、恐らく十冊に近かつたらうと思ふ。
 校正をする際、一ばん苦しんだのは、語尾の取扱ひ方であつた。校正は原作者の原稿通りにするのが本当である。
 しかし、新著の場合でも、その時原稿として与へられるのは、新聞の切抜である。新聞のルビ附活字で都合よく植ゑられた語尾は、全然信用する事は出来ない。ルビ附活字は初めから附いてゐるルビを語幹として、その余りを勝手に語尾に出すのである。原作者の原文の語尾とは何の関係もない。
 翻刻の縮刷版の校正の時は、なほ更である。
 さうして、先生はさう云ふ問題には、割合に無頓著〈ムトンチャク〉であつた。勢ひこちらで、何かの機会に、得られた材料によつて、例へば、新聞の切抜に書き入れをしてゐられる先生の文章とか、書きつぶしの原稿の文章とかによつて、先生の文章癖を観察する外はなかつた。【以下略】

 周知のように、夏目漱石の小説は、一九〇七年(明治四〇)の『虞美人草』以降、朝日新聞の連載が初出である。すでに、ルビつき活字が考案されていた。しかも、朝日新聞は、その発祥地である。当然ながら、漱石の小説も、ルビつき活字によって製版されていた。
 このことに関して、内田百間が問題にしているのは、こういうことである。「新聞のルビ附活字で都合よく植ゑられた語尾は、全然信用する事は出来ない。ルビ附活字は初めから附いてゐるルビを語幹として、その余りを勝手に語尾に出すのである。原作者の原文の語尾とは何の関係もない」(引用文中、太字)。
 昨日のコラムでは指摘しなかったが、ルビつき活字に関しては、こうした送り仮名の問題も生じたのである。しかも、この場合、著者の原稿とは異なる形で、製版がなされる可能性があったわけで、問題は、漢字の「読み」以上に重大と言えるかもしれない。
 なお、上記の引用中に、「翻刻の縮刷版」とあるのは、一九一七年(大正六)に、岩波書店から刊行された代表作の「縮刷版」のことを指しているらしい。そのうちのひとつ『こころ』(一九一七)を閲覧してみると、総ルビではないが、随所にルビが振られている。その奥付を見てみると、印刷したのは、東京築地活版製造所である。ここは、松田幾之助が考案したルビつき活字を生産し普及させたところである。当然ながら、ルビのある箇所については、原則的にはルビつき活字が用いられたと捉えるべきであろう。
 ついでに、初版の『こゝろ』(岩波書店、一九一四)のほうも見てみた。こちらは総ルビに近く、いかにもルビつき活字で組まれているといった印象がある。これは、今回、初めて認識したことだが、一九一七年(大正六)に出た縮刷版『こころ』は、一九一四年(大正三)に出た初版『こゝろ』を、そのまま縮刷したものではない。ちなみに、初版の印刷会社は、東洋印刷株式会社である。
 それにしても、夏目漱石というのは、よくよく、ルビつき活字に縁がある作家だったと思う。だからこそ、校正にあたった内田百間らが苦労したのである。

今日の名言 2014・9・22

◎カイゼンすればするほど、忙しくなる

「あたしンちのおとうさんの独り言」のブログにあった言葉。「あたしンちのおとうさん」は、9月19日の同ブログで、拙著『日本人はいつから働きすぎになったのか』に言及した上で、次のように述べています。「この本を読んでいて「効率化」の話を思い出しました。/トヨタをはじめとした製造業ではどこもかしこも「カイゼン」という名で、社員全員で効率化を推し進めています。しかーし、極端な話、効率化の結果、今までの半分の時間で同じ作業ができるようになった場合、労働者は今までの半分の時間で同じ給料がもらえるようになるかというとそうではなく、今までの倍の仕事をしなけれなならなくなっています。つまり、カイゼンすればするほど、忙しくなるという状況が生まれています。/パソコンの導入で仕事が楽になったはずなのに、逆に忙しくなってしまったのも同じです。」鋭いご指摘です。あたしンちのおとうさん、ありがとうございました。

 

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総ルビの文献を読む際に注意すべきこと

2014-09-21 06:56:10 | コラムと名言

◎総ルビの文献を読む際に注意すべきこと

 今月一六日に、松田幾之助の「ルビ付の活字」という文章を紹介した。また、一八日および一九日は、原田譲二の「白蓮家出」という文章を紹介した。いずれも、大阪朝日新聞社整理部編『新聞記者打明け話』(世界社、一九二八)に収録されていた文章である。
 この本を印刷したのは、東京市小石川区の共同印刷株式会社であるが、「ルビつき活字」を使用していることは、ほぼ間違いない。なぜそれがわかるか。
 たとえば、「市内版」の「版」に「はん」というルビが振られている。わざわざルビを振るのであれば、「ばん」と振るべきであろう。そこを、「版」に「はん」というルビがついた活字を用いてしまったものと推量される。
 また、「星島二郎」は、星に「ほし」、島に「じま」、郎に「らう」というルビがあるにもかかわらず、「二」には、ルビが振られていない。わざわざルビを振るのであれば、「二郎」の読みは、「じらう」〈ジロウ〉でなく、「にらう」〈ニロウ〉であることを、読者に対し、明確に示すべきであった。しかし、「二」にルビつき活字がなかったため、あえてルビを振らなかったものと推量されるのである。
 さらに、「伊藤伝右衛門」の場合、伝に「でん」、右に「う」、衛に「ゑ」、門に「もん」と振られている。わざわざルビを振るのであれば、「伝右衛門」全体に、「でんゑもん」と振るべきだと思うが、ルビつき活字を用いようとするから、こういうことになるのである。
 以上のような例から、共同印刷株式会社が、この本を、「ルビつき活字」によって組んでいることは間違いない。そして、明治中期以降の日本においては、この本に限らず、「ルビつき活字」というものが、相当に普及していたと思われ、およそ「総ルビ」で印刷された文献というのは、まず、「ルビつき活字」によって組まれていると捉えるべきであろう(もちろん、断定はしない)。
 さて、このように、ルビつき活字で組まれた文章を読む際に、いくつか注意すべきことがあるように思う。
 第一に、そこに施されているルビが、文章の書き手が求めている読みと一致している保証はない、ということである。書き手がルビを細かく指定し、それに忠実に従った形で、製版がなされていれば、問題はない。しかし、書き手がルビを指定しておらず、編集者がルビを指定するような場合や、文選工にルビつき活字の選定が委ねられるような場合もあったはずである。つまり、ルビつき活字で組まれた文章は、その「読み」に関する限り、不確定な部分があり、テキストとしての安定性を欠くということである。
 第二に、ルビつき活字で組まれた文章の場合、基本的に、漢数字にはルビがついていない。上記の「星島二郎」も、その一例である。当時、漢数字については、ルビつき活字を造らないという不文律でもあったのだろうか。ともかく、そこでたとえば、次のような問題が起こる。「一に」という表記があった場合、その読みの確定が難しい。「いつに」と読むべきか、「ひとつに」と読むべきか、「いちに」読むべきかは、前後関係で判断する以外ない。ことによると、原稿には、読みの指定があったのかもしれない。しかしおそらく、それが活かされることはなかったであろう。
 ルビつき活字は、製版する側にとっては便利でなものである。また、ルビつき活字で組まれた文章は、読むほうにとっても読みやすい。勉学途上の者にとっては、漢字の勉強にもなる。しかし、文章を細かく読みこむ必要のある者、それをテキストとして引用しようとする者などにとっては、意外にメンドウな存在であることを知っておく必要がある。【この話、続く】

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