礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

緒方国務相暗殺未遂事件、皇居に空襲

2016-02-24 06:28:55 | コラムと名言

◎緒方国務相暗殺未遂事件、皇居に空襲

 今月二〇日のコラム「廣瀬久忠書記官長、就任から11日目に辞表」の続きである。中村正吾著『永田町一番地』(ニュース社、一九四六)から、七一年前(一九四五年)の二月二四日、二五日、および二五日における著者(当時・国務相秘書官)の「日誌」を紹介してみたい(一六三~一六七ページ)。

 二月二十四日
 午後一時から翼賛会〔大政翼賛会〕で、翼壮〔大日本翼賛壮年団〕全国団長会議が開かれた。翼壮問題が議会で問題化した後、はじめて、緒方〔竹虎〕新会長の下に開かれた会議である。
 緒方団長の告辞(註)が終はり、次の議事に入つたころ、団員らしい青年一名がツーと緒方団長の左背に近寄つた。団長と二言、三言、言葉を交はしたと見る間、その男はいきなり匕首〈アイクチ〉を抜き緒方団長の左脇腹を背面から刺した。力余つたのか、刺すまでに、至らなかつたのか、アツと思ふ間に緒方団長は椅子もろとも前面に倒れた。一瞬の出来事である。会場の団員は総立ちになつたが、兇漢はその場で警視庁巡査、憲兵隊員らにとり囲まれ難なく逮捕された。見ると緒方団長は左首後頭部に裂傷を負つてゐる。椅子を元の席に返し、団員を制止して緒方団長は会議の続行を宣した。一時騒然となつた会場もそれで落付き、議事は再び続行された。
 その青年が、警視庁で自供したところによると、赤誠会員、帝都翼壮団員、豊淵忠八郎で、年は二十五歳、朝鮮人である。帝都翼壮或は赤誠会にアヂられたものか、緒方兼任団長〔緒方団長は大政翼賛会副総裁と兼任〕が翼壮を即時解体するものと誤信した。この日の翼壮団長会議に潜入して緒方団長を刺せば兼任団長問題は片付き翼壮の解体も阻止出来ると思つたのである。犯人はやる積りで来たが緒方団長の告辞を聞いてゐると、自分の考へが間違つてゐるやうにも思へ、これならばと気が進まなかつた。一時、兇行をためらつたけれども、その後の議事の進行で、やつぱり、やらうと思ひ直し、緒方団長に面談を強要した。団長の背後から意見書を手渡し、読んでくれ、といつたところ団長は、今、会議中だから後にしてもらひたい、といつた。それで、こと面倒だと、即座に刺した。団長が身体をかはしたので、椅子もろとも顛倒した。と自白した。犯人が非常に興奮してゐるため、背後関係などはなほ判明しない。団長を刺しそれによつて、日本の指導者層の反省を求めるなどとも犯人は口走つてゐる。
(註)緒方団長の告辞
……国体に対する自覚こそは無比かつ無上の戦力である。……全国百四十万の翼壮団員は夙にこの意を体して黙々として地域、職域に敢闘しつつあるが、重ねて茲にこれを強調し志士的精神を以て実践奮闘、戦局が要請する諸多の活動に挺身せんことを熱望する。……我々は先づこの時この際虚心坦懐に厳正なる自己反省を遂げたい。第一は団又は団体の行動に独善的な点があつてはならぬといふことである。我々は最も謙虚な態度を以て運動を進めて行きたいと思ふ。……第二は所謂街頭運動を戒めることである。運動の主流は一見派手な街頭にあるのでなくて目立たない国民の日常生活のうちにある。……第三に他の諸団体の運動に対しその伝統と実績に敬意を表し互に相携へて進むの態度あるべきことである。……今こそ一人の力によつて国の興廃が岐れる〈ワカレル〉。翼壮の責務たるや重大といはねばならぬ……。
 二月二十五日
 早朝八時、警戒警報たちまち空襲警報となつた。珍らしい大雪の中、艦載機とB29の混合空襲である。大宮御所〈オオミヤゴショ〉、主馬寮〈シュメリョウ〉にも投弾、神田方面に大火が発生した。
 都心の風景は眞に凄愴たるものがある。霏々たる〈ヒヒタル〉粉雪、雪空を蔽ふ黒煙、その暗澹たる空の彼方は、猛火のためであらうか、ほのかに紅に染まつてゐる。
 米軍は欧洲戦場で対独空襲を行つたと同様の手段に出て来た。悪天候を利用する空襲である。今日は我方の邀撃〈ヨウゲキ〉戦果がなかつた。硫黄島戦終末に伴つて、本土空襲の激化が予想される。
【一行アキ】
 午後、緒方国務相は天機奉伺のため参内記帳した。その帰り、坂下門から、深雪を踏んで歩いて来る小磯〔国昭〕総理に出会つた。降り積る肩の雪を払つて「大変なことになりましたな」と一言、人の好い顔付を見せて、総理は御車寄せの方に向つた。
 二月二十六日
 情報局での今日の定例、各社編輯責任者会議は各社政経部長会議と合同で開かれた。陸軍から真田軍務局長が出席して戦況を説明したが、さきの行政協議会席上に於ける参謀本部宮崎第一部長の報告と同じく、本土決戦を強調したものであつた。本土決戦論はかくて陸軍から政府、与論へと滲透されてゐる。

