◎総理生存の旨を天皇陛下のお耳にいれておかねばならない
迫水久常の『機関銃下の首相官邸』(恒文社、一九六四)を紹介している。本日は、「防弾チョッキを着こんで」という章を紹介する。
防弾チョッキを着こんで
さて、問題は如何にしてこの総理を救いだすかということである。首相官邸の周囲には数百人の兵隊が蟻のはいでるすき間もないほどにとりまいている。しかも官邸内では絶えず巡視兵がまわっている様子である。よほど慎重に事をはからねばまず成功はのぞめない状態である。私たちは一まず秘書官官舎に引上げて、対策を立てることにした。官舎にかえると、けなげにも妻は、母と子供を応接間にいれ、内から鍵をかけさせた上、その扉の前でみんなを守るかのように一人でがんばっていた。私は妻にさっそく総理が生存していることを耳うちした。妻は「やっばりそうでしたか」と緊張した面持ちであった。事件落着後、私は何度も妻に対してあのときどうして総理が生きているといったのかときいてみた。妻の答は「ただなんとなくそんな気がした」というのであった。私たちが実際にみきわめるまで、総理が生きているということはとうてい考えられない客観情勢だったし、妻もべつに情報を入手する可能性はまったくないのであるから、結局は親と子の間にある神秘的な霊感によるというほかはない。
私の官舎で福田〔耕〕秘書官と善後措置について協議した。そのころになると方々から電話がかかり、襲撃をうけたのは岡田〔啓介〕首相ばかりでなく、内大臣斎藤実子爵、大蔵大臣高橋是清、侍従長鈴木貫太郎、教育総監渡辺錠太郎大将、牧野伸顕伯爵などであり、岡田首相は即死と見られていることが判った。そこへ宮内省から電話がかかってきた。私が電話口にでると、丁重に岡田首相の死去について弔詞を述べられ、ついては勅使をさしつかわされるお思召であるが、勅使を官邸においてうけられるか、私邸においてうけられるか、どちらがよいかという問合せである。既に高橋蔵相邸には勅使がいっているということである。私は如何に返事すべきかに迷いながら考えた。この電話は、あるいは反乱軍によって盗聴されているかもしれない。してみると、総理生存というような重大なことを電話で報告することは危険千万なことである。そこで私は「ただいま遺骸は官邸にございますが、官邸はまだ軍隊によって占領されていて、勅使をおうけするようなことはとても不可能だと思います。私邸のほうもよく連絡がとれませんので、これまた勅使をおうけする準蒲はできません。おそれ多いことでございますが、しばらくご猶予をおねがい申し上げたい」と返事した。
私は電話をきって福田秘書官にこのことを話し、一刻も早く総理生存の旨を、天皇陛下のお耳にいれておかねばならないが、電話で宮内大臣に報吿することは危険だから、どうしても私たち二人のなかの一人が至急に参内して秘密裡に報告するよりほかはないと相談して、結局私が宮内省にゆき、福田秘書官はあとにのこって処置をとることになった。
そこで私は、もう一つのことを思いついた。私は役人出身だから、そんなことに気がついたのである。世間には岡田首相は即死ということになっている。明治憲法の建前では、内閣総理大臣は一刻も存在しない時間があってはいけない。だから総理が在職中に死ぬと、例えば、東京駅頭で原敬首相が暗殺されたときも、加藤友三郎首相が病死されたときにも、上席の閣僚に対して、「臨時兼任内閣総理大臣」という辞令がでているから、このままに放置しておけば、上席の内務大臣後藤文夫氏に対して同じような辞令がでるのは当然である。しかし実際には首相は生きているのだから、このような辞令がでたのでは、あとで岡田首相が脱出してでてきても、総理大臣が他にできているのでもう総理としての立場はなくなってしまっていることになって、始末が悪い。どうしても総理大臣が事故のために職務がとれないという場合に相応する辞令がでなければ困るということである。私は、すぐに隣家の内閣官房総務課長の横溝光暉〈ミツテル〉氏の官舎にひそかにいって、横溝さんにそのことを懇請した。そのとき私ははっきり総理生存ということは明言したかどうか覚えていないが、ものわかりのよい横溝さんは、あっさり呑みこんで、すぐ私の目の前で、既に宮内省にはいっていた担当の稲田〔周一〕内閣書記官(元待従長)に、この場合の辞令は、「内閣総理大臣臨時代理被仰付」という形式にするよう電話で指示してくれた。あとできいたのであるが、この辞令の形式については、内閣官房の係りから異議がでたが、稲田さんはともかく総務課長の命令だからとおしきったという。そして、この辞令が公表されると、この方面の知識のある人たちから、内閣官房に、あの辞令の形式 はまちがっているという抗議があったということである。しかし、この辞令の形式に疑問をもった人もさすがに総理が生存しているということをよみとった人はなかったようだ。【以下、次回】
一点、注釈する。「稲田内閣書記官(元待従長)」とあるが、稲田周一が侍従長に就任したのは戦後のことである(在任一九六五年三月三〇日~一九六九年九月一六日)。なお、細かいことだが、『機関銃下の首相官邸』(恒文社)の第一版第一刷が発行された一九六四年(昭和三九)年八月一五日の時点では、稲田周一は、まだ侍従長の職についておらず、このコラムが参照している同書の第六版第一刷が発行された一九七三年(昭和四八)年八月一五日の時点では、すでに同職を退いていた。