礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

護衛憲兵は、なぜ教育総監を避難させなかったのか

2016-02-14 03:43:18 | コラムと名言

◎護衛憲兵は、なぜ教育総監を避難させなかったのか

 ここ数日、渡辺錠太郎教育総監襲撃事件(一九三五年二月二六日)を採り上げている。本年も二月二六日が近づいているので、タイミングとしても悪くない。
 さて、一昨日、国立国会図書館に赴き、大谷敬二郎『昭和憲兵史』(みすず書房、一九六六)、『二・二六事件と郷土兵』(埼玉県、一九八一)、『歴史と旅』特別増刊号「帝国陸軍将軍総覧」(一九九〇年九月)などを閲覧してきた。
 このうち、『歴史と旅』特別増刊号「帝国陸軍将軍総覧」の「大将渡辺錠太郎」の項目(執筆・円谷真護)を読むと、「青年将校の襲撃」、および「皇道派の反発」という節があり、「青年将校の襲撃」の節には、次のようにあった。

青年将校の襲撃
 昭和十一年(一九三六)二月二十六日早朝、荻窪の教育総監・渡辺錠太郎大将の邸では、すず子夫人が早くも床を離れていた。するとけたたましく電話のベルが鳴った。牛込憲兵分隊からで、「すぐ佐川伍長を呼んで下さい」という。
 夫人は廊下を走って、玄関二階に泊まっている憲兵を起こした。佐川伍長が電話をとると、「払暁〈フツギョウ〉、青年将校らが部隊をひきいて首相官邸などを襲撃した。あるいはそこも襲うかもしれない。すぐ応援の憲兵をおくる。しっかりやれ」という緊急な内容だった。
 佐川伍長は、「いよいよ来たか」と思い、落ち着いて時計を見ると六時一〇分前だった。急いで部屋にもどり、部下の上等兵をたたき起こして軍服に着替えていると、表門の前に自動車の停まる音が聞こえ、つづいて、軍靴が乱れて雪の上をこちらへ走ってくる。
 伍長は拳銃に装填し、玄関へ走って固めた。玄関がはげしく叩かれたかと思うと、機関銃を打ち込んで来た。伍長たちも拳銃で応戦した。
 襲撃したのは、高橋太郎少尉と安田優【まさる】少尉が指揮する下士官と兵三〇人の一隊である。
 斎藤実【まこと】内大臣を襲った後、トラック一台に乗ってきたもので、軽機関銃四挺をもっていた。玄関から応射してきたので、一部を残して裏手にまわり、屋内になだれ込んだ。
 すず子夫人が、「乱暴な」と立ちふさがったが、殺気だった兵たちは夫人をつきとばして乱入した。
 このとき渡辺大将は、拳銃を手に階下一〇畳の寝室から廊下へ出て立ち向かっていった。しかし、乱射されて室内へもどった。そこへ、拳銃と軽機が火を噴いた。一瞬にして、大将は倒れた。玄関にいた憲兵は、一人は無傷であったが、急場の間に合わなかった。
 襲撃隊は六時半頃、渡辺邸をひきあげた。途中、応援の憲兵隊と遭遇し、車上から銃撃を交えながら、たちまち去って行った。大将の遺体には一〇数カ所の切り傷があった。青年将校は、大将を憎悪していたと判断される。一体、なぜか。

 この文章は、あとで確認するように、大谷敬二郎『昭和憲兵史』を参照している。しかし、同書に書かれていないことが、少なくとも二か所、書き加えられている。ひとつは、佐川伍長が急電を受けたあと、「落ち着いて時計を見ると六時一〇分前だった」というところ、もうひとつは、「襲撃隊は六時半頃、渡辺邸をひきあげた」というところである。ここは、ぜひ、典拠を示していただきたかったところである。
 ともかく、上記部分を読んだ読者は、おそらく、次のような印象を受けることであろう。急電を受けた佐川伍長が、急いで部屋に戻って、軍服に着替えていると、早くも襲撃隊がやってきた。佐川伍長と部下の上等兵は、ただちに、これに応戦したが、襲撃隊は裏口から邸内に侵入し、渡辺錠太郎大将を惨殺。目的を達した部隊は、すぐに引き揚げていった。――
 この文章を書いたのは、円谷真護〈ツブラヤ・シンゴ〉さんという文芸評論家である。この方が、二・二六事件について、どういう見解をお持ちなのか存じあげないが、引用した記述は、結果的に、ふたりの護衛憲兵がとった行動を、是認するものとなっている。
 すなわち、佐川憲兵伍長は、急電を受けたあと、その内容をすぐに渡辺大将に伝え、大将を邸外に避難させるべきであった。その時間的余裕は、十分にあったと思う(後述)。万一、その時間的余裕がなかったとしても、渡辺大将が惨殺される場面で、何らかの阻止行動をとれなかったものか。
 円谷氏の文章には、そうした批判的視点が、完全に欠落している。そして、この点は、昨日、紹介した『図説 2・26事件』(河出書房新社、二〇〇三)についても、ほぼ同じことが言えるように思う。【この話、しばらく続く】

