礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「原子爆弾」の情報は、どこで消えたのか

2016-08-10 03:09:35 | コラムと名言

◎「原子爆弾」の情報は、どこで消えたのか

 この間、中村正吾秘書官、および黒木勇治伍長の「日誌」によって、七一年前(一九四五年)の「今ごろ」の出来事を紹介している。出典は、それぞれ、中村正吾著『永田町一番地』(ニュース社、一九四六)、および黒木雄司著『原爆投下は予告されていた』(光人社、一九九二)である。
 本日は、『原爆投下は予告されていた』から、八月一〇日と八月一一日の日誌を紹介する(二六五~二六八ページ)。

 八月十日 (金) 晴
【前略】
 気がついたら、田中が新しい冷たい水を汲んできて水で手拭を冷やして額【ひたい】の上においてくれていた。
「有難う。有難う」と田中に礼をいう。
「班長殿、昨日から食事を全然されてないようですが、少しはいかがですか」
「熱はどのくらいか見てくれ」
「だいぶ下がってます。三十八度二分くらいです」
「いま何時や?」
「先ほど下番したので、午後八時十分くらいです」
「よし。食事を食べて元気を出そう。もう十二時間休んで今度は出勤だ」と起き上がった。【中略】
 食事をしてもまだ熱があったが、「そのほかに変わったことはなかったか」と下番した田中に聞く。田中の報告によると、
「隊長殿が上山中尉殿に話されていた受け売りでありますが、関東軍並びに北支軍、中支軍、南支軍の各派遣軍司令部に対し、六月、七月と戦線を縮小の指示により南支軍は第一次七月一日に縮小し、さらに第二次七月二十二日付で大幅撤退を実施した。北支軍や中支軍も、各地で同様に撤退を実施し、かなり大幅に戦線を縮小していた。
 関東軍については七月五日付で連京線(大連・新京を結ぶ線)以東、京図線(新京・図們を結ぶ線)以南に全軍を撤退するように各部隊に指示が流されていた。つまり朝鮮よりに満州の十分の一に関東軍の守備範囲が狭められ、全軍撤退体制がしかれて、この線で防御するように指示されていた。しかるに関東軍から地元の満州国軍に、残余の地域での警備を充分連絡を取るべきだったのが、遅れていたらしい。
 しかも関東軍の場合、満州国政府・満鉄などへの連絡との関連、日本人による満蒙開拓団などへの連絡の関係で、各部隊とも遅々と進んでいなかった。今回のソ連参戦により関東軍各部隊首脳は、連京線、京図線まで撤退して邀撃〈ヨウゲキ〉するとの考え方が、逆に日本軍の敗走を強くさせたものだとの北支軍からの情報を南支軍司令部を通じ聞いたとの情報を、隊長殿は聞いて帰られた由であります」と。
 それでは北満や中満各地の日本人の満蒙開拓団は、ソ連の熊の餌食になっていなければよいがと心配される。本当に連京線、京図線ということであれば、自分たちのいた牡丹江省寧安県蘭崗なんか完全な圏外だ。
 田中は、自分が目を閉じてじっと考えこんでいたので言葉をおいていたが、
「班長殿、まだ話してよいですか?」と聞く。
「ああかまわないよ」というと
「本日のNHKの放送では、八日の午後の現地時間にソ連政府はモスクワの佐藤大使に対日宣戦布告文を手交されたのを、日本政府は九日、初めてモスクワからの打電により知ったという」
 あまりにもソ連のキタナイキタナイやり方、丸一日宣戦布告の通知を遅らせている。

