礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

朝日、毎日の二大新聞は全くなっておらん(栗原安秀)

2021-01-26 02:05:50 | コラムと名言

◎朝日、毎日の二大新聞は全くなっておらん(栗原安秀)

『サンデー毎日』臨時増刊「書かれざる特種」(一九五七年二月)から、三浦寅吉執筆「反乱軍本拠突入記」を紹介している。本日は、その二回目。

 長靴の三銭切手にも符丁
 官邸の門をはいると、騒擾〈ソウジョウ〉の跡は歴然として、庭木は折れ破壊されたものが散乱して、四辺の様子は凄惨をきわめている。
 多数の兵士たちの通行に、雪解けになった道の両側には、雪搔きをした白雪がうず高く積まれて、ところどころに立っている兵士の息が白かった。
 その間を通って奧へ進むと、玄関近くに炭俵で焚火しながら暖を取っている一 群があった。見ればここが占領軍の本部ででもあろうか。三尺板の小卓ともいうべき事務机を据えて、二、三人の将校が椅子に腰をかけていた。
 案内した下士官が走り寄って、私の名刺を差し出すと、それを一瞥した一人の若い将校が真正面にこちらを向いて、噛みつくように大喝した。
「貴様、何しに来た。」
「事件があったという情報がはいったので、取材に来たのです。」
「何ッ。取材に来た? われわれは天下の奸賊を膺懲〈オウチョウ〉するために蹶起〈ケッキ〉したんだ。無礼な奴は赦さんぞ。大体、日本のジャーナリズムは怪しからん。満井〔佐吉〕中佐の時も、あの記事の取扱いはなんたるざまだ。殊に朝日、毎日の二大新聞は全くなっておらん。これから襲撃して、思い知らしてやるつもりだったんだ。」
 机を叩いて、威丈高〈イタケダカ〉にどなるありさまは、正に敵意に満ちていた。
「いや。私は一取材記者として出向いて来たのですから、そのことに関してはお答えの限りではありません。むしろ新聞社の幹部に会ってお話しになるがいいでしょう。あるいは蹶起の趣旨など発表の便もあるのではないかと思いますがね。」
 私がこういうと、側〈ソバ〉に立って聞いていた大尉の肩章〈ケンショウ〉をつけた士官が、どなりつけた将校のほうへ、いきなり向き直った。
「おい、栗原。そりゃあそうだ。これから新聞社へ膺懲に出かけよう。一つ陸相官邸へ行って、みんなと相談しようじゃないか」
「よかろう。」
 きっぱりといって立上がった将校が、この事件の大立物〈オオダテモノ〉栗原〔安秀〕中尉だったことに私は後で気がついた。
「じゃあその自動車を貸せ。お前もいっしょにこい。」
 そういいながら栗原中尉は私を自動車に押し込んで、自分も連れの士官とともに乗り込んだ。命ぜられたとおり、運転手がスピードを速めて、門の外へ出た時だった。歩哨を先へ立てた数名の士官がばらばらと車を取り巻いた。
「尊王」と声をかけるのを聞いた栗原中尉は車を停めさせて
「攘夷」と答えた。歩哨はドアを開けると取り出した懐中電灯で、さっと車中の士官の長靴〈チョウカ〉を照らした。
 私は思わずその灯〈ヒ〉のほうへ目をやった。見れば灯は士官のはいている長靴〈チョウカ〉の、外側に貼ってある三銭切手を照らしだしている。
「尊王」、「攘夷」の相言葉ばかりか、長靴の切手で味方を確認する方法まで講じてあるに至っては、この計画がいかに緻密に企てられているかを思って、私は慄然〈リツゼン〉たるものを感じた。【以下、次回】

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三浦寅吉の「反乱軍本拠突入記」(1957年2月)

2021-01-25 04:44:50 | コラムと名言

◎三浦寅吉の「反乱軍本拠突入記」(1957年2月)

『サンデー毎日』臨時増刊「書かれざる特種」(一九五七年二月)には、二・二六事件関係の記事が、ふたつ載っている。そのうちのひとつは、石橋恒喜執筆の「二・二六事件秘話」で、これはすでに紹介を終えた。
 同誌同号には、二・二六事件関係の記事として、もうひとつ、三浦寅吉執筆の「反乱軍本拠突入記」というものが載っている。
 本日以降は、この「反乱軍本拠突入記」を、何回かに分けて紹介してみたい。