【付記】 上記で、「この文章は、あとで確認するように、大谷敬二郎『昭和憲兵史』を参照している」と書きましたが、その後、『昭和憲兵史』(みすず書房、一九六六)は参照せず、同じ著者の『二・二六事件』(図書出版社、一九七三)を参照しているのではないかと考え直しました。というのは、本日午後になって、後者を手にとり、そこに、「落ち着いて腕の時計を見ると六時一〇分前だった」、「こうして襲撃隊はその目的を達し六時半頃引きあげた」という記述があることに気づいたからです。ちなみに、大谷敬二郎『昭和憲兵史』には、護衛憲兵がとった行動に対する「批判的視点」が見られますが、同じ著者による『二・二六事件』には、なぜか、そうした批判的視点が見られません。2016・2・14午後4:30記

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護衛憲兵、渡辺邸表玄関で襲撃隊に応戦

2016-02-13 04:49:32 | コラムと名言

◎護衛憲兵、渡辺邸表玄関で襲撃隊に応戦

 昨日の続きである。二〇一六年二月一〇日発売の雑誌『文藝春秋』同年三月号に、渡辺和子さんと保阪正康さんの「二・二六事件 憲兵は父を守らなかった」と題する対談記録が載った。
 この対談における保阪正康さんの発言から、「渡辺錠太郎教育総監を守らなかった」二人の憲兵のうちのひとりが、「佐川伍長」であることを知った。
 対談記録を読んだ当日(一〇日)、グーグルで、「渡辺錠太郎 佐川伍長」を検索してみると、「歴史が眠る多磨霊園」というホームページの「渡邉錠太郎」という項目が、まずヒットした。
 多磨霊園にある墓石が写真で紹介されたあと、渡邉錠太郎の経歴等について、簡潔にして要を得た解説がある。墓石の右手前に「護国偉材」と書かれた碑があることなども紹介されている。次女の渡辺和子さんについても、短い言及がある。
 そのあと、【2.26事件と多磨霊園に眠る人物】という節があって、ここで、同事件で「殺害された人物は全て多磨霊園に眠っている」こと、同事件に関わった様々な人物が、この霊園で眠っていることなどを知ることができた。実に、参考になる(勉強になる)ホームページである。
 続いて、【渡邉錠太郎教育総監襲撃(2.26事件)】という節があり、ここに、「佐川伍長」の名前が出てくる。このあたりを、少し引用させていただきたいところだが、項目の最後に、「このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。」という注意があったので、控えなければならない。
 この節の末尾には、参考文献として、〈「図説 2・26事件」河出書房新社〉と〈帝国陸軍将軍総覧〉のふたつが挙げられていた。「図説 2・26事件」というのは、太平洋戦争研究会編・平塚柾緒著『図説 2・26事件』(河出書房新社、二〇〇三)のことである。「帝国陸軍将軍総覧」というのは、たぶん、雑誌『歴史と旅』の特別増刊号「帝国陸軍将軍総覧」(一九九〇年九月)のことであろう。
 翌一一日、地元の図書館に行って、まず、『図説 2・26事件』を閲覧してきた。「帝国陸軍将軍総覧」のほうは、あとまわし。
 以下、本日は、『図説 2・26事件』から、渡辺錠太郎襲撃関係の記述を紹介してみたい。