 八月十一日 (土) 晴
 午前七時、ようやくマラリアの高熱が峠を越す。体温計は七度二分だが、もう下がる一方だ。田中にいって、無理やり午前八時より上番する。今回は、九日の日に一勤をやっており、実質休んだのは昨日の一日だけだった。
 午前九時、NHKの放送によれば、有末精三中将を長とした仁科〔芳雄〕博士の調査団は昨十日、広島に投下された爆弾を「原子爆弾」と認め、政府に報告したと放送する。
 広島に落ちて何日目や。すでに二度目の長崎も受け、広島に落ちる三日も前から、いや六月一日から知らされていたことではないか。とにかく憤懣【ふんまん】やる方なし。情報はすべて報告されたのに、どこで消えたのか。
 午前十一時、ニューディリー放送が突如、臨時ニュースを流しだした。
 ――こちらはニューディリー、ニューディリーでございます。信ずべき情報によれば、日本国政府は昨八月十日、中立国スイス・スウェーデンを通じ、ポツダム宣言を受諾することを連合国側に申し入れました。繰り返し申しあげます。…………。――
 やっぱり来【きた】るべきときが来た。
 自分の心の中には、まだおれ個人は戦えるんだ。南支軍も健全だ。おれは敵と差し違えて死んでも構わないのに。残念だ。残念だという心と、よかった、よかった、隊長のいう本土上陸なしで終わった。南支軍とて持てる弾薬、糧秣にも限界があり時機的によかった。これで一段落だ。もう少し広島や長崎に原爆の落ちる前なら、沖縄決戦の前ならと、欲をいえば切りがない。残念だという心とよかったという心が動いて複雑この上なし。
 正午のNHKニュースは、そんな話は全然なく、「国体を護持、最後の一線を守るため国民も共に努力を」との下村宏情報局総裁の談話を、アナウンサーが読みあげ、ついで「全軍将兵に決戦覚悟を促す」阿南惟幾〈アナミ・コレチカ〉陸相の訓示が、同じくアナウンサーによって読みあげられていく。ああまだ戦いはっづいているのだ。
 今日、昼勤をやったことはよかった。十日のポツダム宣言受諾は、来週の十三日(月)、十四日(火)にどう反応が世界中から帰って来るかだ。そうすると、十五日(水)から十六日(木)に大山となるだろう。来週も自分が二勤の昼勤務をやろう。
 午後四時下番し、田中候補生に引きつぐ。勤務については来週に限り、本日のままを続行することを申し送らせる。

*このブログの人気記事 2016・8・10(8・10位に珍しいものがはいっています)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「戦争終結について直ちに手段をとれ」

2016-08-09 05:52:18 | コラムと名言

◎「戦争終結について直ちに手段をとれ」

 この間、中村正吾秘書官、および黒木勇治伍長の「日誌」によって、七一年前(一九四五年)の「今ごろ」の出来事を紹介している。出典は、それぞれ、中村正吾著『永田町一番地』(ニュース社、一九四六)、および黒木雄司著『原爆投下は予告されていた』(光人社、一九九二)である。
 本日は、『永田町一番地』から、八月九日と八月一〇日の日誌を紹介する(二二九~二三三ページ)。

