◎わが家は憲兵と淀橋署の監視下にある(山口一太郎)
石橋恒喜著『昭和の反乱』(高木書房、一九七九年二月)の上巻から、「十三 皇道派への反発強まる」の章を紹介している。本日は、その五回目。
「青年将校」への弾圧強まる
昭和九年の初め、私は住みなれた青山から、田園気分の漂う西荻窪へ転宅した。西荻窪に住む〔陸軍省〕新聞班の大久保弘一少佐から、〝あくせくしていないで、少し効外でのんびり構えたらどうか……〟とのすすめがあったからだ。そのころ山口一太郎は新宿駅近くの大久保に、柴有時〈シバ・アリトキ〉は小滝橋〈オタキバシ〉に住んでいた。 私は帰宅の途中、機会を見ては山口や柴のところへ押しかけた。山口の応接間には、ひとくせも、ふたくせもありげな人物が顔を並べていた。〝インテリ浪人〟の亀川哲也(二・二六事件で無期禁錮)と親しくなったのも、この応接間であった。
ある晩、山口を訪れると、いつになく緊張した面持ちで語りかけて来た。「これからやってくる時は、余りおおっぴらでやってこないで欲しい」というのだ。そこで私はこう答えた。
「かまわん、かまわん。新聞記者には〝取材の自由〟がある。相手が一部将校であろうとも、第三者から文句を言われる筋合いのものじゃない」
彼は苦笑しながらこう言った――
「いや、君は〝かまわん、かまわん〟というが、こちらはかまうのだ。なぜかというに、最近、わが家は憲兵と淀橋署の特高係の監視下に置かれている。だから自動車で来た時は、せめて社旗だけでも取りはずしておいてくれないか」
なるほど、これはうかつだった。そう言われてみると、辻々には私服の目が光っていた。山口が神経をとがらせるのも無理がない。青年将校をめぐる情勢は、いよいよ〝風雨強かるべし〟という雲行きとなったのである。
確か昭和九年十一月十五日だったと記憶する。その日私は、関東平野を舞台とした特別大演習に従軍して、帰社したばかりの時だった。戸山学校の柴有時から〝至急会いたい〟との電話があったので学校へ出かけて話を聞いた。柴が私に語ったところはこうだ――「過日、陸軍省新聞班の満井(佐吉)中佐や調査班の田中(清)少佐などから、中央部の幕僚と青年将校とが、いがみ合ってばかりいるのが能じゃない。ひとつ幕僚と若い人たちとの懇談会を開いて、大同団結の機運を促進しようじゃないかとの話があった。趣旨においては自分も賛成である。そこで若いものの中では自分と山口(一太郎)とが一番の年かさなので、取りまとめ役を引き受けた。懇談会は六日に始まって数回会合が持たれたが、懇談会とは名ばかり。幕僚どもは最初から高圧的で、青年将校の行動を抑制しようとするのがそのねらいのようだ。懇談会は明晩も偕行社で続行されるが、自分はこれを決裂に持ち込むつもりでいる。ついては、もし時間の都合がついたら、会議を傍聴して、いずれの主張が正しいか、審判官役をやってもらいたい」
この話を聞いて私は、面食らった。いくら敬愛する柴の頼みだといっても、新聞記者がけんかの審判役をやるわけにはゆかない。私は大演習の骨休めもあって、偕行社へは行かなかった。
十七日朝、本社へ顔を出してみると、遊軍のベテラン記者・安養寺友一が待ち構えていた。
「イヤー、昨夜は痛快だったぞ。実は昨晩、柴大尉から〝石橋君はいないか〟との電話がかかって来た。〝いない〟というと、重大な会議があるから誰か石橋君の代わりに取材に来て欲しいとのこと。そこでわしが行ってみると参謀肩章をつった中、少佐級のお歴々と数名の青年将校との大論争さ。結局、青年将校側が席を蹴って立って、会談は決裂となってしまった。若い将校は威勢がいいねえ」
あとでこの会合の模様を柴に聞いてみると、その夜、出席した幕僚陣は中佐・牟田口廉也〈ムタグチ・レンヤ〉、同・満井佐吉、同・ 土橋勇逸〈ツチハシ・ユウイツ〉、同・下山琢磨、同・清水規矩〈ノリツネ〉、少佐・馬奈木敬信〈マナキ・タカノブ〉、同・池田純久、同・田中清、同・今田新太郎、大尉・常岡滝雄、同・権藤正威〈ゴンドウ・マサタケ〉、同・辻政信などといったそうそうたる顔触れ。これに対して隊付青年将校側は、大尉・山口一 太郎、同・柴有時、同・大蔵栄一、一等主計・磯部浅一〈アサイチ〉のほか、憲兵大尉の目黒茂臣ら数名に過ぎなかったという。
会議はまず、参謀本部庶務課長の牟田口のあいさつに始まったが、双方の意見は並行線をたどるだけ。幕僚側は次のような点を主張して、〝弾圧をも辞せず〟といった強い態度に出たという。
「軍内の横断的団結は、軍を破壊分裂する危険があるので避けるべきだ」「国家革新は、軍の責任において、みずから組織を動員して実行する。だから青年将校は政治策動から手を引いて、軍中央部を信頼し軍務に精励すること」「青年将校たちが荒木〔貞夫〕大将をかつぎ革新の頭首として仰ぐことは、軍内に派閥をつくり、政党を結成するようなものだ。平素青年将校は政党を攻撃しながら、みずから政党化するのは矛盾していないか」――といった内容のものであったらしい。
こうして幕僚陣は、あくまで威圧的な態度をとり続けた。両者の調停役を引き受けていた柴、山口はカンカンになった。「話が違う。オイ、諸君、引きあげよう」――柴が憤然と幕僚席をにらみつけた。会談が始まってからわずかに二十分。会談はついに決裂した。せっかく融和団結を目指した懇談会もかえって対立の溝を深めることとなったのだ。これがいわゆる「偕行社事件」だ。
ところで、戦後発表された各種の出版物を読むと、この事件を「昭和八年」の出来事であったかのように書いている。しかし、私の「記者手帳」から判断すると、「昭和九年」の間違いであるように思う。では、なぜ間違ったのか? 要するにそれは、昭和十年、村中孝次によって非合法出版された「粛軍に関する意見書」に「昭和八年」と記述されているからで、各著者が同書を参考としているからにほかならない。
だいいち、「昭和八年」というのはおかしい。昭和八年というとまだ荒木軍政はなやかなりし時代だ。むろん、中央部は皇道派一色である。だというのに幕僚たちがことさら皇道派系青年将校に向かって「軍中央部を信頼せよ」などと、中央部支持を押しつけたとするのは矛盾している。やはり事件は、昭和九年の出来事とみるのが正しいのではあるまいか。【以下、次回】
いわゆる「偕行社事件」の話である。この事件が起きた年だが、ウィキペディア「士官学校事件」の項は、「1933年(昭和8年)11月に数次にわたって」としていて、その典拠として、池田純久著『日本の曲がり角』(千城出版、一九六八)を挙げている。一方、石橋恒喜は、自分の「記者手帳」を根拠に、昭和九年(一九三四)一一月だとする。昭和八年説、昭和九年説のいずれが正しいのかについては、いま判断を保留する。