礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「総理はどちらだ」(米内光政が木戸幸一に聞く)

2016-02-19 02:35:25 | コラムと名言

◎「総理はどちらだ」(米内光政が木戸幸一に聞く)

 本日は、二月一六日のコラム「1945年2月16日、帝都にグラマン来襲」の続き。
 中村正吾著『永田町一番地』(ニュース社、一九四六)から、七一年前(一九四五年)の二月一九日における著者(当時・国務相秘書官)の「日誌」を紹介してみたい。この日の「日誌」は、かなり長文だが、貴重な情報が含まれているので、全文を紹介したい(一五六~一六一ページ)。

 二月十九日
 今回の地方行政協議会では前例を破つて陸軍参謀本部宮崎〔周一〕第一部長が戦況説明を行つた。その要旨は次のやうなものである。
 一、レエテ島に対して我陸軍は殆ど全ての飛行機を注入し、海軍もまた同様、殆んど全ての飛行機をそれに向けた。然し、爾後、飛行機の増援が続かず、そのため戦勢は我に不利に傾き、米軍はさらに、ミンドロ〔Mindoro〕、ついでルソンと作戦を移行し今日に至つてゐるわけである。我方のレエテに対する兵力増強はルソン南方からこれを行つたのである。
 我が比島〔フィリピン〕作戦の基本的な考へ方は、ルソンにおける米軍の情報網が我方の防備の進捗を遂一、捉へてゐたと思はれるだけに、既に知るところとなつてゐたと思ふ。これに反し、我方は相手の情況を知ることが極めて困難であつた。
 マニラの防備は年末から開始されてゐる。ミンドロに進攻して以来、我方は実はさきのルソン作戦の基本方針を改めたのである。この時には、米軍の上陸作戦はルソン南部でなく、リンガエン方面との判断を下したのである。そこで、ルソンを三大別し、リンガエン山地(パギオ地区)とクラーク・フイールドおよびマニラ東側地区とにこれを分ち、これらに主力を配置した。リンガエン作戦は少くも一、二ケ月以前より準備されたはずで、右のやうな我軍の配置換へは却て米軍の諜報をくらますことになつたと思ふ。
 一、我方のルソン作戦の根幹は要するに出来るだけ米軍をルソンに引きつけ、これに損耗を与へつつ、内地侵攻の時期を後らすといふことである。マニラ市では徹底的に戦ふがマニラ東側地区の我軍は機を見てその背後を衝くことになつてゐる。今日すでにその作戦行動は始まつてゐる。
 一、最近の戦況は御存じの通りである。機動部隊による硫黄鳥および帝都周辺飛行場への攻撃が開始されてゐる。本朝未明〔一九日未明〕以来、硫黄鳥に対し船舶五十隻上陸用舟艇二百隻をもつて上陸を開始した。硫黄島の我防備は、これまでにない程堅固な陣地で固められてゐる。然し今後の戦局の見透しとしては、航空機を基幹とする日本本土の決戦といふことになるのが当然予想される。
 一、陸軍としては、この戦局に対し、大陸および南方に大軍を擁してゐるが、内地の軍隊はこれから整備しなければならない。師団数にしてみると、百ケ師以上になるがその三分の二が外地にあることになる。
 戦局は本土決戦を要請してゐる。陸軍はガダルカナルの転進以来、存分の陸戦を行ふ機会がなかつた。若し本土に米軍を邀へ撃つ〈ムカエウツ〉こととなれぼ、これこそ陸軍が待望した陸戦展開の好機である。
 一、それで、本土に上陸作戦を敢行した場合、我方はいかなる場合にもまたいかなる地点でも、米軍に三倍する兵力を直ちに集中出来る機動力を持つやうにする。これが本土作戦の有利なる理由である。まづ海辺において叩きのめすが、これは大体一週間内と見てゐる。若し橋頭堡を設定し、攻勢を取つて来れば三ケ月は戦はねばならない。この間、兵器、弾薬、食糧の自給が出来るやうにする。何れにしても上陸軍を断じて殲滅する。さうすれば、米軍は再び本土上陸作戦を敢行し得なくなることを確信してゐる。我方が苦しい時は相手も苦しいのである。ルソンの上陸作戦に五、六百万トンの船腹〈センプク〉を要したが、日本本土上陸作戦にはこれによりさらに厖大な物量が絶対に必要となる。米軍が日本本土上陸に蹉跌する時、その立ち直りはもはや不可能である。
【一行アキ】
 今度の戦争開始以来、最大の日本の弱点はあらゆる意味で本土にあつた。今日でもその状況は一向に改められてゐない。而かも戦争の進展如何では本土決戦は不可避である。戦局の客観的情勢は宮崎第一部長が明かにした通りである。ただ、本土決戦が最高の戦争指導方針として確立されたものならば、それに即応する大陸および南方の軍事行動が躊躇なく併行されねばならない。単に一例をとつても、ルソン作戦都延引作戦であるといふことだけでは物足りない。
 得意の陸戦の機会が殆んなかつたといはれる南方に何故厖大な兵力を空費するのであらうか。この点をもつと精しく知りたい。
 レエテ戦局の不利は航空機の不足によると断ぜられた。国力に即応する作戦が肝要なことを自ら物語つてゐる。本土決戦で危惧されるものは戦車の不足である。戦車と飛行機のない陸戦は竹槍的ゲリラ戦である。ゲリラ戦では所期の如き殲滅戦は到底覚束無い〈オボツカナイ〉。
 宮崎第一部長の本土決戦論は、日本に艦船なきことを前提としたもので、連合艦隊今やなしと嘆ぜざるを得なかつた。
【一行アキ】
 B29約百機が東京を空襲した。その編隊は今日では機数も増加し、目撃出来る程度でもガッチリした編隊ぶりである。十一機の一編隊が、高角砲の弾幕を縫つて悠々帝都上空を真一文字に南進した。
 夜、田中〔武雄〕前書記官長を小磯〔国昭〕総理が官邸日本間に招じた。その席上での総理の話。
 朝鮮総督府の職員に別れの挨拶をした時の気持ちは又すぐここに帰へつて来るんだといふ気がしてならなかつた。僕は、〔新〕内閣は流産するなと思つてゐた。東京に着いて、その足で参内したところ、米内〔光政〕君が居るんだね。おい、君、どうしたんだと言つたら、同時に参内だといふんだ。僕は右に立てといはれて、二人で並んで拝謁した。陛下のお言葉は「協力して内閣を組織せよ。ソ連を刺戟する如きことは避けよ」といふやうな意味であつた。そこで僕は「戦局は真に重大であります。この時局をのり切るには国務と統帥の真の吻合が必要であると存じます。微力を尽して、聖慮を安んじ奉り度いと思ひます」との旨を奉答して、御前を退下した。米内君は一言もいはなかつた。それから木戸〔幸一〕に会ひ、米内君が総理はどちらだと聞いた。僕が総理といふことなので、米内君は海軍大臣だなと思つた。それ以外には考へられなかつた。国務と統帥の吻合〈フンゴウ〉といふことと、もう一つ米内君の現役復帰といふ問題に逢着〈ホウチャク〉したわけだ。
 宮中を退下して直ぐ訪ねたのば東条〔英機〕である。東条をこの総理官邸に訪問した。どうしたんだい、退陣の経緯を話して呉れと切り出したら、東条も快く話を始めた。国務と統帥の調整に道があるかと聞いたら、ある、といふんだね。今の大本営政府連絡会議を廃止して、それに代はるものを作ればよいといふんだね。それは大本営条例の改正で出来るといふわけだ。ただ東条は陸相として残りたいらしいので、君、それは思ひ止まつた方が君のためになると忠告しておいた。東条に会つてから杉山〔元〕のところに行つた。野村直邦(海相)は気の毒だったが、米内君の現役復帰、海相就任は簡単に出来た……。
【一行アキ】
 組閣当時の話が、小磯総理の口から、いかにも思ふ出話らしく聞かれるやうになつた。同じ話でも組閣直後であつたらもつと張りのある味がしたことだらう。
【一行アキ】
 総理は何んだか終始考へこんでゐるやうに思へて仕方がなかつた。大阪に出掛けた当時の元気と迫力がすでにない。