 八月九日
 宣戦布告とともにソ連軍は本未明より、満ソ国境から一斉に進撃を開始し、また満鮮の諸都市に対し爆撃を加へた。
【一行アキ】
 午前八時、東郷〔茂徳〕外相は急遽、鈴木〔貫太郎〕首相をその私邸に訪問した。外相は、鈴木首相に対し事態かくなる上は、ポツダム宣言の即時受諾以外に、大御心に副ひ奉り、日本および日本国民を完全なる破壊から救ふ道はない、との意見を述べた。鈴木首相も同様の意見である。それで、鈴木首相は同十時、直ちに参内、右の旨を奏上した。
【一行アキ】
 事態は一刻の猶予も許さないものがある。戦局は加速度的に進展し始めてゐる。鈴木首相の宮中からの退出を待つて、同十時半から首相官邸に、最高戦争指導会議構成員会議が開かれた。構成員、鈴木首相、東郷外相、阿南〔惟幾〕陸相、米内〔光政〕海相、梅津〔美治郎〕参謀総長、豊田〔副武〕軍令部総長が会合し、三時間に及んで、△△〔二字不明〕に対し深刻な検討を加へた。鈴木首相、東郷外相、米内海相らは、ポツダム宣言即時受諾、戦争終結の意見であるに対し、阿南陸相、梅津参謀総長、豊田軍令部総長らは、今、一戦を交へ、而る後戦争を終結すべしと主張して譲らない。一戦を交へて、その後にどうなるかといふ見通しはない。東郷外相らは一戦もよからう、然し、その後の成算なくては、無意味であるとの意見を固持した。ポツダム宣言の即時受諾の決定に至らず、討議三時間、この六頭会合は散会し、問題はひきつづく臨時閣議に持ち越された。この会合の途中、米国が長崎に対し、第二回目の原子爆弾攻撃を加へたとの報告が入つた。
 緊急閣議は二時半から開催された。この閣議でも依然として、さきの六頭会合の意見がそのまま蒸し返へされた。しかし大体、それでは、ポツダム宜言を如何なる形で受諾すべきか、といふ問題が討議の焦点となった。東郷外相らは、ポツダム宣言受諾には唯一の絶対的条件がある。それは国体護持といふことで、この条件にて、ポツダム宣言は即時受諾すべきであると手張した。これに対し阿南陸相らは
一、日本軍の武装解除は日本自身の手でこれを行ふこと
一、戦争犯罪人の処罰は日本側においてこれを行ふこと
一、占領軍上陸の場合、東京はそれより除外すること.
の三条件を付してポツダム宜言を受諾すべきであるとの意見を強硬に主張した。
 閣議は紛糾のまま同五時半一旦休憩となり、同六時半から再開、十時半まで続行された。如何なる形ポツダム宜言を受諾すべきかについて閣僚の発言が求められ、東郷外相らの意見に賛するもの七名、阿南陸相らの意見に賛するもの三名、他の閣僚は賛否を留保し、閣議は割れたまま散会した。
【一行アキ】
 そこで、鈴木首相は、閣議不統一のままを奏上し、聖断を仰ぐべく、最高戦争指導会議召集の手続きをとつた。
【一行アキ】
 この御前会議は午後十一時五十五分、開会され、翌午前三時に及んだ。
 会議には、構成員たる首相、外相、陸相、海相、参謀総長、軍令部総長の外に、平沼〔騏一郎〕枢府議長が列席した。まづ東郷外相より発言があり、外相はポツダム宣言を、天皇の国法上の地位を変更するの要求を含まざるものとの諒解の下に、即時諾する方がよいとの意見を述べた。米内海相は、外相の意見と同様の意見である。これに対し、阿南陸相、梅津参謀総長、豊田軍令部総長は何れも反対の意見を述べ、平沼枢府議長また所見を開陳した。平沼枢府議長は「天皇の国法上の地位を変更するの要求を含まざるものとの諒解の下に」とは天皇の地位を保つに適当でない、「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を含みをらざるものとの諒解の下に」とすべきであると主張した。かくて論議は依然としてまとまらない。そこで、陛下が御発言になり、自分は、外相の意見に賛成である、何となれば、九十九里浜の要塞構築といふが、何も出来てゐないではないか、新編成の軍隊には装備がないではないか、この情況では戦争続行は不可能である、戦争終結について直ちに手段をとれ、との旨相当厳しい意見を述べられ、論議をさまらぬ会議に聖断を下し給ふた。

 八月十日
 この御前会議を終るや、鈴木首相は、折柄、首相官邸に待機中の閣僚を会して、午前三時十分、臨時閣議を開催、聖慮のままを閣議決定とした。
【一行アキ】
 ついで午前七時、東郷外相は、中立国たるスイス国およびスエーデン国、駐剳〈チュウサツ〉のわが公使に打電し、日本は、ポツダム宣言が天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含しをらざる了解の下に、これを受諾する旨の通達方を依頼した。
【一行アキ】
 ○○○○○〔五字分空白〕二時から同四時半まで臨時閣議が開かれ、日本のポツダム宣言受諾回答に関する善後措置が協議された。その席上、これが発表の問題も討議された。この結果、閣議終了とともに次の如き情報局総裁談が公表された。
【一行アキ】
 敵米英は最近頓に〈トミニ〉空襲を激化し一方本土上陸の作戦準備を進めつつあり………
加ふるに昨九日には中立関係にありしソ連が敵側の戦列に加はり………今や真に最悪の状態に立ち至つたことを認ねざるを得ない。
 正しく国体を維持し民族の名誉を保持せんとする最後の一線を守るため政府は固より〈モトヨリ〉最善の努力を為しつつあるが一億国民にありても国体の護持のためにはあらゆる困難を克服して行くことを期待する。
【一行アキ】
 この情報局総裁談発表に並行して、飽く迄徹底抗戦を主張する「全軍将兵に告ぐ」との阿南陸相談を陸軍報道部は陸軍省記者会を通じ紙上掲載方を命じた。下村情報局総裁は、驚愕して直ちに電話で阿南陸相に質したところ「すべて自分の責任である」との答へであつた。