 反 乱 軍 本 拠 突 入 記      三 浦 寅 吉

 払暁・重大事件突発の電話
 昭和十一年〔一九三六〕二月二十六日の、まだ夜の明け切らない午前五時頃であった。
 けたたましい電話のベルに驚かされた私は飛び起きて受話器を手にすると、松沢君(内田信也〈ノブヤ〉氏の秘書だった友人)の声がはげしく耳朶〈ジダ〉に響いて来た。
「内閣に重大事件が突発したらしい。くわしいことはわからないが、取りあえず報告しておきます。」
 電話はそのまま切れた。
 当時東京日日の写真部副部長をしていた私は、その電話にただならぬものを感じて、直ちに本社写真部の宿直室へ電話して、白井君を呼び出した。
「今、松沢氏から連絡があったんだが、中村君といっしょに総理大臣官邸へ直行してくれ。僕もすぐに行く。」
「承知しました。」
 返事よりも速く受話器をかける音がした。もはや一刻も猶予してはおられない。私は、大井町の自宅から本社へ円タクを飛ばした。
 一昨日〔二月二四日〕から降り続いた雪は、どうやら今朝は止んだものの、まだ降り足りないと見えて空はどんよりと暗く、ほの明りの中に銀一色に塗り潰された町々が静かに眠っていた。
 本社へ到着した時、編集部はまだ何事も知らないのであろう。寂〈セキ〉として人影もない。自動車部へ電話すると、白井、中村両君はすでに出かけたという。
「よし。」心に頷いた私は、回された自動車に乗って、積雪の中を全速力で走らせたが、間もなく桜田門へ差しかかった途端、雪を蹴散らせて前方へ立ち塞ったのは銃剣を構えた歩哨であった。
「止れ、誰か。」
「新聞社の者だ。首相官邸へ。」
「通行は許さん。交通遮断だ。」
 叱咤する声と、その後にいるものものしい兵士たちの姿を見て、今は交渉の余地もなく、左へ曲って霞ケ関の外務省へ向った。
 が、ここも歩哨の人垣が作られて、通過し得る見込は全くない。
「一体、何が始まったんです?」
 歩哨の一人にきいてみたが、じろりと睨んで、はげしい一言を投げつけたばかりだった。
「命令によって配置されてるんだ。」 
 愚図々々していると、銃剣を突きつけられそうな気配に、私は意を決して自動車を外相官邸の横へ(現外務省入口)へ乗り入れた。
 この警戒線は、やや寛大だったので反乱軍を鎮圧に来た兵士と思い私はホッとした。知らぬは仏とはこのことか。名刺を出して、首相官邸へ赴きたい旨を述べたところ、見張っていた下士官の一人が、じっと名刺を見詰めたが、やがて傍〈ソバ〉の伍長に案内を命じた。
 実戦さながらに身を固めた下士官は、忙しそうに駆け寄って来たので、社旗を立てた自動車に乗せて総理大臣官邸へ向った。【以下、次回】

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二・二六鎮圧の殊動者はこの俺だ(田中軍吉)

2021-01-24 00:28:36 | コラムと名言

◎二・二六鎮圧の殊動者はこの俺だ(田中軍吉)