渡辺錠太郎教育総監襲撃
 襲撃隊に応戦した渡辺大将の最期
 四谷仲町で斎藤実内大臣を襲撃したのち、主力は他の決起部隊と合流するため陸軍省に向かったが、高橋太郎、安田優両少尉に率いられた約三十名の下士官兵はトラックで杉並の上荻窪に向かった。渡辺錠太郎教育総監を襲撃するためである。トラックには軽機関銃四挺、小銃約十挺が積まれている。
 渡辺教育総監襲撃の実質的責任者は安田少尉である。安田が荻窪の地理に詳しかったからだ。渡辺邸の住所は上荻窪二丁目十二番地。そして安田少尉が寄宿していた義兄宅は上荻窪二丁目九十七番地であった。安田少尉にとって渡辺教育総監は〝ご町内の皆さん"だったのである。事前に渡辺邸の様子や総監の寝ている部屋などを、さり気なく聞き込みをしていた安田らしい男も目撃されている。
 さて、四谷を出発した襲撃隊が渡辺邸に着いたのは午前七時前だった。襲撃班は二名の将校以下五、六名で、安田・高橋両少尉が先頭にたって表門を襲った。門はすぐに開いたが、玄関が開かない。軽機関銃を発射させた。発射したのは中島与兵衛上等兵である。その中島上等兵は書いている。
「数分たった頃、『裏口があいている』という連絡がきたので全員裏口に廻わり安田少尉が先頭を切って屋内に入った。我々の襲撃を察知した総監はここから脱出しようとしたのではなかろうか。
 安田少尉はツカツカと進んで部屋の戸をガラッとあけると、そこに夫人が襖を背に、手を拡げて立っていた。安田少尉が総監の部屋を尋ねるといきなり、『あなた方は何のためにきたのですか、用事があるなら何故玄関から入らないのですか』と大声をあげた。
 夫人は勿論総監の居場所など答える筈はない。しかしその様子で大体察しがついた。その奥の部屋に居るらしい。いや、いる筈である。そこで高橋少尉が夫人を払いのけて襖を開放した。すると布団の付近から突然拳銃を発射してきた。正しく総監であった。その部屋は八畳ぐらいの寝室で、総監は布団をかぶりその隙間から拳銃を発射しているらしい。
 ここでまた応戦の形で銃撃戦が行なわれたが、相手が一人のため瞬く間に決着がつき高橋少尉が布団の上から軍刀で止どめを刺して引きあげた。この襲撃も時間にすればせいぜい二十分位だったと思う」(『郷土兵』〔『二・二六事件と郷土兵』を指す〕)
 渡辺総監は「後頭部ソノ他全身ニ銃創、切創等十数個ノ創傷」(判決文)を受けて即死した。
 ところで、襲撃隊が踏み込んだとき、総監私邸には二人の護衛憲兵が泊まり込んでいた。伍長と上等兵である。大谷敬二郎著『昭和憲兵史』によれば、この憲兵伍長に牛込憲兵分隊から「今朝、首相官邸、陸軍省に第一師団の部隊が襲撃してきた、鈴木侍従長官邸や斎藤内大臣邸もおそわれたらしい。軍隊の蹶起〈ケッキ〉だ。大将邸も襲われるかもしれない。直ぐ応援を送る、しっかりやれ」という緊急電話が入っていた。
「伍長は、とうとう来るものが来たと思った。寝衣のままではどうにもしようもない。急いで自室に戻った彼は、同僚の上等兵をたたきおこし、自ら軍服を着込んで武装もした。その時だった。表門のところでトラックのきしる音がしたと同時に、下車、ガヤガヤと兵のざわめきがおこった。咄嵯に彼は階下に降りた、とたんに車から降りた兵隊達は、表玄関に殺到してきた。ダダダン軽機の乱射、すぐ憲兵はこれに応戦した」(前掲書〔『昭和憲兵史』を指す〕)
 この憲兵の応戦で安田少尉は右大腿部に貫通銃創を負い、分隊長の木部正義伍長も同じく右大腿に盲管銃創を負ったが、ともに命に別条はなかった。