*このブログの人気記事 2016・8・9(6・9位にきわめて珍しいものが入っています)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本日午前零時、ソ満国境よりソ連軍が南下

2016-08-08 03:47:37 | コラムと名言

◎本日午前零時、ソ満国境よりソ連軍が南下

 昨日の続きである。黒木雄司著『原爆投下は予告されていた』(光人社、一九九二)から、八月八日および八月九日の日誌を紹介する(二五七~二六一ページ)。なお、ソ連軍の侵攻の記事は、八月九日のところにあるべきだが、原文のままにしてある。

 八月八日 (水) 晴
 午前零時、上番する。下番者田原候補生の報告では、
「昨夜午後十時、ニューディリー放送によれば、昨日(八月七日)、米空軍B29百二十機は豊川を空襲し爆撃したと、放送がありました」と。
 今日も隊長、上山中尉ともまだおられる。この前、隊長は第五航空軍には一機も飛行機はなくなったといわれたが、内地の第一航空軍には邀撃機〈ヨウゲキキ〉はあるのだろうか、ないのだろうか心配になる。豊川といえぼ海軍工廠だが、B29百二十機も来られたんでは、豊川の街全部、蟻の逃げ道もないだろう。ここでも一般弱者への被害が気になる。
 隊長は昨日も午前十一時ごろ、連隊長のもとに行かれたそうである。今日も原爆中止の請願に行くといっておられる。もっとも今日は情報収集の情報室として、一応この戦いの幕引きをすべきだと意見具申をしたいと言われた。
 すなわち、①制空権われになし。②制海権もなし。とくに内地近海の機雷接触による船舶喪失六百万トンにおよぶ。③石油貯蔵量一月末、四十九万バレル(昭和十六年の千四百六十五万バレルのわずか三パーセント)で、七月末現在ほとんどなし。④原子爆弾の被害は相当と思われる。広島についで長崎だ。これ以上は絶対に落とさしてはならぬ。⑤以上を考察すると、国体護持を条件に、一応この戦いの幕引きをしなければならぬ、ということを上申したいと言われた。
「そして、一段落ついてから世の中平和になったら、日本中にヒトラー型式ではないが、高速道路を作り、いったん緩急あれぽ、真ん中の仕切りを取れば飛行場ができる。それと自動車産業を盛んにし、いつでもこれが飛行機産業に切り替えられるように。それと造船産業も盛んにして欲しい。平和的な面で飛行機産業が進められれば、ぜひ世界に遅れないように」と隊長は上山中尉や自分に言われている。
 議論が空想論になり、午前二時にもなるので、「どうぞお休みになって下さい」と隊長と上山中尉のお引き取りを願う。上山中尉は先ほどの打ち合わせ記録を清書しておられたが、やっと終わり、隊長についで上山中尉も退出された。
 それからほんのしばらくして突然、ベルがなり出した。大船山〔南支軍団司令部情報室〕からの電話だ。
「こちら南支軍団司令部情報室山下中尉です。ソ連の情報、入ってますか」と。
「いえ入っていません。自分は五航情報室黒木であります。差し支え次ければ、教えていただけませんか」と聞く。
「ただ今、北支軍司令部情報室よりの電話によると、これは関東軍からの電話ですが、本日午前零時を期して、ソ満国境より大量のソ連軍が騎馬部隊、戦車部隊、装甲部隊を前面にしてぞくぞくと南下致し、関東軍と各地において交戦状態に入っており、突然の攻撃と火焔〈カエン〉放射器を使っての進攻で、防戦大わらわの状態だそうです」
「有難うございました。さっそく隊長殿に報告致します。それで宣戦布告はあったのですか。国交断絶の通知はどうでしょう?」と聞くと、
「ただ今のところ、そういうことは一切ありません」と答えられた。
 富士山から新高山との順番にかけていたら、白根山に隊長がおられて、南支軍団司令部情報室山下中尉よりのソ連参戦を報告する〔富士山、新高山等は、内部の将校関係施設〕。まだ起きておられた。
 この間まで日本の幕引きは、ソ連に頼むしかないと頼りにしていた。そのソ連が、しかも日ソ不可侵条約を結んだ間柄ではないか。もっともドイツが負けたころか、一方的にソ連が廃棄したということを聞いたかとも思うのだが、それにしても今、日本が土俵の俵まで米英に押されていて土俵の俵で弓なりになり、もう死に体だという日本に、なんで米英に加わって押して来るんだ。
 火事場の泥棒で、満州から大連の港が欲しいのか。まさか朝鮮には手を出さないだろうな。樺太南部も進攻して来るだろう。千島列島は日本固有の土地と漁業権のあるところ、絶対に渡してはならぬ。ソ連という国のキタナイキタナイやり方はどうだ。
 それにしても昨日の朝、明日の八月九日に長崎に原子爆弾を投下するという情報で、左顔面にビンタを食らったようだと書いたが、今度は右顔面を張られたかと思う間もなく、左右入りまじって殴られるようだ。
 人の足元を見るソ連の相手が弱いと思ったら、殴りかかるやり方に腹が立って腹が立ってやり切れぬ。自分は共産党がどんなものか知らぬが、人の弱みにつけ込んで弱い者いじめするのが共産党か、こんな共産党が主導するソ連は、だれが何といおうと大嫌いだ。子や孫の代まで、いや後々の代まで、今日のこの日に参戦したソ連という国のことを、絶対に忘れないでくれよ。午前八時、下番する。【中略】
 午後四時、田中が下番してきたので目がさめる。田中の報告では、
「十二時のNHKニュースでは、『新型爆弾の防御法を内務省は次のごとく国民に指示しております。かならず壕内に退避して下さい。火傷のおそれがありますので、壕外に出るときは露出部を少なく、暑くても全身をおおうようにしてください』というものであった。原爆投下二日後の放送であって、二日前にこの放送があったら、被害は少なかったろうにと思いました。
 その上、明日の長崎の原爆投下に果たして長崎の人は、このNHKの内務省の通達を、自分のこととして聞いているのだろうか疑問に思いました。午後一時のニューディリー放送は、長崎は三十年間、草木も生えぬ被害を受けるであろうと、広島投下前日と同様に放送していました。以上であります」
 自分も田中の意見と同じく、長崎の人は今から自分たちに広島と同じ惨事が起こるとは思わず、広島は大変だったろうとしか考えてないだろう。夕食と洗濯を田中と一緒にする。
 午後七時半からまた眠る。午後十一時に起床して浴場に行ったら、まったく水であった。水浴した関係からか何かしら肌寒さを感じた。