『サンデー毎日』臨時増刊「書かれざる特種」(一九五七年二月)から、石橋恒喜執筆「二・二六事件秘話」を紹介している。本日は、その五回目(最後)。

 失敗した皇居占領
 日銀占領計画もその一つではあるが、 反乱暴発史として世間に伝わっているものは事件の核心になればなるほど闇から闇へ葬られているといえる。この中でも一番中心となっているのは「皇居占領」計画である。もし反軍によって皇居が乗っとられていたら、天皇陛下は彼等の銃剣のうしろにおられることになる。そうなると元老、重臣から御前会議等の一切 をあげて日本帝国の最上層機能はすべて反軍の手中ににぎられてしまうわけだ。統制派陸軍が全陸軍を動員して、皇居にたてこもる反軍を討伐しようとしても、まさか皇居めがけて大砲も機関銃もうちこむわけにはいかない。できることは、唯々諾々、ただ反軍の命令に従うことあるのみである。昭和維新万歳! 村中〔孝次〕等はひそかにこの叶画をねった。そこで選ばれたのが近衛歩兵三連隊中隊長中橋基明〈ナカハシ・モトアキ〉である。中橋なら一部将校きっての強硬派だ。しかも皇居占領には、どうしても親衛隊である近衛兵でなければならない。
 反乱軍幹部の懇請に中橋は直ちに快諾した。
「よし。宮城占拠は中橋部隊一個中隊がひきうけた」
 そして皇居の関門をやくする〔扼する〕ためには最古参の野中四郎自らが警視庁を中心 に桜田門霞ケ関一帯を占拠、中橋部隊の前衛としてその援護にあたること。中橋が見事宮城乗っとりに成功した場合には、時を移さず手旗信号により「成功」の合図をして二重橋の上高く「尊王討奸」のはたをひるがえすこと……等々の計画を決めたのである。しかも戒厳司令官には当然東京警備司令官の香椎浩平〈カシイ・コウヘイ〉が就任する。香椎は皇道派で反軍の同志だ。側近奉仕の侍従武官長本庄〔繁〕も彼等の信頼する山口一太郎の岳父である。今やおぜんだてはすべてできあがった。成功は火をみるより明らかだ。村中、栗原〔安秀〕 がこおどりして喜んだのはいうまでもなかろう。
 大蔵大臣高橋是清〈コレキヨ〉の殺害と、皇居占領の二つの大きな任務を与えられた中橋は同志の部下特務曹長斎藤〔一郎〕、曹長大江〔昭雄〕、軍曹箕輪〔三郎〕、同宗形〔安〕等と協議して第七中隊百二十名を二隊に編制した。一つは高橋邸への突入隊で、あと残りをもって皇居占拠部隊(宮城守備隊控兵)と定めたのである。だがここに大きい誤算があった。なぜなら彼はまだ支那駐屯軍部隊の第一線から帰還したばかりで、近衛部隊の内部に血盟の同志が少なかった。特に問題は自分の中隊の小隊長今泉義道の向背にあった。突入隊指揮官には同志の砲工学校学生中島莞爾が反軍本部からさし向けられてきたから、ここには問題がない。しかし宮城占領には宮城守備隊控兵副司令の今泉を起用しなければならない。ここで二十六日の午前三時、中橋と中島とは営内居住室でグッスリ寝ていた今泉を叩き起して決起計画を打ちあけ反軍への参加を勧告した。とはいってもお坊ちゃんそだちのおとなしい今泉にとっては、暴発計画は全くのところ寝耳に水である。思案にくれた彼は、なかなかに上官の説得にも腰をあげようとはしない。この間にも決起の時間は刻々とせまってくる。中橋とてもあせらざるをえない。彼は中島に眼で合図をすると同時に、スクッとたちあがった。
「命令! 今泉少尉はこれより部下小隊をひきいてシャム公使館付近に位置し、次の命令に備えて待機すべし」
 こういい終ると同時に、そそくさと今泉の前をはなれた中橋は全中隊に対して非常呼集を行った。「これより明治神宮に出発」との命令を下したのであった。時に午前四時。かくて同五時、高橋邸を包囲した突入隊は蔵相の寝室に乱入してこれを惨殺、さらにこの中島隊をして首相官邸の増援に急行させた。もちろん今泉はこの間命令に従って、公使館付近で待機の姿勢にあったわけである。
 今泉隊は中橋の手中ににぎられた。めざすは宮城占拠である。目標は宮城坂下門。高橋の鮮血に染まった軍刀をふるいながら降りしきる吹雪のなかを間もなく、坂下門前に到着した。びっくりして立騒ぐ皇宮警手を尻目にかけて、機関銃陣地の構築がはじまった。銃口は無気味にも宮城前広場の方向へ向けられて、参内する重臣を片っぱしから革命の血祭りにあげようという計画である。準備はすでになった。ここで中橋は今泉隊を門外に残したまま、単身皇居内に侵入、守備隊司令室に躍りこんだ。軍帽の陰にギラギラ両眼を光らせた中橋は、まず腰の拳銃を抜きとると、物をもいわずにバラバラにこれを分解して司令のテーブルの上へドカッと投げ出した。つまり彼はピストルを分解することによって、司令に対しては敵意のないことを示すと同時に、宮城守備の全権を中橋部隊の手に渡すよう強要したのである。
「ならぬ。絶対にだめだ」
「イヤ渡せ。小官のうしろには同志の一個中隊がひかえているぞ」
 こうして激論ははてしなくつづいた。右手はすでに軍刀のつか〔柄〕にかかっている。この時雪を蹴ちらしながらここへはせつけてきたのは同じ近歩三の中隊長田中軍吉である。紡制派きっての暴れん坊と目されていた田中は、反乱軍決起の急報と同時に田中中隊をひきいて中橋討伐のためそのあとを追ったのだ。彼が坂下門に駈けつけたときには中橋は部隊を門外に配置したまま宮城内に侵入している。
「はやまったな今泉。よし! 今泉隊はこれから田中の指揮下にいれる。イエスか、ノーか。ノーというなら直ちに武装解除を断行するぞ……」
 田中の命令には今泉はもちろんいやも応もない。ふだんから今泉は、田中に弟のように可愛がられていたからだ。反乱軍今泉隊はたちまち討伐軍に早変りしたわけである。田中はすぐさま中橋の足跡をたどって、まさに白刃のひらめきかけた司令室にとびこんだ。万事休す! 中橋は田中中隊の銃剣に囲まれた形となってしまったのである。宮城占領、坂下門 占拠の計画はついに失敗に帰した。かくて田中に追われた中橋は、ようやく二重橋を越えて警視庁占拠部隊の中へにげこまざるをえなかった。「二・二六鎮圧の殊動者はなんといってもこのおれだ。ベタ金〔将官〕の腰抜けどものなにができるものかね」
 こういってカンラカンラと豪傑笑いをしていたかれ田中も、間もなく軍籍を追われて予備役に編入されてしまった。のちに日本軍による南京虐殺事件〔一九三七年一二月〕の責任を負って、死刑場にのぞんだのは予備役歩兵大尉田中軍吉であった。(当時東京日日新聞社会部・現日本新聞協会