 これを読んで、これまで知らなかった事実を、いくつか知った。やはり、こうしたことは、みずから図書館に赴いて調べなければならない。ブログ読者から、ご教示があるかもしれないなどと期待していた自分の甘さを猛省した。
 さて、これまで知らなかった事実というのは、第一に、早朝の電話は、「牛込憲兵分隊」からのものであったという事実。第二に、渡辺教育総監が、裏口から侵入してきた襲撃隊に向かって、拳銃で応戦したという事実。第三に、護衛憲兵が、表玄関に殺到した襲撃隊に向かって応戦し、襲撃隊に負傷者も出ているという事実である。
 しかし、正確なところは、大谷敬二郎『昭和憲兵史』(みすず書房、一九六六)、『二・二六事件と郷土兵』(埼玉県、一九八一)によって確認する必要がある。
 なお、右の『図説 2・26事件』の文章を読んで、明らかに不自然な記述があることに気づいたが(後述)、この点についても、『昭和憲兵史』、『二・二六事件と郷土兵』に当たった上で、考えてみようと思った。【この話、続く】

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佐川憲兵伍長は行政処分を受けて除隊

2016-02-12 04:08:42 | コラムと名言

◎佐川憲兵伍長は行政処分を受けて除隊

 二〇一二年八月一〇日発売の雑誌『文藝春秋』同年九月号に、渡辺和子さんの「二・二六事件 憲兵は父を守らなかった」という手記が載った。新聞の広告でこれを知って、同日、同誌同号を購入。手記を一読したあと、翌八月一一日のブログで、「憲兵はなぜ渡辺錠太郎教育総監を守らなかったのか」というコラムを書いた。憲兵はなぜ渡辺錠太郎教育総監を守らなかったのか
 手記を書いた渡辺和子さんは、二・二六事件(一九三六年二月二六日)で射殺された渡辺錠太郎〈ジョウタロウ〉教育総監(陸軍大将)の次女にあたる。事件当時、九歳だった彼女は、至近距離から父・渡辺錠太郎の死を見届けたという。
 さて、一昨日の東京新聞朝刊を見たところ、『文藝春秋』三月号の広告があり、そこに「2・26事件 娘の八十年 渡辺和子」というタイトルを目にした。そこで、四年ぶりに同誌を購入し、当該の記事を見てみると、今回のものは「手記」ではなく、渡辺和子さんと保阪正康さんの「対談記録」であった。ちなみいに、渡辺和子さんの肩書は、二〇一二年当時も、そして今日も、「ノートルダム清心学園理事長」である。
 前回の「手記」を拝読したとき、私はいくつかの疑問が頭を去らなかった。翌日のコラムでは、その疑問を列挙して、研究者の教示を求めた。参考までに、私の抱いた疑問は、下記の通り。

1 事件当日、渡辺錠太郎邸(上荻窪)に常駐していた二名の憲兵の所属・氏名等。本人および上司の思想傾向。
2 二名の憲兵は、当日の挙動をどのように釈明したのか。また、その釈明についての記録は残っているか。
3 軍法会議では、二名の憲兵の挙動についての言及はあったのか。
4 二名の憲兵に対し、何らかの処分がおこなわれたのか。
5 事件後における二名の憲兵の動向。

 このコラムは、私のブログにおいては、アクセスが多いほうに属している。しかし、残念なことに、ご教示やコメントは一件たりとも、いただいていない。
 さて、今回の渡辺和子さんと保阪正康さんとの対談記録だが、これら疑問を解くような記述が載っていることを期待しながら読んだ。
 結論から言えば、疑問の一部は解消したが、すべてが解消したわけではなかった。しかも、この機会に、二・二六事件関係の資料に当たってみたところ、かえって疑問が増えるという結果になってしまった。
 ともかく、対談記録のうち、私の疑問と関わる部分を、まず引用させていただこう。

 父を守らなかった憲兵
保阪 渡辺邸襲撃について、今も歴史の謎になっているのは、警護に当たっていたはずの二人の憲兵は何をしていたかという問題です。事件の当日、安田〔優〕、高橋〔太郎〕両少尉が率いる一隊が斎藤実〈マコト〉内大臣を襲撃した後、荻窪にある渡辺邸に到着するまで一時間ありました。その日の朝、電話で危急を知らせる連絡があったとお手伝いさんも証言されている。それなのに、憲兵二人は「二階で身支度をしていた」と事件後に語っているのです。奇妙なことです。
渡辺 私は、憲兵は父を守っているものとばかり思っていました。私と父が、二軒先にあった姉の家に行くわずかな時間でも付いてきましたから。当日の朝、確かに電話は鳴ったそうです。しかし、私たちのもとには何の知らせもありませんでした。後になって考えてみると、憲兵たちは父が襲撃されるのを知っていたとしか考えられません。
保阪 憲兵の佐川伍長はその後、行政処分を受け除隊しています。憲兵に皇道派が多かったのは事実です。ですから護衛ではなく、むしろ監視の意味合いが強かったのではないかども思いますね。
渡辺 父はある程度、憲兵が常駐していた意味を分かっていたのではないかと思います。食事も別でしたし、普段会話をすることもありませんでした。
保坂 事件後、憲兵からお詫びはなかったのですね。
渡辺 何もありません。

 これを読むと、渡辺さんも保阪さんも、憲兵二人が、渡辺錠太郎教育総監を守らなかったという点において、認識が一致していることがわかる。
 また保阪さんの語るところでは、憲兵二名のうち一名は、「佐川伍長」と言い、「その後、行政処分を受け除隊しています」とのことであった。しかし、佐川伍長のフルネームは示されず、また、「行政処分」の時期や理由もハッキリしない。【この話、続く】

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71年前の2月11日の出来事

2016-02-11 04:56:09 | コラムと名言

◎71年前の2月11日の出来事

 書棚を整理していたところ、中村正吾著『永田町一番地』(ニュース社、一九四六)という本が出てきた。
 著者の中村正吾〈ショウゴ〉(一九〇九~一九七六)は、もともとはジャーナリストだが、戦争末期の小磯国昭内閣に国務大臣として入閣した緒方竹虎〈オガタ・タケトラ〉のもとで、秘書官を務めた経験を持つ。
 この本においては、「朝日新聞記者/前国務相秘書官」を名乗っている(同書扉)。
 著者は、国務相秘書官在任中に「日誌」を書いていた。この『永田町一番地』という本は、「私の日誌そのままを取材した」ものだという。読んでいて、戦後における視点から、編集がなされている印象は避けられなかった。しかし、「日誌」を踏まえていることは疑いないだろう。興味深い事実、意外な事実などが、次々とあらわれる。本日は、一九四五年(昭和二〇)二月一一日の日誌、つまり、七十一年前の今日の日誌を紹介してみよう。

二月十一日
 小磯〔国昭〕総理の盟友、二宮〔治重〕文相は病気のため再起不可能の状態にあつた。従つてこれに関連する内閣再度の改造が予期されてゐた。
【一行アキ】
 小磯総理は文相に児玉〔秀雄〕国務相を充て、書記官長には、はじめ山崎巌氏を考へた。この山崎案は直ちに立ち消えとなつて、石渡〔荘太郎〕蔵相に話を持ちかけた。石渡蔵相はこれを拒絶し、代はりに廣瀬〔久忠〕厚相を推した。そこで小磯総理は廣瀬厚相の書記官長案を決意し、一方厚相は吉田〔茂〕軍需相の兼任とせんとしたが、吉田軍需相から「とても手がまはらぬ」と断はられ、そのため厚相には相川〔勝六〕次官を昇格することに内定塁した。相川次官の昇格は廣瀬厚相が書記官長就任の条件であつたともいはれる。とに角、廣瀬厚相は、折柄の空襲最中、総理官邸防空壕内で小磯総理に口説かれて決定を見た。
 今度の内閣改造は厳秘中に而かも短時間に行はれた。新聞発表もやつと、市内版締切りに危く間に合つた程度である。
【一行アキ】
 国務大臣兼書記官長は最近稀有のことで、いはゆる大物書記官長の実現である。廣瀬新書記官長が大物であるかどうか。消息通の見るところでは、否定的である。相川厚相に対しては殊に内務官僚がかなり不満で一般に失望の色が濃い。
 今度の改造もまた小磯総理の失敗に数へられた。この内閣にとつてプラスになるどころかマイナスだといはれてゐる。改造によつて内閣は決して強化されないといふことを再び見せつけられた。閣内のチグハグな空気が今度の改造で一掃されるどころか益々、深くなつた。内閣が倒れるのは客観的情勢に基くが、それとともに、閣内の不一致による。内閣の不一致が収拾つかなくなつた時、内閣の最後である。

 この文章だけでは読みとれないが、廣瀬国務大臣兼書記官長、相川厚相の親任式がおこなわれたのは、二月一〇日の夜八時半だったという(二月一〇日付「日誌」)。なお、軍需相の吉田茂(一八八五~一九五四)は、のちに首相となる吉田茂(一八七八~一九六七)と、同姓同名の別人である。

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ジョン少年と柱の釘

2016-02-10 07:22:15 | コラムと名言

◎ジョン少年と柱の釘
 
 本日も、木戸麟編『小学修身書 四』(金港堂、一九八一)の紹介。
 この修身教科書は、どういうわけか、素材の多くが、「洋モノ」である。ジョージ・ワシントン少年の逸話の前にも、ジョンという少年の逸話が置かれている。同じような話題で恐縮だが、今日は、このジョン少年の話を紹介してみよう。

○ある農家尓「ジヨン」といへる童
子あり、阿る時、其の父「ジヨン」を呼
びて、汝常尓、吾教へを、まもらざ
る尓よ里、阿しき婦るまひ、甚だ於
ほし、今より、悪き事、有るごと尓、此
の柱尓、釘一本ゝを、打ちこみ、善   【一ウラ】

きこと、有るごと尓、之をぬきとる
べしと、さだめた里し、阿るハ・一
日尓、数十本も、打ちこむこと、有里
て、之を、ぬきとるは、甚だ・まれ奈り
き、かくて、「ジヨン」盤、其の柱乃、まつ
たく、・釘尓て、おほ者れたるを見て、
大尓奈げき、善童子と奈りて、其の     【二オモテ】

恥をきよめ
んと、憤激し
善き事を、つ
とめ於こ奈
ひた連バ、日
ならして、
柱上尓、たゞ、      【二ウラ】

一本の釘を、あま春尓いた連り、其
の時、父ハ、「ジヨン」を呼びて我れ・い
ままさ尓、此のくぎをもぬき春て
んと春、さらバ、柱上尓ハ、一本の釘
だ尓も奈しと、いひ希る尓「ジヨン」
盤、涙をおとして、更尓、よろこぶい
ろ、奈可り希れば、父盤之を、いぶか       【三オモテ】

り希る尓「ジヨン」は柱を、阿ふぎみ
て、釘盤、ぬきつくしたるも、其の瘢
痕のきえざる事の、奈かはしき
なりと、いひ希るとぞ、人いやしくも、
「ジヨン」の如く、心をもちひ奈バ、善人
たらん事、うたひなし             【三ウラ】

 この文章で使われている「変体仮名」は、一昨日と昨日に挙げたもの以外のものはない。
 次に「変体仮名」を、一般的な仮名に直して、書き直したものを示す。

○ある農家に「ジヨン」といへる童子あり、ある時、其の父「ジヨン」を呼びて、汝常に、吾が教へを、まもらざるにより、あしきふるまひ、甚だおほし、今より、悪き〈アシキ〉事、有るごとに、此の柱に、釘一本づつを、打ちこみ、善きこと、有るごとに、之をぬきとるべしと、さだめたりしが、あるは・一日に、数十本も、打ちこむこと、有りて、之を、ぬきとるは、甚だ・まれなりき、かくて、「ジヨン」は、其の柱の、まつたく、・釘にて、おほはれたるを見て、大になげき、善童子となりて、其の恥をきよめんと、憤激し善き事を、つとめおこなひたれば、日ならずして、柱上に、たゞ、一本の釘を、あますにいたれり、其の時、父ハ、「ジヨン」を呼びて我れ・いままさに、此のくぎをもぬきすてんとす、さらば、柱上には、一本の釘だにもなしと、いひけるに「ジヨン」は、涙をおとして、更に、よろこぶいろ、なかりければ、父は之を、いぶかりけるに「ジヨン」は柱を、あふぎ〔仰ぎ〕みて、釘は、ぬきつくしたるも、其の瘢痕のきえざる事の、なげかはしきなりと、いひけるとぞ、人いやしくも、「ジヨン」の如く、心をもちひなば、善人たらん事、うたがひなし

※この話については、2021年4月5日のコラム〝『修身教訓』(1877)に載っていた「柱の釘」の話〟を、併せて参照いただければ幸いである。2023・9・15追記。

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