 八月九日 (木) 晴
 午前零時、勤務に上番する。今日は長崎原爆投下予定の日である。広島が午前八時十五分に投下されたが、同様な計算をもとに考えて見れば、ほとんど同じ時間帯の午前八時から正午までの三時間の間であろう。
 ちょっと寒気がすると思っていたが、時間と共にだんだん寒くなって、震えが止まらない。情報室内の扇風機をどれも止める。おそらくマラリアだ。先月うまく魔除けができたのに、今月はすっかり忘れていた。先月は注意に注意を重ね、睡眠は充分に取り、キニーネも倍くらい飲んでこないようにし、衣袴は余分のものまで持ち込んで万全を期していた。
 それに対し数日前から広島原爆・ソ連参戦と、さらに今日の長崎原爆投下と、眠るべき時間帯に眠られなかったことと、今日の予定日を忘れていたことが原因だろう。【中略】
 午前八時、下番する。田中に病状を話そうと思っていたが、とても話をする元気もなく内務班に帰る。内務班に帰るのがやっとで、田原に体温計を借りてきてもらう。熱がある。四十二度もある。すぐキニーネ五錠を呑む。毛布にくるまって休む。三人分三枚の毛布を使うがなお寒い。今日と明日一日休めば、よくなるだろう。いやそれ以上は休めない。今日と明日でよくなって見せる。【下略】

*このブログの人気記事 2016・8・8(5・10位に珍しいものが入っています)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