 中橋基明中尉らによる「皇居占領」が失敗に終わった経緯が、明快に記されている。守備隊司令室にいた「司令」の名が伏せられているが、宮城守衛隊司令官・門間健太郎少佐と思われる。
 なお、みずから「二・二六鎮圧の殊動者」と称していた近衛歩兵三連隊の中隊長・田中軍吉大尉であるが、なぜか、一九三六年(昭和一一)八月に予備役となった。一九三七年(昭和一二)八月に召集され、歩兵第四十五連隊(鹿児島)の第三大隊第十二中隊長として、中国大陸に出征。戦後の一九四八年(昭和二三)一月、南京で戦犯として処刑された(インターネット情報)。

*このブログの人気記事 2021・1・24(10位に珍しいものが入っています)

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渡辺錠太郎「これは大雪になりそうだ」

2021-01-23 04:01:11 | コラムと名言

◎渡辺錠太郎「これは大雪になりそうだ」

『サンデー毎日』臨時増刊「書かれざる特種」(一九五七年二月)から、石橋恒喜執筆「二・二六事件秘話」を紹介している。本日は、その四回目。

 「弾痕無数」の教育総監
 ところでこの冬はいつになく雪が多かった。暴発の数日前の夜のこと、荻窪にあった教育総監渡辺錠太郎の私邸を同じ陸軍担当記者W君といっしょに訪れた。和服にセルのはかま、 いつもニコニコしている渡辺は軍の内部情勢を語りながらなかなかのごきげんである。話題は当時世間をさわがしていた永田事件の軍法会議と、国体明徴問題に集中されたように憶えている。対談数刻―やがて帰ろうとするとワザワザ玄関の外までわたくしたちを見送ってきた。
「総監! 身辺を気をつけるべきですネ」
 じょうだんめかしてこう注意すると、帯のあいだから小型のコルト拳銃をとり出してニコニコ笑っていた。
「ウン! ありがとう。この通り覚悟はしておる……オヤッ! 雪が降ってきたね。これは大雪になりそうだ。気をつけて帰りたまえ……」
 と、くらい夜空を見あげていた。そしてこの夜降りだした雪は翌日もさらに降りつづいて、ついには総監の赤い血に染められたのだった。渡辺の死体検案書に曰く「弾こん無数」と。二十六日午前六時、少尉高橋太郎、同安田優、軍曹蛭田〔正夫〕、伍長梶間〔増治〕、同木部〔正義〕、同林〔武〕等を迎えうった彼はこのコルトで応戦一名を傷つけた。しかしこの応戦は血にうえた襲撃部隊の血をいよいよ燃えたぎらさせた。射て! 射て! 下士官の命令一下、軽機関銃は矢つぎばやに火を吐いて渡辺の肉片はちぎれとんだ。いくら弾こんを数えようとしても、眼の前で軽機の集中射撃を浴びたこととて全身これ蜂の巣といった形容そのものとなってしまったのだから、とてもむりだ。かくて前記のように「弾こん無数なり」という検案書が作られたわけである。
 反乱の経過をながめると、「襲撃」そのものまでの計画は非常に綿密である。桜田門付近占領のためには各部隊とも前前から真夜中に非常呼集を行って演習に演習を重ねている。だが襲撃を終ってからの処置にいたっては全くなかったといってもいい。というのは、要するに彼らの抱いていた信念がいわゆる〝捨て石〟となることだったからである。「決起」によって君側の奸を一掃する。君側の奸を一掃すれば昭和維新への障害はのぞかれる。障害がのぞかれれば同じ革新の意気に燃える上層の先輩がたって維新政府を樹立してくれる。決起した青年将校や同志の下士官兵はただこの捨て石となり踏み台となって身をなげうてばいいと考えていたのである。そのため十月事件の橋本欣五郎、建川美次〈タテカワ・ヨシツグ〉、長勇〈チョウ・イサム〉等陸海軍上層将校の秘密結社「星洋会」の態度を仇敵のように毛ぎらいしていた。つまり彼ら高級将校の革新なるものは、軍政府を樹立することによって、自らが大臣の要職をしめようという野望の満足にすぎないと非難していたのである。それだから一銭の軍資金さえ用意していなかったのも当然である。