 緒方竹虎は、背後から兇漢に刺されようとしたとき、体をかわして事なきを得た。「左首後頭部に裂傷を負つてゐる」とあるが、これは、椅子もろとも倒れたときの傷であろう。その直後、椅子を戻して、会議の続行を宣したとあるが、これらはいずれも、これは並の度量でできることではない。ウィキペディアによれば、緒方は剣道の達人で、中学生時代(福岡の修猷館)、すでに小野派一刀流の免許皆伝を受けていたという。
 一九四五年(昭和二〇)二月二五日朝、ついに、皇居にも空襲の被害が及んだ。この日、午後、緒方竹虎は、「天機奉伺」のため、皇居に出かけている。前日、暗殺未遂事件に遭遇していたが、何らの動揺もなかったのごとくである(左首後頭部の「裂傷」は、どうなったのだろうか)。
 帰路、緒方は、小磯首相とすれちがった。首相曰く、「大変なことになりましたな」。もちろん、これは、皇居にまで空襲の被害が及んだことを言おうとしたのである。

*このブログの人気記事 20016・2・24(10位にやや珍しいものが入っています)

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佐川伍長は早朝の電話で何を伝えられたのか

2016-02-23 03:23:11 | コラムと名言

◎佐川伍長は早朝の電話で何を伝えられたのか

 この間、二・二六事件の渡辺錠太郎教育総監襲撃事件について考察してきた。
 ここで、まとめを兼ねて、当日早朝、佐川憲兵伍長が受けた電話の内容について、推理してみよう。
 大谷敬二郎『二・二六事件』(図書出版社、一九七三)によれば、当日、早朝の電話を受けたのは、すゞ子夫人であった。
「もしもし、渡辺閣下のお宅ですか、牛込憲兵分隊ですが急用ですから佐川伍長をすぐ呼んで下さい」
 夫人は、すぐ二階の佐川憲兵伍長を呼んだ。その後、夫人は電話室をはなれたので、電話の内容は把握していない。前掲『二・二六事件』によれば、電話は、牛込憲兵分隊の「当直下士官」からで、その内容は、次のようなものだった。
「今朝、首相官邸、陸軍省に第一師団の部隊が襲撃してきた。鈴木侍従長官邸や斎藤内大臣邸もおそわれたらしい。軍隊の蹶起だ。大将邸も襲われるかもしれない。直ぐ応援を送る、しっかりやれ」
 佐川伍長が電話を終えて腕時計を見ると、五時五〇分だったという(同書)。
 この電話のあと、佐川伍長は、何も言わずに、二階に上がり、そのあと、襲撃部隊がやってくるまで、何らの対応もしていない。そういう緊急連絡が入ったことを、渡辺教育総監や夫人に伝えることすらしていない。
 佐川伍長が電話を終えてから、襲撃部隊がやってくるまで、どのくらいの時間があったのかは明らかでないが、一時間前後だったのではないか。襲撃開始を七時〇〇分とすると、一時間一〇分(午前五時五〇分~七時〇〇分)、襲撃開始を早めに見積って六時二〇分とすると、三〇分間(午前五時五〇分~六時二〇分)ということになる。
 佐川伍長は、なぜ、この「緊急連絡」の内容を、渡辺教育総監に伝えなかったのか。なぜ、渡辺教育総監を、避難させようとしなかったのか。
 ここからは、礫川の推測である。
 おそらく、この早朝の電話の内容は、襲撃部隊が渡辺邸に向かっているという、公的な「緊急連絡」ではなかったと思う。もし、公的な連絡であるとすれば、直接、渡辺教育総監を呼び出したはずである。この電話は、牛込憲兵分隊の「当直下士官」が、私的に佐川伍長を呼び出したもので、本日早朝、緊急事態が発生したことを伝え、渡辺邸にも襲撃部隊が向かっていることを伝えると同時に、そのことを渡辺教育総監に「伝えてはならない」という内容のものだったのではないか。もう、「昭和維新」の流れは止められないという、当直下士官自身の「状況判断」も伝えられたかもしれない。そして最後に、佐川伍長らは、立場上、応戦せざるをえないと思うが、最後まで抵抗して命を落とすことのないように、という忠告がなされたはずである。
 電話を掛けてきた牛込憲兵分隊の「当直下士官」の名前はわかっていない。しかし、思想的には、「蹶起」を支持する軍人のひとりだったのだろう。彼にとっては、「電話をしない」という選択もありえたわけだが、襲撃部隊によって、佐川伍長らが殺害されることをおそれ、わざわざ、こうした電話を掛けてきたのであろう。
 なお、大谷敬二郎『昭和憲兵史』(みすず書房、一九六六)によれば、「牛込分隊長磯高麿〈イソ・タカマロ〉少佐は、自ら護衛憲兵を調査し事実を究明した」とある。牛込分隊長が、みずから事実を究明したということは、言い換えれば、分隊に都合の悪い事実は伏せられたということであろう。
 それにしても、佐川伍長のフルネーム、あるいは「当直下士官」の実名が記載されている資料を、一度、見てみたいものである。
 明日は、いったん、話題を変える。

*このブログの人気記事 2016・2・23(9位に珍しいものが入っています)

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二階からの弾丸が足の甲に命中した(羽鳥喜平)

2016-02-22 04:38:28 | コラムと名言

◎二階からの弾丸が足の甲に命中した(羽鳥喜平)

 昨日の続きである。昨日は、『二・二六事件と郷土兵』(埼玉県、一九八一)から、木部正義(当時、伍長)が書いた「教育総監邸で負傷」という手記を紹介した。
 本日は、同じ本から、羽鳥喜平という人物(当時、上等兵)が書いた「教育総監邸襲撃」という手記を紹介してみよう。