来る八月九日、長崎に原爆投下を予定

2016-08-07 01:37:14 | コラムと名言

◎来る八月九日、長崎に原爆投下を予定

 この間、中村正吾秘書官、および黒木勇治伍長の「日誌」によって、七一年前(一九四五年)の「今ごろ」の出来事を紹介している。出典は、それぞれ、中村正吾著『永田町一番地』(ニュース社、一九四六)、および黒木雄司著『原爆投下は予告されていた』(光人社、一九九二)である。
 本日は、『原爆投下は予告されていた』から、八月七日の日誌を紹介する(二五四~二五七ページ)。

 八月七日 (火) 晴
 午前零時、上番する。隊長、上山中尉とおられるので、上下番の挨拶はピシッとやる。下番者田原候補生の報告は、
「昨夜午後十時のニューディリー放送によると、昨日(八月六日)、米軍P51約百二十機は、関東中北部の埼玉、群馬、茨城各県の諸都市を空襲し、銃爆撃した旨放送がありました」と。
 昨日の午前五時、六時から隊長、上山中尉は、ずっと引きつづいての詰めである。隊長、上山中尉とも午前一時をすぎても席を立とうとされない。八月三日、四日、五日と、広島原爆投下を毎日毎日予告されながら手の打ちようがなかった後悔が一杯のようで、「お休みになられては?」と声をかけたら、はじめて二人そろって出ていかれた。
 出るとき隊長はラッキーストライクを一箱自分の机の上に置いて、「それでは後を頼む」といって出られた。一人になると、やっぱり広島のことがつぎからつぎへと頭の中に去来してくる。
 すでに十六時間もたっているのに、大本営から何も発表がないとはどういうことだろうか。それとも明日、詳細発表が行なわれるということなのだろうか。もう一つ問題なのは、隊長から連隊長経由の原爆関係の諸報告は、果たして大本営まで確実に行っていたのだろうか。あるいは、どこかでだれかが握り潰したのだろうか。
 爆撃と共に家は焼かれ、舗道も焼かれ、着衣も焼かれ、やむなく太田川の流れに飛び込んだ人も多いことだろう。あるいは、いまだに自分の家に帰れず探し歩いている人もあるのではないだろうか。
 上山中尉から原子爆弾の特性を聞いているだけにいろいろと想像する。送像はいつか見た関東大震災の絵図となり、地獄極楽の地獄の絵図に変わってきている。
 家のことが気になるがどうしよう。どうしたらよい。ふと思いついた。潮音寺の御本尊十一面観世音菩薩にお願いすることだ。きっと祖母をはじめ、叔母従妹たちも助けて下さる。【中略】
 観音経を二度三度、諷誦【ふうじゆ】していたら、心も落ち着いて来た。八月三日以来、なぜ早く気がつかなかったのか。しかし、決して遅くはない。観音様は時間、空間を超越して下さる。
 八月七日午前三時、ここ南支広東の白雲山麓の壕内はシィーンと静まり、何も聞こえない。広島ではまだ燃えに燃えているところもあるだろう。今夜も眠るに困る人も数多いのではないだろうか。まだまだ親や子を探し歩いている人たちも見えるのではないだろうか。
 静かな中、突然、隣りの部屋が賑やかになった。午前五時である。各放送の傍受班が所定の位置についた。いつもは午前七時ごろが早い時間帯であるのに、今日はそれよりも二時間も早いと驚きながら腕時計を見ていた。
 午前六時、突如としてニューディリー放送が流れてくる。
 ――こちらはニューディリー、ニューディリーでございます。信ずべき情報によれば、米軍は来る八月九日に、広島につづいて長崎に原子爆弾を投下する予定であることを発表しております。繰り返し申しあげます。…………。――
 またしても左頭をガツンと殴られた気がする。そういえば、九州南部にはたびかさなる爆撃、また北九州地区は八幡を中心に工業地帯を、さらに関門の港湾地帯をたびたび爆撃しているのに、長崎の大造船所のあるところだけは、今度のために残しておいたようだ。
 午前八時下番し、田中候補生と勤務を交替する。勤務は下番したものの、昨日、広島に原爆を落とし、今度は長崎にも落とす暴挙を考えると、自分は胸の中が煮え繰り返る。内務班に帰って睡眠を取ろうとしたが、興奮して眠れない。
 田原は自分が横になっているものの、ごろごろ向きを変えたりして寝つかれずにいるのを見かねて洗濯物を持って外に出る。
 広島での老若男女を問わずの大量虐殺をして今度はまたも、同じように大量虐殺を長崎でするという。ラジオ放送は一方的だ。なぜ? どうして? と疑問を持っても、答えてくれない。とうとう午前中は興奮してねつかれない。
 田原と雑談を交わしながら軽く昼食を食べる。昼食後は意外とよく眠れる。午後六時半起床、洗濯、入浴、夕食と時間帯よろしく消化する。夕食のときに四時に下番した田中に聞くと、
「今日、NHKの臨時ニュースで大本営発表が放送されました。それは前日の広島の被害から新型爆弾を使用せるもののごときも、詳細目下調査中というものでありました。これに対し上山中尉殿は、二十四時間以上も経っての発表で、なぜ原子爆弾と発表できぬのか。日本陸軍では昭和十七年ごろから原子核の研究が盛んとなり、かなり開発も進んでいるはずだ。その専門家に調査させれば、すぐわかるはずだ、といわれておりました」という。
 新型爆弾といえば新型爆弾だ。しかし、全身火傷しながら今日生きていた者が明日は死に、今週頭の髪が抜けていた程度の者が来週は死に、今月軽い火傷だといっていた者が来月は死に、単なる爆風だけで助かったと今年いっていた者が来年は死ぬる。上山中尉の解説により知り得た知識だが、この毒瓦斯以上の殺人武器を、単なる新型爆弾とだけに止めて欲しくない。