 二十五日の夕刻、わたくしが西田税、亀川哲也の話に耳を傾けているところへ村中孝次が軍装に身を固めてあらわれた。いよいよ明仏暁を期して行動を起すことに決定した。山口〔一太郎〕、西田、亀川等は外部にあって上層部へ働きかけてほしいとの依頼である。このとき亀川が村中に質問した。
「君たち、一体金は持っているのかね」
「イヤ、一銭もない。だが金なんかいらん。日本銀行を占拠するから紙幣は山ほどあるさ」
 日本銀行占拠の計画を聞いて亀川等はビックリした。うっかりすると財界、経済界に大混乱がおこりかねない。
「日銀の占拠計画だけはやめたまえ。金はワシが算段する。とりあえずこれだけ持っていってくれないか」
 こういって亀川は久原房之助からもらった自分の金千円をむりやり村中の手ににぎらせたのだった。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2021・1・23

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北一輝は「決起」には全く関係がなかった(石橋恒喜)

2021-01-22 01:15:58 | コラムと名言

◎北一輝は「決起」には全く関係がなかった(石橋恒喜)

『サンデー毎日』臨時増刊「書かれざる特種」(一九五七年二月)から、石橋恒喜執筆「二・二六事件秘話」を紹介している。本日は、その三回目。

 暴発決定は十八日夜
 このような混乱のうちにあって、それでも「暴発阻止」の珍案、名案か関係者によって次から次へとすすめられていた。エチオピア救援義勇軍派遣計画もその中の一つであったが実現しなかった。
 反乱軍が暴発の決意を固めたのは大体昭和十一年〔一九三六〕二月十八日の夜であった。この夜駒場の栗原安秀宅に集まったのは村中、磯部、河野〔寿〕、安藤等で、同夜大体の骨組みをきめたうえさらに同二十二日と二十四日の夜、歩兵一連隊や洋食店竜土軒で会合、最後の部署担当を決めている。そしてこの「決起」には純粋無雑という見地からいっさい外部の参与を排撃して、同志の青年将校、下士官、兵だけで「革新」の捨て石となることを誓っている。そのため決起の本筋については先輩の山口一太郎や理論指導者だった西田税にも打ちあけてはいない。いわんや北一輝にいたっては全く関係がなかったといってもよく、反軍将校の大部分は一面識もなかったのが事実である。だが北は単に一部将校のバイブル「日本改造法案」の著者として、西田はその宣伝普及にあたった職業革命ブローカーだったがために死刑となった。「死刑」にしたわけはなにも彼ら二人が首謀者でも指導者でもあったためではない。要は「統制派陸軍」が二・二六の暴発をもって一種の「赤色革命」のあらわれであるかのように国民に宣伝するため、その犠牲とされたのが真相だ。「右翼の仮面をかぶった共産主義者北一輝と西田税」という陸軍当局の発表は、是が非でも両名を「首謀者」に押したてて銃殺せんがための陰謀であったにすぎない。事実、暴発の前夜 (二月二十五日)西田とわたくしとが亀川哲也の宅で会ったときにも「若い連中はいくらわしがとめてもいうことをきかない。もうこうなったら、やらせる以外に処置なしですわ」と苦しい胸のうち を、豪快に笑いにまぎらしていたほどである。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2021・1・22(10位に珍しいものが入っています)

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