 教育総監襲撃       羽鳥 喜平  大正元年一二月二三日生
             (歩兵第三連隊第一中隊 上等兵)   【住所・職業略】

 私は事件の起こるまで前ぶれというものを殆んど感如せず、毎日訓練に励んでいた。強いて関連づけるなら前日の夕食後、北海道からきたという将校が班内に入ってきて、私たちに対して行った妙な演説が決行の暗示のようでもあった。話の内容は(北海道は凶作で現地の連隊では毎日カボチャを食っているので皮膚が黄色になっているが、東京では米の飯を食っている。この不公平はすぐ是正しなければならぬ)というもので、私たちにとって何をいわんとしているのか、よく解らなかった。察するに国政が国民のために行われていないことを指摘していたものと思われた。
 その後、下士官が将校室に集合し坂井〔直〕中尉から何やら話を聞いている様子だが、私たちには勿論何もわからない。だが何となく中隊内の様子がソワソワしていたのはどういう理由だったのであろうか。
 二月二十六日〇三・〇〇、突如非常呼集で起こされた。私は軍装して舎前に集合すると間もなく編成が下達され、次いで実弾と食糧が交付された。私は第二分隊(分隊長木部正義伍長)で第一小隊長高橋太郎少尉の指揮下に入った。出発はそれから約一時間後だったが高橋少尉は出発にあたり次のような命令を下した。
「唯今より昭和維新を断行する。中隊は唯今ある所に向って前進する。各分隊の部署は予め示したとおり、なお現地において警備中歩哨線を通してもよいものは帽子のツバの裏側に三銭切手を貼った者だけとする」
 命令が下達されるとすぐ出発した。この時私は被服係の末吉〔正俊〕曹長と兵器係の中島〔正二〕軍曹が逃亡したことを耳にした。彼等も当然編成要員の筈だったが、いつの間にか姿をくらませてしまったのである。後日聞いたところによると、中隊の出動をいち早く中隊長矢野大尉に報告に行ったという。
 行進は間もなく停止した。目標は明示されなかったが後から斎藤〔実〕内府私邸であることがわかった。私の第二分隊は私邸から約百米はなれた道路の要点に散開して警備につき、襲撃隊は〇五・〇○を期して内部に突入した。一帯には静寂が漂い外部では何の変事も感じなかった。やがて夜が明ける頃襲撃隊が引上げてきて、坂井中尉と高橋少尉はピストルをもった右手を高くかかげ抱合ったまま「ヤッタ! ヤッタ!」 と叫んだ。襲撃は成功したのである。
 部隊は直ちに警戒を解き正門前で隊列を整えると二手に分れた。第二班は私を含め五、六名が他中隊の者と共に赤坂離宮前から二台のトラックに乗車し、次の目標渡辺〔錠太郎〕教育総監邸に向った。この時の兵力は約三〇名である。
 約一時間で目的地につくと、再び将校等による襲撃が始められた。私は塀の外に散開して警戒にあたったが、私邸の二階に電気がついていて、「あれを射撃で消せ」との命令が出たので早速発砲してこれを消すことにした。私はこの時三発発射した。すると二階にいた何者かがピストルを発射しつつ階下におりたようである。この時私は突然右足の甲を丸太で叩かれたような衝撃を受けたがべつに痛みもなくそれ切り忘れてしまった。二階にいたのは護衛で泊っていた憲兵だということである。
 この襲撃も一時間足らずで終了し目的を達したあと正門前に集合、再びトラックで陸軍省に引上げた。途中憲兵の乗った車と遭遇した時、銃を向けて「撃つぞーッ」とおどかすと連中があわててかくれた一幕があった。
 しばらく走った頃、私は右足首が再びチクチクするのに気付き、靴を抜いで調べてみると足の甲にピストルの弾がささっていて血がふき出していた。やはり叩かれた衝撃は二階から撃ってきた弾丸が甲に命中したのだった。
 なお私の他に木部伍長も右足のフクラハギを撃たれていて渡辺邸襲撃の損害は負傷二名ということになった。【以下略】