*このブログの人気記事 2016・8・7(9・10位にきわめて珍しいものが)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「班長殿、8時15分に投下されたそうです」

2016-08-06 05:03:47 | コラムと名言

◎「班長殿、8時15分に投下されたそうです」

 この間、中村正吾秘書官、および黒木勇治伍長の「日誌」によって、七一年前(一九四五年)の「今ごろ」の出来事を紹介している。出典は、それぞれ、中村正吾著『永田町一番地』(ニュース社、一九四六)、および黒木雄司著『原爆投下は予告されていた』(光人社、一九九二)である。
 本日は、『原爆投下は予告されていた』から、八月六日の日誌を紹介し(二五二~二五四ページ)、続いて、『永田町一番地』から、八月六日~八月八日の日誌を紹介する(二二四~二二五ページ)。

『原爆投下は予告されていた』
 八月六日 (月) 晴
 午前零時を過ぎると、いよいよ八月六日に入って来た。途端に隣りの電気機械室にも十名あまり詰めたようで、物音が聞こえる。やっぱり隣室も特別体制をとったようだ。自分は昨日の午後四時から勤務の運続だが、今からの八時間が自分の本番だ。情報室内はもちろん自分一人の勤務だ。上山中尉と話してから数時間、何事もなく静かなものである。
 午前四時ともなると、ここ三日間、朝、昼、晩と一日に三回も、延べ九回も広島に原爆が投下されると、ニューディリー放送は放送しつづけて来たが、本当に今日投下かあるのだろうかと逆に思わせる。「ああ、あれは嘘でした。ジョークでした」と放送されないかを願う。夜は静かで、時計ぽかりがカチカチと時を刻んでゆく。
 午前五時、上山中尉が部屋に入って来られる。
「あっ貴様、三勤から連勤してるんか」と聞かれ、
「はい。こちらが本番です」と答える。「連勤、ご苦労さん」と声をかけられる。
 午前六時、隊長も部屋に入って来られた。午前七時、当番兵がつぎつぎと食事を持って来る。午前八時、後のことが気になったが、田中候補生と勤務を交替して下番する。下番すると、さすがに十六時間連続勤務で疲れたのか、眠くて眠くてならぬので衣袴をぬぎすて、褌一枚で大の字になってすぐ寝てしまった。
 すると、「班長殿! 班長殿!」と、自分を起こす者がいる。先ほど勤務交替した田中ではないか。
「班長殿、いま広島に原子爆弾が投下されたと、ニューディリー放送が放送しております。八時十五分に投下されたそうです」
「あ、そうか。やっぱり。うーん。貴様、席をはずしてだれかに言って来たか」と聞くと、
「隊長殿も上山中尉殿もおられます。上山中尉殿が、黒木にだけは知らせてやれといわれ、お知らせに参りました」
「有難う。礼をいっておいてくれ」といって、時計を見ると、八時三十二分。広島に落とされて十七分間で、寝ている自分が起こされ知る。おそらく敵機から交信で敵の司令部に。敵の司令部から放送局に、どうしてこんなに早く知らされるのだろう。あるいは放送局側から敵司令部に係員が入り込んで待機していたのだろうか。どうしてまた、すぐ放送ができるのだろうか。まったく感心させられる。