 小磯内閣の成立の前、小磯国昭は米内光政と二人で天皇に拝謁したが、そのあと、木戸幸一内大臣に会った際に、米内が木戸に対し、「総理はどちらだと聞いた」と聞いた話はおもしろかった。
 文中に、「今度の戦争開始以来、最大の日本の弱点はあらゆる意味で本土にあつた。今日でもその状況は一向に改められてゐない」とある。指摘としては鋭いが、中村正吾が、本当に、この日、「日誌」に、そう書き込んだのかについては、若干の疑問を持つ。

*このブログの人気記事 2016・2・19(4・9位に珍しいものが入っています)

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午前七時頃、総監私邸に到着した(中島与兵衛)

2016-02-18 05:00:27 | コラムと名言

◎午前七時頃、総監私邸に到着した(中島与兵衛)

 昨日のコラムで、渡辺錠太郎邸にいた護衛憲兵が、二・二六事件当日、牛込憲兵分隊から襲撃のおそれありという急報を受けながら、そのまま「一時間程度」、ほとんど何の措置もとらなかった可能性があることを示唆した。あわせて、大谷敬二郎の著書『二・二六事件』(図書出版社、一九七三)は、襲撃部隊の到着時刻を意図的に繰り上げることによって、この護衛憲兵の「怠慢」を隠蔽しようとした可能性があることを示唆した。
 その根拠を述べよう。第一に、事件が終ってから、憲兵部内で、渡辺邸における護衛憲兵の行動が問題となり、「辱職罪で検挙せよ」との声も強かったという(大谷敬二郎『昭和憲兵史』)。これは、護衛憲兵の「怠慢」が度を越したものであったこと、具体的には、急報を受けた護衛憲兵が、「一時間程度」、ほとんど何の措置もとらなかったことを示しているのではないか。
 もうひとつ、雑誌『文藝春秋』二〇一二年九月号に掲載された渡辺和子さんの手記「二・二六事件 憲兵は父を守らなかった」に、次のようにあるからである。

 一九三二年には五・一五事件がありました。その約三年後の三五年七月に皇道派とされる真崎甚三郎大将が教育総監を更迭〈コウテツ〉され、父が後任になりました。翌月には永田〔鉄山〕少将が暗殺される事件も起きました。そのような背景がありましたから、父の警護のために自宅には憲兵が二人常駐していました。私と父とで一軒先にある姉夫婦の家に行くわずかな時間にも、必ず憲兵が後ろについておりました。
 私が疑問を感じているのは、この憲兵たちの事件当日の行動です。お手伝いさんの話では、確かにその日、早朝に電話があり「(電語口に)憲兵さんを呼んでください」と言われ、電話を受けた憲兵は黙って二階に上がっていった、というのです。しかし、一階で父と一緒に寝ていた私たちのもとのは何も連絡が入りませんでした。私にはその電話の音は聞こえませんでしたが、もし彼らから何か異変の報告があれば、近くに住む姉夫婦の家に行くなりして逃げることも出来たはずです。しかし、憲兵は約一時間ものあいだ、身仕度をしていたというのです。兵士が身仕度にそんなに時間をかけるでしょうか。
 また、父が襲撃を受けていた間、二階に常駐していた憲兵は、父のいる居間に入ってきていません。父は、一人で応戦して死んだのです。命を落としたのも父一人でした。この事実はお話ししておきたいと思います。

 ここに、「憲兵は約一時間ものあいだ、身仕度をしていた」とあること(下線)に注意されたい。すでに見たように、この事件においては、護衛憲兵も拳銃で応戦している。したがって、この「約一時間」というのは、牛込憲兵分隊から急報を受けてから、襲撃部隊が渡辺邸を襲うまでの時間を指しているとみてよいだろう(私は最初、電話を受けてから襲撃隊が引き揚げるまでと受け取ったが、これは誤解だった)。
 しかし、これらは、いずれも、急報を受けた護衛憲兵が、「一時間程度」、何の措置もとらなかったことを証明する決定的な根拠とは言えない。
 そこで、少し別の角度から、渡辺錠太郎襲撃事件の真相に迫ってみたい。ここで、援用したいのが、『二・二六事件と郷土兵』(埼玉県、一九八一)という文献である。
 この本の中に、中島与兵衛という人物(当時、上等兵)が書いた「私は軽機射手だった」と題する手記が収められている。中島与兵衛上等兵は、軽機関銃の射手として、斎藤邸襲撃と渡辺邸襲撃の両方に参加している。この手記は、九ページに及んでいるが、ここで紹介するのは、前半の四ページ強(一六四~一六八ページ)。

 私は軽機射手だった    中島 与兵衛 大正三年四月一五日生
             (歩兵第三連隊第一中隊 上等兵)  【住所・職業略】
 私は当時第五班に所属し、初年兵教育の助手として毎日訓練にはげんでいた。
 二月二十六日、多分零時頃だったと思う、就寝中いきなり窪川班長に起こされた。
「すぐ軽機〔軽機関銃〕を組立ててくれ、それから一装用の軍服を着用するのだ」
 私はかねてから渡満の話を聞いていたので愈々〈イヨイヨ〉出動命令が下ったのかなと思いながらいわれるとおりに従った。
 軽機は普通訓練用の銃身を装備して演習に使用していたが、今から実戦用の銃身と交換せよというのである。持ってきた銃身はグリスで格納されているので、この油をふきとりスピンドルを塗って交換する手順となる。私は手早やに作業を進め組立てを終わった。
 三時頃になると非常呼集がかかった。班内はあわただしさの中で全員が軍装を整え、持込まれた弾薬と食糧を受取るとそそくさと舎前に整列した。
 やがて大隊副官の坂井〔直〕中尉がきて命令をくだした。
「只今より中隊の指揮を坂井が執る。
命令―命によりこれから昭和維新を断行する、よって国賊に対して天誅〈テンチュウ〉を加える。
合言葉、尊皇=討奸」
 私ははじめ何のことか判らなかったが、多分帝都に暴動が起こったので鎮圧のために出動するのではないかと推考した。しかし昭和維新ということが何であるのか、説明がなかったのでなんのことかわからなかった。
 もう一つ、中隊兵力が殆んど出動するのに中隊長矢野〔正俊〕大尉の姿が見えず、関係の薄い坂井中尉が指揮をとるのは変である。また将校では高橋〔太郎〕、麦屋〔清済〕両少尉の他は誰もきていない。これも妙な話だ。
 だが鎮圧を急ぐため、このような応急手段をとったのかもしれぬ……私は自分なりの解釈をしながら坂井中尉の訓示を聞いていた。
(この時末吉〔正俊〕曹長、中島〔正二〕軍曹の二名はすでに逃亡していた)
 ここで出動にあたっての編成が組まれ、私はさきの軽機を携行して初年兵ばかり約一〇名を従え軽機分隊となり、その分隊長となった。なお今後は将校と行動を共にするよう命令を受けた。
 やがて三時三〇分積雪の営庭を出発し粛々として乃木坂を下っていった。雪がまた降り出しあたりは白銀一色に覆われ、猫の子一匹見えず街並は静寂そのものであった。
 約一時間も行進した頃隊列はフト停止した。場所は四ツ谷仲町近辺である。そして隊列が自動的に崩れ予め示された警戒位置に向って一斉に散開した。何と襲撃目標は斎藤〔実〕内府邸であった。散開したあとに残った兵力は概ね二〇名弱、これが襲撃班だ。私もその中の一人、将校は坂井中尉、高橋少尉それに砲工学校から参加した安田〔優〕少尉の三名、
 麦屋少尉は警戒分隊への指示でまだ見えない。
 五時正門から襲撃開始、数名が塀を乗り越えて中から門扉〈モンピ〉を調き、主力を邸内に誘導すると約一〇名くらいの護衛警官があわてて支度しているのに遭遇した。これを忽ち包囲し、
「静かにしろ、邸の周囲には二千名の軍隊が包囲しているのだ、抵抗は無駄だ!」
というと警官は観念したように腰をおろし命令に従った。だがこの内数名だけはどこかへ逃走したようであった。
 襲撃隊は当初二手に別れたが急に一団となり建物の裏手から突入をはかった。先づ雨戸をこじあけようとしたがビクともしないので小銃の床尾鈑〈ショウビハン〉で叩きこわして内部に進入、そこは女中部屋で女どもが物音に驚き震えているのが見えた。そこへ書生らしい若い男が出てきて「何の用ですか」といった。
「斎藤内府に用事があってきた。部屋に案内してもらいたい」
 すると書生は素直に返事をして二階の寝室に案内した。その後に坂井中尉、高橋少尉、安田少尉、林〔武〕伍長、そして私の五名が続いた。部屋の前までくると我々の足音に目をさました〔春子〕夫人が、ソッと戸を開けたが我々の物々しい姿に驚きすぐに戸を閉めた。しかし多勢の力には抗すべくもなく戸は難なく開かれた。部屋の中は電灯がともり明るかった。
 一歩部屋の中に踏み込むと夫人は我々の前に手をあげて立ち塞がり「待って下さい」と叫び進入を拒んだ。しかし我々は耳をかすことなく夫人を払いのけ奥の寝室の戸をあけると、そこに目指す斎藤内府が立っていた。それを見た一団は一斉に近迫したとみるや先づ安田少尉が「天誅国賊」と叫び拳銃を発射した。その距離僅か一米〈メートル〉、弾丸は正確に心臓に命中、内府は二、三歩後退するような恰好で倒れた。
 すると夫人が横から飛び出し内府の身に馬乗りになって抱きかかえ、
「殺すたら私を殺せ」
と半狂乱になって絶叫した。
 夫人は渾身の力で内府をかばい、しっかりと抱きしめているので引離すことができない。これ以上銃弾を浴びないように防ぐ姿に一瞬たじろいだが目的を達するため拳銃を差入れるようにして次々に発射、私も軽機で十五発連射した。頃合いをみて安田少尉が軍刀で止めを刺し斎藤内府襲撃は終了した。時に午前五時十五分である。
 部隊は間もなく正門前に集結し万歳を唱えたあと二手に別れた。主力は坂井中尉、麦屋少尉の指揮で陸軍省へ、私たち襲撃班は徒歩で赤坂離官前に行き、そこからトラックで荻窪に向った。目標は渡辺〔錠太郎〕教育総監である。
 午前七時頃正門前に到着、そこは総監の私邸であつた。直ちに門を押しあけて邸内に進入、襲撃は表と裏の両面から実施するため進入しながら二手に別れた。私は表玄関組である。早速屋内進入にかかったが玄関の戸締りが厳重で思うように開かない。そのうち内部から拳銃を射ってきたので忽ち銃撃戦とたった。そこで私も軽機を腰だめにして拳銃音をめがけて連射した。
 数分たった頃、「裏口があいている」という連絡がきたので全員裏口に廻わり安田少尉が先頭を切って屋内に入った。
 我々の襲撃を察知した総監はここから脱出しようとしたのではなかろうか。
 安田少尉はツカツカと進んで部屋の戸をガラッとあけると、そこに〔すゞ子〕夫人が襖を背に、手を拡げて立っていた。安田少尉が総監の部屋を尋ねるといきなり、
「あなた方は何のためにきたのですか、用事があるなら何故玄関から入らないのですか」
と大声をあげた。夫人は勿論総監の居場所など答える筈はない。しかしその様子で大体察しがついた。その奥の部屋に居るらしい。いや、いる筈である。そこで高橋少尉が夫人を払いのけて襖を開放した。すると布団の付近から突然拳銃を発射してきた。正しく総監であった。その部屋は八畳ぐらいの寝室で、総監は布団をかぶりその隙間から拳銃を発射しているらしい。
 ここでまた応戦の形で銃撃戦が行なわれたが、相手が一人のため瞬く間に決着がつき高橋少尉が布団の上から軍刀で止めを刺して引あげた。この襲撃も時間にすればせいぜい二十分位いだったと思う。【以下略】

 長々と引用したが、最も注目すべきは、「午前七時頃正門前に到着、そこは総監の私邸であつた」という部分である(下線)。斎藤邸襲撃が終了した時刻を午前五時一五分とし、赤坂離宮前を出発した時刻を五時二〇分とすると、荻窪の渡辺邸到着まで、一時間四〇分を要したことになる。やや、時間がかかりすぎている気もするが、当事者がそのように書いている点は無視できない。
 仮に、佐川憲兵伍長が電話を終えた時刻を五時五〇分とすると、それから七時〇〇分までの一時間一〇分の間、佐川憲兵伍長は、何らの措置もとらずに、襲撃部隊が来るのを漫然と待っていたということになる。
 ところが、大谷敬二郎は、著書『二・二六事件』において、襲撃部隊が引き揚げた時刻を、午前「六時半頃」としている。大谷は、襲撃部隊の撤収時刻を意図的に繰り上げ、これによって襲撃部隊の到着時刻も繰り上げたのではないか。そうすることによって、護衛憲兵が、急電を受けてから、「一時間程度」、何らの措置もとらなかったという事実を隠蔽しようとしたのではないか。
 大谷は、その著書『昭和憲兵史』においては、襲撃部隊の撤収時刻を記していない。これは、あえて記さなかったのであろう。そしてそこには、「牛込憲兵分隊の急報は、たとえ僅か二、三分でも時間的の予告があった筈である」という記述がある。大谷は、こういう表現によって、襲撃部隊の到着が急電の直後であったかのような印象を、読者に持たせようとしたものと思われる。
 この話は、まだまだ続くが、明日と明後日は、いったん話題を変える。

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渡辺邸に襲撃部隊が到着した時刻は?

2016-02-17 04:07:33 | コラムと名言

◎渡辺邸に襲撃部隊が到着した時刻は?

 話を「二・二六事件」に戻す。一昨日、大谷敬二郎『昭和憲兵史』(みすず書房、一九六六)から、渡辺錠太郎教育総監襲撃事件の部分を引用した。
 本日は、大谷敬二郎『二・二六事件』(図書出版社、一九七三)から、同襲撃事件の部分を引用してみる(一八~一九ページ)。

 渡辺大将暴徒と戦う
 その朝、荻窪の渡辺邸ではすず子夫人がいつものように家人に先んじて寝床を離れていた。この数日来何かしら気味の悪いものがひしひしと感ぜられる。家の干物〈ホシモノ〉がなくなったり、ついぞ見かけぬ迂散臭い〈ウサンクサイ〉男が屋敷のまわりをうろうろしているのを見かけたこともある。主人は何事もいわないがいろいろな脅迫状もまい込んでいるらしい。宅には憲兵さんが二人も寝泊りしていてくれるので幾分は心強いものがあるが、それでも不安で不安でたまらない。――けたたましく電話のベルが鳴った。
「もしもし、渡辺閣下のお宅ですか、牛込憲兵分隊ですが急用ですから佐川伍長をすぐ呼んで下さい」
 こんなに早く何事だろう。何かおこったのではなかろうか、でも憲兵隊のお役所向きのことを聞くわけにもいかない。夫人は廊下を走るようにして玄関二階に寝泊りしている憲兵をおこしに行った。
「憲兵隊から至急のお電語です」
 佐川伍長は蒲団をはねのけるや寝衣のままで電話室にとび込んだ。
「今払暁、在京青年将校が部隊を率いて首相官邸、斎藤内大臣邸、鈴木待従長邸などを急襲し、陸軍省にも大部隊が占拠している。あるいは、大将邸を襲うかも知れない。十分に警戒するよう、すぐ応援憲兵が送られるはずだ、しっかりやれ」
 分隊当直下士官からの連絡だった。佐川伍長はいよいよ来たなと覚悟をきめた。落ちついて腕の時計を見ると六時十分前だった。寝衣のままではどうにもならない。彼は小走りで居室に戻り、部下の上等兵をたたきおこしながら急いで軍服と着がえて武装を整えていた。途端に白動車の音が表門の方で聞こえた。来たなと思うとすぐ拳銃に装填【ソウテン】した。自動車は前で停まった。〝下車〟どやどやと軍靴の音が雷の上を走る。
 玄関の扉がはげしく叩かれる。憲兵は暴徒の闖入を食いとめようと、玄関を内から固めていた。ダンダン、ダダン――機銃の打ち込みだ。憲兵も拳銃をもって応戦した。
 さて、この渡辺邸襲撃隊は、すでに今暁斎藤邸を襲撃した坂井〔直〕部隊の一隊であった。午前五時二十分頃、鈴木〔ママ。高橋太郎の誤記か〕、安田〔優〕両少尉の指揮する下士官兵三十名は赤坂離宮前において市川野重七〔野戦重砲第七連隊〕の田中勝中尉の差し向けた自動貨車〔トラック〕によって渡辺邸を襲ったのである。
 彼らの一隊は正面玄関よりの進入困難と見るや、一部を残して大部分は裏庭に回った。そして安田少尉を先頭に雨戸を機銃の掃射で破壊し屋内になだれ込んだ。すず子夫人は雄々しくもこれを阻止しようとして彼らの前に立ちふさがった。だが若い兵隊たちは殺気だっていた。夫人をつきとばして群をなして室内になだれ込んだ。大将は変を知ってかねて用意の拳銃を手にして階下十畳の寝室から廊下に出て彼らに立ち向かった。だが漸次押されてもとの寝室に退った〈サガッタ〉。これを追う彼らは軽機をぶち込んで一瞬に大将を倒してしまった。
 すべて一瞬の出来事だった。玄関に暴徒と対戦していた憲兵は大将の危急に間に合わなかった。憲兵上等兵は右足に貫通銃創をうけたが佐川伍長は無疵【むきず】だった。こうして襲撃隊はその目的を達し六時半頃引きあげたが、途中牛込分隊からの応援憲兵と国道上で遭遇し、彼我車上において銃戦を交えたが、襲撃隊は瞬時にして立ち去り陸軍省付近に走った。
 なお、渡辺大将は身に機銃弾十数発をうけ、また、その後頭部は三個所の切創をうけていた。まことに無惨な最期であった。

 これによれば、すず子夫人が電話を取った時刻は不明だが、佐川伍長が電話を終えた時刻は、午前五時五〇分だったという。
 高橋・安田両少尉が指揮する「下士官兵三十名」が、赤坂離宮前でトラックに乗車したのが、午前五時二〇分ごろ。それから、荻窪の渡辺邸に到着するまで、どのくらいの時間を要したかハッキリしないが、引き揚げた時刻(午前六時三〇分ごろ)から逆算すると、襲撃部隊は、午前六時〇〇分から六時一〇分の間に、渡辺邸に到着していたことになるのではなかろうか。
 これらの時刻は、あくまで、大谷敬二郎『二・二六事件』の記述を信用した上での話である。
 ところで、不思議なことに、同じ著者の『昭和憲兵史』では、佐川伍長が急電を受けた時刻、襲撃部隊が引き揚げた時刻について言及がない。「時刻」に関して触れているのは、次の一箇所のみである。

 さて、二月二十六日朝、斎藤内大臣私邸を襲うた歩三坂井直中隊の一部約三十名は、五時十五分頃軍用トラックに乗り赤坂離宮前を出発し、降りしきる雪をついて杉並区荻窪二〇一三の渡辺教育総監私邸に向った。指揮官は歩三高橋太郎少尉と砲工学校学生安田優砲兵少尉であった。

『二・二六事件』では、赤坂離宮前を出発したのは、午前五時二〇分ごろとなっている。その差は五分にすぎないが、どちらかと言えば、午前五時二〇分ごろと考えたほうがよかろう。なぜなら、斎藤内大臣邸の襲撃開始は午前五時〇〇分とされており(後述)、これが、一〇分ほどで目的を達したとしても、渡辺邸襲撃隊を招集し、それを出発させるまでには、斎藤邸襲撃開始から、最低二〇分は要したと見るべきだからである。
 もうひとつ不思議なのは、『昭和憲兵史』では、佐川伍長のとった措置に対して、批判的な視点が見られるのに対し、『二・二六事件』のほうには、そうした視点が全く見られないということである。
 このことは、私見では、『二・二六事件』において、著者の大谷敬二郎が、引き揚げた時刻を午前「六時半頃」としていることと関わっている。つまり、大谷は、襲撃部隊の到着時刻および撤収時刻を意図的に繰り上げ、そうすることによって、護衛憲兵が、急電を受けてから、「一時間程度」、何らの措置もとらなかったという事実を隠蔽しようとしたのではないか。この「一時間程度」の根拠については、次回。

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1945年2月16日、帝都にグラマン来襲

2016-02-16 01:20:48 | コラムと名言

◎1945年2月16日、帝都にグラマン来襲

 今月一一日、中村正吾著『永田町一番地』(ニュース社、一九四六)から、七一年前の二月一一日における著者(当時・緒方竹虎国務相秘書官)の「日誌」を紹介した。
 本日は、その続きで、七一年前の二月一六日から一八日にいたる中村正吾の「日誌」を紹介してみたい。

 二月十六日
 午前八時、空襲警報となる。ラジオの放送は「敵小型機数編隊をもつて本土に近接しつつあり」と伝へる。この二、三日来、米機動部隊の本土近海出没の情報があつた際ではあり、本土がつひに米艦載機〈カンサイキ〉の攻撃を受けるに至つたことを直感した。容易ならぬ事態である。
 約一時間の間隔をおいて、延〈ノベ〉千四百機をもつて、千葉、埼玉、神奈川県下の帝都周辺の各飛行基地を間断なく反復爆撃した。東京の空ははじめてグラマン戦闘機の急降下爆撃の無気味な音を聞く。
 帝国海軍微動だにもせずとの皮肉な声が巷〈チマタ〉にあがつた。
 小磯首相の旧友たる山縣初男大佐が中国を視察して最近帰京し、総理にその報告を行つた。
 二月十七日
 予期された如く再び空襲警報が鳴る。今日の米攻撃は、一時間半おき位で機数は前日に比し少い。これは我方〈ワガホウ〉の反撃の結果ではなく、米艦隊の行動自体によるものであらう。午前中で、攻撃は終止した。
 情報によると、米機動部隊は三、他に一機動部隊があり、目下、硫黄島に対し艦砲射撃中である。本土を空襲した機動部隊は六百機の直掩機〈チョクエンキ〉を擁し、そのため、我方から出撃した三十機の中、二十機は未帰還、十機は天候不良のため敵目標に到達し得ず、引き返して来たといふことである。残念ながら、制海権と局地的制空権は米の掌中に確保されてゐる。
 米機動部隊は帝都周辺のわが飛行基地を隈なく爆撃した後、目下のところ西方に移動しつつある。関西地方をも一なめせんとするのであらう。今朝の攻撃により横浜港内に碇泊中の空母一隻が大破した。
 風船に爆弾を積んで米本土を攻撃すといふ記事を陸軍報道部の指導で明日の各新聞紙上に発表するといふことである。これについてはすでに内奏、御裁可を得たと付言し、陸軍報道部から情報局検閲課に連絡して来た。
 第一に何のための発表であるかと思ふ。風船による攻撃の実情は米国では日本より精しい〈クワシイ〉はすであるから、米国からは笑ひものになるのは間違ひない。とすると、発表のねらひは国内宣伝の意味としか受取れない。機動部隊の攻撃を受けてゐるさ中のことである。思ふに、日本もやつてゐるのだと国民を鼓舞し、それとともに、艦載機の攻撃から国民の眼をそらさんとする意図であらう。凡そ新兵器はその存在が漠然としてゐる間こそそこに夢もある。風船爆弾の如く現に大した戦果もないのを承知の上で宣伝の具に供することはこの国民の夢を破るばかりで、やがて起るべき失望の反響の方が却て大きい。国内宣伝としては意味をなさない。
 第二に、風船爆弾の発表、つまりその報道の事項が何故、陸軍報道部のみの手に待たねばならないのか。風船爆弾による対米攻撃は統帥事項であらう。それは作戦であるから。然しその事実を発表し、報道することの検討は統帥事項だとは誰も考へない。小なりとはいへかういふことに依つて示されるものが、統帥権の拡張の事実である。そこに陸軍の独断が働く。

 二月十八日
 昨夜来、静かではあるが、機動部隊が本土近海から完全に逃避した様子はない。硫黄島に対する攻撃はなほ続行中である。
 その上陸企図は一昨、十六日、午後二回に亘つたが、これを撃退したとの陸軍の情報がある。

 二月一六日の項に、「中国」という言葉が出てくる。当時は、「支那」と言っていたはずであり、この「日誌」が戦後の視点から、再編集されていることをうかがわせる。
 以下、用語について、注釈を試みる。「機動部隊」というのは、海上においては、空母を中心とした艦隊を指す。
「艦載機」というのは、空母に搭載された航空機のことである。二月一六日以降、帝都周辺の航空基地を爆撃した「敵小型機」というのは、本土近海にやってきた米機動部隊の空母から発進した艦載機である。機種としては、グラマンF6Fヘルキャットが中心だったらしい。日誌にも、「グラマン戦闘機」という言葉が出てくる。
「直掩機」は、護衛機ともいう。戦闘部隊を直接、掩護する航空機である。この場合は、海上の機動部隊を掩護する航空機なので、事実上、「艦載機」と同じということだと思うが、この方面には詳しくないので、断定はしない。
 明日は、二・二六事件の話に戻る。

*このブログの人気記事 2016・2・16(8・9位に珍しいものが入っています)

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渡辺教育総監、安田優少尉を銃撃す

2016-02-15 02:46:00 | コラムと名言

◎渡辺教育総監、安田優少尉を銃撃す

 一二日、国立国会図書館に赴いた際、大谷敬二郎『昭和憲兵史』(みすず書房、一九六六)も閲覧してきた。
 大谷敬二郎は、東京憲兵隊特高課長、東京憲兵隊長、東部憲兵隊司令官などを歴任した憲兵中のエリートである。二・二六事件の時は、憲兵大尉で、東京憲兵隊付として、青年将校の取調べにあたった。『にくまれ憲兵』(日本週報社、一九五七)など、著書多数。
 さて、『昭和憲兵史』は、今回、はじめて手にとったが、上下段組み、七九四ページの大冊であった。とりあえず、渡辺錠太郎教育総監襲撃事件のところだけ、読んでみた。以下に引用する(一八七~一八九ページ)。

 9 渡辺邸の襲撃と護衛憲兵
 叛乱軍は三長官の一人渡辺教育総監を軍賊としてその私邸を襲撃して惨殺した。渡辺総監の天皇機関説言動に憤慨した青年将校がその辞職を勧告乃至強要していたことは、既述したが、彼の身辺には危険が迫っていた。この年一月には、浅草のテキヤの親分江口佐八が乾分〈コブン〉七、八人を使って渡辺大将暗殺を企て警視庁に検挙されたこともあり、大将私邸にも多くの脅迫状が投げ込まれていた。だから大将自身もひしひしと身に迫るものを感じていた。高宮太平〈タヘイ〉氏が戦後書かれている〝暗殺された二将軍〟によると、当時満洲にいた高宮氏に二月の始め、渡辺大将から一書が届いた。それにはこんな一節があった。
「卑賎に身を起し人民の極位に昇り候事、偏に〈ヒトエニ〉天恩優渥〈ユウアク〉之賜〈タマモノ〉、一身を邦家に捧げ誓而〈チカッテ〉宸襟〈シンキン〉を安んじ奉らむことを期する覚悟に御座候最近特に貴兄御在京ならば御意見を承り度〈タシ〉と存〈ゾンジ〉候件多く、時に夢裡〈ムリ〉貴兄と会談する事あり御推察被成下度〈ナラレクダサリタク〉候」
 驚いた高宮氏は南〔次郎〕軍司令官や東条〔英機〕憲兵司令官に会って、この手紙をみせ、中央の情勢に何事か不吉の予感があるのではなかろうかと尋ねたと、そのいきさつが書かれている。事実、大将は当時国軍の前途に心痛し、身に迫る危険には十分の覚悟をしていたことを窺われる。こんな情勢であったから東京憲兵隊長は牛込憲兵をして、常時下士官一上等兵一の身辺護衛を付して警戒に当らせていた。この憲兵は渡辺家に宿泊し総監他出のときは必ずその一名を随行護衛に任ぜしめていた。
 さて、二月二十六日朝、斎藤内大臣私邸を襲うた歩三〔歩兵第三連隊〕坂井直〈ナオシ〉中隊の一部約三十名は、五時十五分頃軍用トラックに乗り赤坂離宮前を出発し、降りしきる雪をついて杉並区荻窪二〇一三の渡辺教育総監私邸に向った。指揮官は歩三高橋太郎少尉と砲工学校学生安田優〈ユタカ〉砲兵少尉であった。
 この朝大将邸ではいつも早起きのすず子夫人は、すでに寝床をはなれていた。けたたましく鳴るベルの音に夫人は、咄嗟におこる胸さわぎを押えながら電話室に飛び込んだ。電話は牛込憲兵分隊からだった。
「大至急佐川伍長をお呼び下さい」
 夫人は長い廊下をつっ走るように表二階に寝ていた佐川をおこした。
 夫人はこの頃の夫の憂鬱な日常が何よりも心配だった。夫に対する危険は夫人も同じようにうけとっていた。毎日毎日がうっとうしいことの連続だった。夫は何もいわないが、この先、いつどんなことが起るかもしれないと思うと不安で不安でたまらなかった。そうした心の迷いのためか、時々見かけない男が家の前をうろついていたこともあったし、また洗濯物が何者かに故意に持ち去られたこともあった、不吉の予感は重苦しく夫人をおおいつぶしていた。
 早い憲兵隊の電話に胸をつくものがあったが、長年の習慣でお役所の秘密を盗み聞きするようなことはできない。わざと電話室をはなれていた。佐川伍長はねまき姿で電話にかかっていたが、何もいわないで慌てて自室へかけ戻った。あるいは自分の気の迷いか、独りの取越苦労だったかと夫人は思い直していた。
 だが、牛込憲兵分隊からの急報は重大なものだった。
「今朝、首相官邸、陸軍省に第一師団の部隊が襲撃してきた。鈴木侍従長官邸や斎藤内大臣邸もおそわれたらしい。軍隊の厥起だ。大将邸も襲われるかもしれない。直ぐ応援を送る、しっかりやれ」
 伍長は、とうとう来るものが来たと思った。寝衣のままではどうにもしようがない。急いで自室に戻った彼は、同僚の上等兵をたたきおこし、自ら軍服を着込んで武装もした。その時だった。表門のところでトラックのきしる音がしたと同時に、下車、ガヤガヤと兵のざわめきがおこった。咄嗟に彼は階下に降りた、とたんに車から降りた兵隊逮は、表玄関に殺到してきた。ダダダン軽機の乱射、すぐ憲兵はこれに応戦した。
 玄関からの突入は困難とみた安田少尉は裏門に廻った。そこには、すず子夫人が気丈にも頑張っていた。
「貴方がたは何ものですか」
「婦人に用はない、大将の居間はどこか」
 安田を先頭にして十数名の一団は、夫人をつきとばして室内に闖入〈チンニュウ〉した。階下十畳の間にいた渡辺大将は、用意の拳銃を握りしめて廊下に出るや、この先頭群に火蓋〈ヒブタ〉を切った。だが、多勢に無勢、大将は押されてまた居間に戻った。十畳の間に乱入した兵たちは、大将めがけて乱射した。大将は身に十数弾をうけて倒れた。兵隊は倒れた大将の後頭部を斬撃した。止めのつもりなのであろう。十畳の居間の壁、戸障子には無数の弾痕をとどめ、はげしい打合いのあとをしのばせていた。
 こうして乱戦すること五分、襲撃部隊は目的を達成して引上げた。国道に出たところ、前方にトラックに満載した憲兵部隊に出合った。すれ違いざま、お互いに打ち合ったが、間もなく離れてしまった。応援にかけつけた憲兵の指揮する補助憲兵の一隊だったが、僅かな時間差で救援には間に合わなかった。なお、この乱戦で護衛憲兵の上等兵は左足に貫通銃創をうけたが、佐川伍長は無傷だった。また、渡辺大将の射撃によって先頭をきっていた安田少尉は足に銃創をうけた。
 だが、この襲撃に護衛に任じていた憲兵には、いろいろ問題があった。たった二名の護衛兵力で、三十数名の襲撃部隊と戦って勝ち目のないことはわかりきっている。幸にも、渡辺邸は第二次襲撃であり、場所も都心からはなれた郊外にあった。牛込憲兵分隊の急報は、たとえ僅か二、三分でも時間的の予告があった筈である。なぜ、護衛憲兵は大将を安全の場所に逃避させることができなかったのだろうか、平素より護衛の任にあるものは、一対一の戦いではなくて集団兵力による急襲に際しての対策を樹てていなくてはならない。この場合、逸早く当人を安全地帯へ逃避させる工夫が必要だった。しかもこれは可能であったのである。夫人の後日話によると、長男夫妻がすぐ一、二軒どなりに世帯をもっていた。だから、牛込分隊の急報に憲兵は、
「奥さんすぐ閣下をお隣りへ移ってもらって下さい」
と電話口で呼べばよかった。たとえ、こんな恰好な家がなくても、邸を出ればよかった。その頃の荻窪の住宅街は、たて込んでいなかった。たいへん閑静な田園住宅だった。森あり林あり、何処にも、しばらくの間、身をかくすのに不自由はなかったのである。佐川伍長のうろたえは、この大切の一瞬の好機を失ってしまった。
 凡そ〈オヨソ〉、身辺護衛は、護衛者、被護衛者とその家族の三位一体でその安全が期せられるということである。この三者が万全の案をねり、しかも、その各々の対処に習熟しておくことが望ましい。これを卑怯といってはならない。みすみす殺されることを予期して漫然としていることは、自らの責任を知らざるもの、自分を大切にするものこそ、人々を大事にすることができるのであろう。
 渡辺大将は軍人だった。すでに陸軍大将、腕力や身体的挙措においては、加害者に弱いのは当然であるが、それでも毅然として拳銃をもって立ち向っている。三十数名の銃口の前に敢然と立ち向う勇気、それは数十年に亘る軍人としての修練の結果であろう。
 とも角も、この場合護衛憲兵には欠けるところがあった。事件が終ってから、これが憲兵部内の問題となった。護衛憲兵を辱職罪〈ジョクショクザイ〉で検挙せよとの声も強かった。牛込分隊長磯高麿〈イソ・タカマロ〉少佐は、自ら護衛憲兵を調査し事突を究明した。その結果は、辱職罪による軍法会議送致は保留されたが、両名とも行政処分に付せられ、先任者だった佐川伍長はその年、除隊を命ぜられ憲兵を去った。護衛勤務はきびしいものであった。

 昨日のコラムの【付記】にも書いたが、大谷敬二郎には、『二・二六事件』(図書出版社、一九七三)という著書もある。そして、『昭和憲兵史』と『二・二六事件』とを比較すると、渡辺教育総監襲撃事件についての記述が、微妙に異なっている。
 そこで、『二・二六事件』のほうも紹介してみようと思うが、これは明後日。明日は、いったん話題を変える。

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