 この羽鳥喜平・元上等兵の手記からも、さまざまな情報が読み取れる。しかし、襲撃部隊が渡辺邸に到着した時刻や、そこから引き揚げた時刻は、残念ながら記されていない。
 この手記によれば、「赤坂離宮前から二台のトラックに乗車し」、「約一時間で目的地」に着いたという。赤坂離宮前でトラックに乗った時間を午前五時二〇分とすると(大谷敬二郎『二・二六事件』)、渡辺邸に到着したのは、六時二〇分ごろということになる。これは、中島上等兵や木部伍長が証言した「午前七時」と四〇分もずれる。
 また、「この襲撃も一時間足らずで終了し目的を達したあと正門前に集合、再びトラックで陸軍省に引上げた」とある。これによると、引き揚げたのは、午前七時二〇分以前ということになる。大谷敬二郎は、「襲撃隊はその目的を達し六時半頃引きあげた」としていたので(大谷『二・二六事件』)、こちらは、大谷の記述と五〇分もずれる。
 渡辺邸襲撃に関する「時刻」の問題は、赤坂離宮前出発の時刻も含めて、慎重に再検討する必要があると思われる。ではあるが、渡辺邸にいた警備憲兵が、事前に「襲撃」の情報を得ながら、それを渡辺教育総監に伝えず、襲撃隊到着まで、慢然と二階に待期していた事実は動かない。襲撃隊到着後、二階からあるいは玄関内側から応戦したものの、その後、二階に引き揚げてしまった事実も、動かない。
 佐川憲兵伍長が電話を受けてから、襲撃隊到着までの時間を確定することはできないが、午前五時五〇分から七時〇〇分までだった見ると、何と一時間一〇分。午前五時五〇分から六時二〇分だったと見ても、三〇分間である。

*このブログの人気記事 2016・2・22(久しぶりに古畑種基が上位)

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時刻はおよそ七時だ(木部正義・元伍長)

2016-02-21 04:57:37 | コラムと名言

◎時刻はおよそ七時だ(木部正義・元伍長)

 今月一八日のコラムで、『二・二六事件と郷土兵』(埼玉県、一九八一)という本から、中島与兵衛(当時、上等兵)が書いた「私は軽機射手だった」と題する手記を紹介した。この手記で、中島与兵衛上等兵は、当日「午前七時頃」、渡辺錠太郎教育総監私邸の「正門前に到着」したと述べている。
 中島与兵衛上等兵は、斎藤邸襲撃と渡辺邸襲撃の両方に参加している。しかも、軽機関銃の射手として、将校とともに行動している。である以上、事件後、憲兵から厳しい取り調べを受け、その手記と同じような調書を取られているはずである。したがって、その手記の内容は、事実に即したものである可能性が高い。
 とはいえ、中島与兵衛上等兵ひとりの証言で、襲撃隊が渡辺邸に到着した時刻を「午前七時頃」と断定することにも、問題がある。
 本日は、同じく『二・二六事件と郷土兵』から、木部正義という人物(当時、伍長)が書いた「教育総監邸で負傷」という手記を紹介してみよう。

 教育総監邸で負傷     木部 正義  大正四年九月一八日生
             (歩兵第三連隊第一中隊 伍長)   【住所・職業略】

 私は昭和九年一月二十日現役志願兵として歩三第一中隊に入隊し、以後下士官候補者として仙台教導学校で教育を受け、翌十年十一月下旬卒業と共に原隊に復帰、十二月一日付で伍長に任官、第一中隊第二内務班長を命ぜられた。
 その時の中隊の将校は、中隊長矢野正俊大尉、中隊付将校は坂井直中尉、教官は高橋太郎、麦屋清済の両少尉という顔ぶれであった。
 昭和十一年一月初年兵が入隊しこの教育が始まってまもなく私は連隊本部の暗号斑に迎えられ、専ら本部勤務となり、内務班では点呼をとる程度になっていた。従って私には事件の起こる前ぶれというものは全く感じられず、連隊はあげて渡満に備えて進捗しているとばかり思っていた。
 さて二月二十五日夜、つまり事件前夜のこと、私はいつものとおり日夕点呼をとるため中隊に帰り、終了後、連隊本部に戻ろうと廊下に出て将校室の前まできたとき、フト坂井中尉に呼び止められ下士官集合の旨を告げられた。そこで下士官全員は第二中隊の下士官四、五名と共に将校室に集合すると正面の机の側に坂井中尉、高橋少尉、麦屋少尉それに砲工学校の安田優少尉がいて、すぐ入口の扉が閉められた。坂井中尉は下士官全員に安田少尉を紹介すると徐ろに厥起趣意書なるものを読上げた。難解な文章であったが大要だけは判った。さてはこれから何かやるのだなとそんな予感がひらめいた。
 坂井中尉は読みおわると一同を見渡し、
「以上厥起趣意書にもとずき、中隊は明朝を期して赤坂方面に発生しつつある暴動鎮圧のため出動する、これには歩三は勿論在京部隊が全部厥起することとなっている」
といって今度は机の上に地図を拡げ目標としての斎藤内府私邸付近の地形を説明の上、編成と任務を下達〈カタツ〉した。このとき私に付与された任務は分隊長となり二年兵を主体とした兵八名を指揮し、同邸付近の省線ガード〔四谷駅・信濃町駅間〕手前で警戒に任ずることであった。なお第二班は殆んど出動と決った。ここで下士官側から質問が出され、中隊長不在の理由を伺ったところ、坂井中尉は「隊長も承知していることだ」と簡単に答えたので、中隊長は後刻姿を見せるものと思った。
 打合せが済むと解散にたり、時間まで皆よく寝ておくよう指示があった。私は部屋に戻り編成のことなど思いをめぐらせているうち、〇〇・〇〇非常呼集が発令された。服装は一装用着用で仕度がはじまった。そのうち新軍曹(連隊兵器掛〈ガカリ〉助手)が実包を運んできて各班に配った。私の班は二年兵には一二〇発、初年兵には六〇発が支給されそれぞれ薬盒〈ヤクゴウ〉に収められた。この時初年兵達は皆ビックリした顔で受取っていた。
 ここでしばらく舎内待機となり〇四・〇〇愈々舎前集合が告げられ整列したところで、坂井中尉が号令をかけて一斉に「弾込メ」が行なわれ安全装置をかけた。私はこのとき、MG隊から重機四基が配属されたのを知った。
 次いで坂井中尉は全員に向って訓示をした。
「中隊の指揮を坂井中尉がとる。中隊は三宅坂方面の暴動鎮圧のため只今から出動する。合言葉尊皇―討奸、では建制順序に出発!」
 こうして〇四・〇〇中隊は粛々として出発していった。この時の兵力約二百、この中にはMG隊と第二中隊の一部下士官兵も加わっていた。その頃残雪はあったが雪は降ってはいなかった。
 目的地斎藤邸には〇五・〇〇頃到着、私はすぐ示された省線の陸橋の位置を確め警傭についたが何等の異常はなかった。間もなく静かな邸内の方向からLGや小銃の音が響いてきた。私はそれが暴徒との衝突と思いこんでいた。警戒配傭について十分ぐらいたった頃「状況おわり集合」が告げられ中隊は内府邸門前の道路上に集合、すると屋内から坂井中尉を先頭に一隊が出てきた。中尉の右手には拳銃が握られその手は血だらけだった。中尉は集合した私たちを見つめながら「暴漢を仕止めてきた」と云って血だらけの右手を高くさしあげた。何事ぞ、暴漢とは斎藤〔実〕内府だったのである。私はここにおいて出動の真意を知り、愕然とした。
 中隊はその後三宅坂に移動すべく行進してゆくと赤坂離宮の前でトラック二台と遭遇した。ここで高橋少尉は小銃三コ分隊、LG二コ分隊に乗車を命じた。私も二年兵六、七名を指揮して乗車した。その時の兵力は約三〇名と記憶、将校は高橋少尉と安田少尉の二名であった。
 トラックはすぐ走り出し約一時間後に停車、そこは渡辺教育総監私邸の近くであった。時刻はおよそ七時だ。私邸から五〇米ぐらい手前で車を止め全員下車、そこから渡辺教育総監の襲撃を開始した。未だ明方〈アケガタ〉のためか一帯はヒッソリしていた。一隊は足音を殺して邸に近ずいた。先ず二中隊の蛭田〔正夫〕軍曹が門を乗りこえて中に入り内側から門扉をあけると、全員がドッと邸内に入った。将校以下五、六名が襲撃班となって正面玄関に突進、他の者は周囲を包囲して警戒につく。私は襲撃班として将校のあとに続いた。
 先ず玄関の扉から突入を図ったが頑丈でビクともしない。そこで代りばんこに体当りしたがまだ開かず、高橋少尉はごうを煮やし、「軽機前へ」と命令し遂に中島与兵衛上等兵が錠前目がけてLG〔軽機関銃〕を発射しようやく開けることができた。その頃四周から盛んに銃弾が飛来した。多分警護の憲兵が発射しているものと思う。
 扉をあけて中に入ると三尺入ったところにまた一つ同じ扉があった。私が近寄ってグッと体当りしたところ途端に内側から拳銃が発射されその銃弾が私の右足フクラハギに命中し盲貫銃創を負った。私はすぐ外に出て植込みのワキに腰をおろし手当てをうけた。その間襲撃隊は裏手に廻り、屋内に進入した模様である。私が見守っていると二階の部屋に電気がついたので私は小銃で二発射った。
 この襲撃も三〇分弱で終了し襲撃班は高橋少尉を先頭にして出てきた。結果は成功であった。全員は再びトラックに乗り都心にとって返し陸軍省付近で下車本隊に合流、負傷した私と兵一名はそのまま東京第一陸軍病院に行き、すぐ入院した。
 病院内はすでに今日のためにベットが用意されていて私はすぐ病室に通された。早速弾丸摘出の手術が行なわれ手当てを受けたお蔭で大事に至らなかった。治療を行う間、二回ぐらい憲兵がきて私の行動を詳細に聞き調書をとった。私は万事命令による行動だと答えた。すると三月三日、まだ治癒していないのに退院を命ぜられ、その足で代々木の陸軍刑務所にブチ込まれてしまった。それでも治療だけは続けてやってくれた。
 入所すると囚人服に着替え同時に取扱いが一変した。身分は未決であるが囚人には変りないのである。私は雑居房であったが談話は禁止され終日壁を見つめて正座と安座のくり返しを要求された。【以下略】

 文中に、MG、LGという略語が出てくるが、それぞれ、machine gun,light machine gun の略語であろう。一般に、前者は機関銃または重機関銃、後者は軽機関銃と訳されている
 さて、この手記で注目したいところは、ふたつある。ひとつは、護衛憲兵が、玄関内側から発砲しているという事実である。しかし、この阻止行動は徹底したものではなく、憲兵は渡辺総監を守ることなく、二階に移動したと考えられる。
 さらに注目したいのは、襲撃隊渡辺邸に到着した時刻である。木部伍長は、「トラックはすぐ走り出し約一時間後に停車、そこは渡辺教育総監私邸の近くであった。時刻はおよそ七時だ」(下線)と述べている。中島与兵衛上等兵のみならず、木部正義伍長もまた、渡辺邸に着いたのは、「およそ七時」と証言している。このことを、無視することは許されない。
 憲兵であった大谷敬二郎は、当然、中島与兵衛上等兵や木部正義伍長の調書を読んでいたであろう。にも拘わらず大谷は、その著書『二・二六事件』の中で、襲撃隊が渡辺邸を引き揚げた時刻を「六時半頃」としている。不可解という以外ない。
 中島上等兵や木部伍長が、渡辺邸に着いた時刻を偽らなければならない理由は何もない。一方、大谷敬二郎には、襲撃隊が渡辺邸を引き揚げた時刻を「繰り上げる」理由があった。護衛憲兵の「怠慢」を隠蔽するためである。【この話、続く】

 *20日は、アクセスが急増しましたが(訪問者が、19日の二倍以上)、その大半は、コラム「憲兵はなぜ渡辺錠太郎教育総監を守らなかったのか」に対するものだったようです。なお、今月にはいって、いろいろ調べた結果、右コラムは書き直す必要があることに気づきました。書き直しは、数日後を予定しています。

*このブログの人気記事 2016・2・21

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廣瀬久忠書記官長、就任から11日目に辞表

2016-02-20 05:30:30 | コラムと名言

◎廣瀬久忠書記官長、就任から11日目に辞表

 昨日の続きである。中村正吾著『永田町一番地』(ニュース社、一九四六)から、七一年前(一九四五年)の二月二〇日および二一日における著者(当時・国務相秘書官)の「日誌」を紹介してみたい(一六一~一六三ページ)。

 二月二十日
 午前、大達〔茂雄〕内相と石渡〔荘太郎〕蔵相が相次いで総理に会見した。午後になると、米内〔光政〕海相、杉山〔元〕陸相がそれぞれ会談し、廣瀬〔久忠〕書記官長は、木戸〔幸一〕内府を訪問した。かなりあわただしい動きである。
 一昨日〔二月一八日〕の閣議で、地方行政協議会長の権限強化問題が論議された。問題になつた点は行政協議会長を親任官とするが、その人事権の所在如何といふことである。その閣議の空気が早くも外部に伝はつたためであらうが、今明〈コンミョウ〉以来の動きと照らして、大達内相の離任説が早くも流布されるに至る。
 ところが、夕方、廣瀬書記官長は官庁庁舎で内閣記者団と会見し、「協議会長の問題で閣内に意見が対立した。それは、一、両日中に表面化するだらう、この問題の対立は根本的なものである、内閣は少数閣僚主義で行かねばならない」旨を明言した。そのため政局不安濃厚との観測が飛んだ。
夜、書記官長は総理に辞表を提出した。
 二月二十一日
 総理は、書記官長を慰留するわけにいかない。書記官長は、総理に対する不満から辞職したとしかとれないからである。書記官長が昨日、木戸内府に会見したのは、辞任の下相談だつたと見える。
 緒方総裁〔緒方竹虎は国務相兼情報局総裁〕は正午の官邸記者団との会見で、「書記官長はどういふ話をしたのかね、問題はすでに片づいてゐるんだよ。地方行政協議会長を親任官とし、その下に軍需管理部長を置くことに決定してゐる。これが地方行政協議会のさし当つての強化策である。行政協議会長の人事権の問題だが、これは内相が意見具申して総理と相談すればよいではないか。例へば特命全権大使を任命する場合と同様である。問題が大きいといふが、小さい問題を大きく取扱つてゐるのでないのかね。何事によらず、閣議で種々の意見が出るのは当然のことである。」と答へた。
【一行アキ】
 今夜、緒方国務相、大達内相、石渡蔵相がそれぞれ、小磯総理と会談した。石渡蔵相は総理大臣室から出てくると実に渋い顔をしてゐた。書記官長に内定したものらしい。
【一行アキ】
 午後七時半、親任式が挙行された。石渡蔵相が国務相として書記官長を兼任し、津島寿一氏が新に蔵相に就任した。
【一行アキ】
 書記官長を僅か十日程の間に再び更迭せねばならなかつた小磯総理の責任は何としても免れ得ないものがある。石渡書記官長は大物として各方面に好感を持たれた。けれども、改造につぐ改造で、この内閣の前途はもはや見きはめがついた形である。

 文中、「今明以来の動きと照らして」という部分があるが、原文のまま。「今明」は、「今日と明日」の意。「今朝」の誤植ではないかという気がする。
 小磯国昭内閣では、書記官長が三回変わり、都合、四人の書記官長がいた。その三人目が、廣瀬久忠であった(1945・2・10~1945・2・21)。この廣瀬久忠という人物のことはよく知らないが、警察官僚、内務官僚出身の政治家のようである。「閣内不一致」をわざわざ記者団に伝えた上、就任から一一日目で辞表を出すという行動に出ているところから見て、相当な策士であったと思われる。
 明日は、再び、二・二六事件について。

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