 成功のときには、時間だけを打電すれぱすぐ放送ができるように打ち合わせずみだったのだろうか。とにかく、三日も前から打ち合わせしておけばできるのだろうか。ふとニューディリー放送は、本当にインドのニューディリーから放送してるのだろうか。案外、米軍の軍司令部内部に放送設備があって放送しているのではないか、と疑いを持った。
 お祖母さんに、叔母、従妹【いとこ】たち、みんなみんな防空壕の中でじっとしていてくれ。
 祈る気持で一杯だが、それ以上どうしようもない。目をつむると、広島の風景がつぎつぎと目に浮かぶ。広島駅頭、本通筋、広島城、相生橋〈アイオイバシ〉、産業奨励館前、よく見ると、その前に四、五人ずつ並んでいる。ああ二中の卒業写真のアルバムだ。スナップ写真の彩式で、校内の各所を写した残りの物が校外にも回った。あああれがあると、広島が原爆でも昔の写真が残されていると思った。また自分の中の別の心は、家がやられて残っているかいという。
 そのうち眠ったのか。眠っていて眠れない。大の字になって寝ている。広島はやられたんだ。気がつくと十二時前だ。広島がやられたと聞いて、三時間半もよく眠ったものだ。茣蓙〈ゴザ〉の上に体の汗で大という字にぬれている。
 田原は、「班長殿、自分も応援に行きましょうか」と聞く。
「とくに必要ならぱ指示がある。指示があってから行け、指示があるまではどんな勤務でもできるよう充分休養して、自分の本番の時間に能力を発揮するようにしろ」と話す。田原と一緒に昼食を軽く食べて、また横になる。
 午後四時、田中が下番して内務班に帰って来た。報告によれば、
「NHKも、大本営も、広島の原爆についてはまったく何にも放送しません。ニューディリー放送はもちろんですが、重慶放送も広島に原爆が投下されたことについて、どちらも二度も三度も放送がありました」と。
 ふと祖母や叔母や従妹たち、あの大手町九丁目の家で、家の焼けると共に折り重って倒れたのではと不吉な気もする。なんとかみんな手に手を取って生き延びて欲しい。

『永田町一番地』
 八月六日
 ひる間、B29一機が広島に侵入した。警戒は警戒警報のまま、思ひがけない投弾。オレンヂ色の閃火とともに轟然〈ゴウゼン〉、その一弾はたちまちにして広島の殆ど全部を破壊した。恐るべき爆発力、米国の原子爆弾攻撃である。戦〈タタカイ〉の様相は全く一変してしまつた。米国が原子爆弾を使用したとの報道は全世界を震憾させた。

 八月七日
 佐藤大使よりソ連政府の意向が伝達された。曰く「ソ連政府は明八日正式回答を行ふはず」であると。

 八月八日
 待たれたソ連政府の回答は対日宣戦の布告であつた。即ち、モスコー放送はソ連政府が佐藤大使に対し、
 日本が七月二十七日付ポヅダム宣言を拒否した結果日本政府のソ連に対する斡旋方提案 の基礎は失はれソ連邦としては連合国の提案を受諾しポツダム宣言に参加し八月九日より日本と戦争状態に入るべきことを宣言する。
旨を伝達したと発表した。
【一行アキ】
 原子爆弾の惨禍はなほ国民全部には知れ渡つてゐない。けれども、このソ連の参戦は国民に異常な衝動を与へずにはおかなかつた。国民は、強国ソ連を新に〈アラタニ〉敵にまはすことになつた事実で、日本が決定的に不利な最悪の戦局に当面してゐることを知り、その気持ちは悲壮なものがある。

*このブログの人気記事 2016・8・6

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする