礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

わが家は憲兵と淀橋署の監視下にある(山口一太郎)

2021-02-23 04:47:46 | コラムと名言

◎わが家は憲兵と淀橋署の監視下にある(山口一太郎)

 石橋恒喜著『昭和の反乱』(高木書房、一九七九年二月)の上巻から、「十三 皇道派への反発強まる」の章を紹介している。本日は、その五回目。

 「青年将校」への弾圧強まる
 昭和九年の初め、私は住みなれた青山から、田園気分の漂う西荻窪へ転宅した。西荻窪に住む〔陸軍省〕新聞班の大久保弘一少佐から、〝あくせくしていないで、少し効外でのんびり構えたらどうか……〟とのすすめがあったからだ。そのころ山口一太郎は新宿駅近くの大久保に、柴有時〈シバ・アリトキ〉は小滝橋〈オタキバシ〉に住んでいた。 私は帰宅の途中、機会を見ては山口や柴のところへ押しかけた。山口の応接間には、ひとくせも、ふたくせもありげな人物が顔を並べていた。〝インテリ浪人〟の亀川哲也(二・二六事件で無期禁錮)と親しくなったのも、この応接間であった。
 ある晩、山口を訪れると、いつになく緊張した面持ちで語りかけて来た。「これからやってくる時は、余りおおっぴらでやってこないで欲しい」というのだ。そこで私はこう答えた。
「かまわん、かまわん。新聞記者には〝取材の自由〟がある。相手が一部将校であろうとも、第三者から文句を言われる筋合いのものじゃない」
 彼は苦笑しながらこう言った――
「いや、君は〝かまわん、かまわん〟というが、こちらはかまうのだ。なぜかというに、最近、わが家は憲兵と淀橋署の特高係の監視下に置かれている。だから自動車で来た時は、せめて社旗だけでも取りはずしておいてくれないか」
 なるほど、これはうかつだった。そう言われてみると、辻々には私服の目が光っていた。山口が神経をとがらせるのも無理がない。青年将校をめぐる情勢は、いよいよ〝風雨強かるべし〟という雲行きとなったのである。
 確か昭和九年十一月十五日だったと記憶する。その日私は、関東平野を舞台とした特別大演習に従軍して、帰社したばかりの時だった。戸山学校の柴有時から〝至急会いたい〟との電話があったので学校へ出かけて話を聞いた。柴が私に語ったところはこうだ――「過日、陸軍省新聞班の満井(佐吉)中佐や調査班の田中(清)少佐などから、中央部の幕僚と青年将校とが、いがみ合ってばかりいるのが能じゃない。ひとつ幕僚と若い人たちとの懇談会を開いて、大同団結の機運を促進しようじゃないかとの話があった。趣旨においては自分も賛成である。そこで若いものの中では自分と山口(一太郎)とが一番の年かさなので、取りまとめ役を引き受けた。懇談会は六日に始まって数回会合が持たれたが、懇談会とは名ばかり。幕僚どもは最初から高圧的で、青年将校の行動を抑制しようとするのがそのねらいのようだ。懇談会は明晩も偕行社で続行されるが、自分はこれを決裂に持ち込むつもりでいる。ついては、もし時間の都合がついたら、会議を傍聴して、いずれの主張が正しいか、審判官役をやってもらいたい」
 この話を聞いて私は、面食らった。いくら敬愛する柴の頼みだといっても、新聞記者がけんかの審判役をやるわけにはゆかない。私は大演習の骨休めもあって、偕行社へは行かなかった。
 十七日朝、本社へ顔を出してみると、遊軍のベテラン記者・安養寺友一が待ち構えていた。
「イヤー、昨夜は痛快だったぞ。実は昨晩、柴大尉から〝石橋君はいないか〟との電話がかかって来た。〝いない〟というと、重大な会議があるから誰か石橋君の代わりに取材に来て欲しいとのこと。そこでわしが行ってみると参謀肩章をつった中、少佐級のお歴々と数名の青年将校との大論争さ。結局、青年将校側が席を蹴って立って、会談は決裂となってしまった。若い将校は威勢がいいねえ」
 あとでこの会合の模様を柴に聞いてみると、その夜、出席した幕僚陣は中佐・牟田口廉也〈ムタグチ・レンヤ〉、同・満井佐吉、同・ 土橋勇逸〈ツチハシ・ユウイツ〉、同・下山琢磨、同・清水規矩〈ノリツネ〉、少佐・馬奈木敬信〈マナキ・タカノブ〉、同・池田純久、同・田中清、同・今田新太郎、大尉・常岡滝雄、同・権藤正威〈ゴンドウ・マサタケ〉、同・辻政信などといったそうそうたる顔触れ。これに対して隊付青年将校側は、大尉・山口一 太郎、同・柴有時、同・大蔵栄一、一等主計・磯部浅一〈アサイチ〉のほか、憲兵大尉の目黒茂臣ら数名に過ぎなかったという。
 会議はまず、参謀本部庶務課長の牟田口のあいさつに始まったが、双方の意見は並行線をたどるだけ。幕僚側は次のような点を主張して、〝弾圧をも辞せず〟といった強い態度に出たという。
「軍内の横断的団結は、軍を破壊分裂する危険があるので避けるべきだ」「国家革新は、軍の責任において、みずから組織を動員して実行する。だから青年将校は政治策動から手を引いて、軍中央部を信頼し軍務に精励すること」「青年将校たちが荒木〔貞夫〕大将をかつぎ革新の頭首として仰ぐことは、軍内に派閥をつくり、政党を結成するようなものだ。平素青年将校は政党を攻撃しながら、みずから政党化するのは矛盾していないか」――といった内容のものであったらしい。
 こうして幕僚陣は、あくまで威圧的な態度をとり続けた。両者の調停役を引き受けていた柴、山口はカンカンになった。「話が違う。オイ、諸君、引きあげよう」――柴が憤然と幕僚席をにらみつけた。会談が始まってからわずかに二十分。会談はついに決裂した。せっかく融和団結を目指した懇談会もかえって対立の溝を深めることとなったのだ。これがいわゆる「偕行社事件」だ。
 ところで、戦後発表された各種の出版物を読むと、この事件を「昭和八年」の出来事であったかのように書いている。しかし、私の「記者手帳」から判断すると、「昭和九年」の間違いであるように思う。では、なぜ間違ったのか? 要するにそれは、昭和十年、村中孝次によって非合法出版された「粛軍に関する意見書」に「昭和八年」と記述されているからで、各著者が同書を参考としているからにほかならない。
 だいいち、「昭和八年」というのはおかしい。昭和八年というとまだ荒木軍政はなやかなりし時代だ。むろん、中央部は皇道派一色である。だというのに幕僚たちがことさら皇道派系青年将校に向かって「軍中央部を信頼せよ」などと、中央部支持を押しつけたとするのは矛盾している。やはり事件は、昭和九年の出来事とみるのが正しいのではあるまいか。【以下、次回】

 いわゆる「偕行社事件」の話である。この事件が起きた年だが、ウィキペディア「士官学校事件」の項は、「1933年(昭和8年)11月に数次にわたって」としていて、その典拠として、池田純久著『日本の曲がり角』(千城出版、一九六八)を挙げている。一方、石橋恒喜は、自分の「記者手帳」を根拠に、昭和九年(一九三四)一一月だとする。昭和八年説、昭和九年説のいずれが正しいのかについては、いま判断を保留する。

*このブログの人気記事 2021・2・23(10位に極めて珍しいものが入っています)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

陸軍パンフレット事件と池田純久少佐

2021-02-22 02:12:17 | コラムと名言

◎陸軍パンフレット事件と池田純久少佐

 石橋恒喜著『昭和の反乱』(高木書房、一九七九年二月)の上巻から、「十三 皇道派への反発強まる」の章を紹介している。本日は、その四回目。

 陸軍パンフレット事件
 ソ満国境の旅から帰京すると、都大路〈ミヤコオオジ〉には秋風が吹いていた。三宅坂では、〝永田軍政〟もようやく軌道に乗って、林〔銑十郎〕陸相の顔色は明るかった。〔一九三四年〕十月一日、新聞班から「国防の本義と其強化の提唱」と題するパンフレットが発表された。これも永田〔鉄山〕の自信を物語るものといえる。いわゆる「陸軍パンフレット」事件だ。新聞は大きく紙面をさいて、この全文を報道した。世間はアッといった。
 このパンフレットの執筆者は、軍事課政策班の池田純久少佐。彼が徴募課勤務務の大尉時代から、私とは仲がよかった。東大の依託学生出身の経済学士であったところから、若い記者たちと話が合った。一等卒、二等卒と〝卒〟呼ばわりしていたのを、一等兵、二等兵と改めたのも、徴募課時代の彼の発想によるものだった。また、錦旗革命〔十月事件〕を暴挙であるとして、これを〝粉砕〟したのも池田である。
 このパンフレットは「たたかひは創造の父、文化の母である」といった書き出しで始まった。そして、「国防観念の再検討」「国防力構成の要素」について論じ、広義国防国家の確立のためには、「現経済機構の変改是正」を断行、もって「国民生活の安定」「農山漁村の更生」を図るべきであるというにあった。むろん「現経済機構の変改是正」といっても、それは暴力革命による変革ではない。「新経済機構に具備すべき要件」の一つとして、「個人の創意と企業欲とを満足せしめ、ますます勤労心を振興せしめること」をあげている。すなわち、統制経済―修正資本主義路線を目指しているところに、その特色があった。皇道派青年将校グループは、この論理を「軍財抱合体制」と呼んで軽蔑した。
 永田軍政が軌道に乗るとともにまず手をつけたのは、目ざわりな皇道派一部青年将校の征伐であった。弾圧の手は徐々に隊付将校の上へのびつつあった。すでに参謀本部第八課(諜報・謀略)では青年将校の決起に備えて、「政治的非常事変勃発に処する対策要綱」なるものを作っていた。これは青年将校が決起したならば、一挙にこれを踏みつぶそうとのねらいである。当時、第八課の責任者は武 藤章で、対策要綱の立案に当たったのは関東軍参謀だった片倉衷〈タダシ〉少佐であった。
 もともと中央部のエリート幕僚にとって、革新派の青年将校、ことにその理論指導者と目される北・西田は、憎んでもなおあきたらない〝悪魔〟であったのだ。なぜかというのに、幕僚はいずれも陸大出身の特権階級である。そこは〝無天組〟の入り込むすきのない〝陸軍大学閥〟の牙城である。だというのに、一部将校の態度はどうだ。ふらちにも〝陸大入校を拒否する連盟〟などといって、天保銭組の足を払おうとする。しかも幼年学校では「台賜」、士官学校では「恩賜」の銀時計組の青年将校までが、その運動の先頭に立っているという。生意気千万なやつばらだ。いまにしてこれらをたたかなければ、せっかくの〝特権〟を失う恐れがある。〝陸軍部内から不逞将校を一掃しろ〟―エリートたちは怒りに燃えた。こう考えたのは、何も反皇道派の幕僚ばかりではない。チャキチャキの皇道派系中堅幕僚までが、憎悪の目を向けていたのだからおもしろい。たとえば、荒木〔貞夫〕の心酔者であった大臣秘書官の前田正実〈マサミ〉中佐までが、一部将校の弾圧を口にしていたほどである。
 そのうえ幕僚陣にとって、暴力革命はもはや全く不要であったのだ。すなわち、アンチ財閥思想の想定敵国とされた三井は、シッポをふって幕僚陣に近づいている。同社の巨頭池田成彬〈シゲアキ〉は〝利益追及第一主義〟からの転向を誓った。三井報恩会の設立、三井一族の経営面からの後退、株式の公開などの新方針を打ち出したのがそれである。当時、池田が、愛国恤兵〈ジュッペイ〉金、軍人会館の建設費などに投げ出した寄付金だけでも、六千万円余という巨額にのぼっている。三菱、住友などの財閥が、これに追随したことは説明するまでもなかろう。
 官僚陣もまた、幕僚陣との接触に懸命となっていた。永田軍務局長はこれを歓迎した。建設計画ということになると、軍人には手が出ない。どうしても革新的少壮官僚と手を結ぶ必要がある。ここに両者の固い握手がかわされたのだ。いわゆる〝新官僚〟の台頭である。後藤文夫、岸信介、唐沢俊樹、松井春生〈ハルオ〉、小金義照〈コガネ・ヨシテル〉、藤井崇治〈ソウジ〉、大和田悌二、迫水久常〈サコミズ・ヒサツネ〉、田中長茂〈ナガシゲ〉、相川勝六〈カツロク〉、奧村喜和男〈キワオ〉、和田博雄などがそれである。
これについて前記の池田純久はその著書の中で次のように述べている――
「われわれ統制派の最初に作製した国家革新案は、やはり一種の暴力革命的色彩があった。警視庁を占領するとか、議会を占領するとか、著名政治家を監禁するとかの暴力沙汰であった。しかしそれはあくまで軍の統率のもとに、一糸乱れぬ指揮をもって行動しようというのである。しかしわれわれでの研究が進むにつれて、暴力革命的方式を廃して、合法的手段、つまり現行憲法に抵触せずして、国家革新を行うことに頭をひねった。それはこうである……陸軍大臣を通じて政治上の要望を政府に提案し、これを推進するならば、必ずしも暴力革命の手段によらずとも、国家革新は可能である、という結論に達した。統制派は、かくして暴力革命を排し、陸軍大臣を通じ行う方式を採用することに、その態度を一変したのである」【以下、次回】

*このブログの人気記事 2021・2.22(10位のズビスコは久しぶり)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ソ連空軍は東京爆撃の構えさえ示していた(石橋恒喜)

2021-02-21 01:00:15 | コラムと名言

◎ソ連空軍は東京爆撃の構えさえ示していた(石橋恒喜)

 石橋恒喜著『昭和の反乱』(高木書房、一九七九年二月)の上巻から、「十三 皇道派への反発強まる」の章を紹介している。本日は、その三回目。

 記者団、建設中の満州国へ
 八月人事〔一九三四年八月〕の直後、私は記者クラブの友人数名と語らって、戦時態勢下の満州国の視察旅行に出かけた。兄事する航空兵少佐の平田勝治から、ソ連国境や満州国の建設状況を見にこないか、とのすすめがあったからである。そのころ平田は参謀本部第二課(作戦)から転出して、関東軍司令部航空参謀の職にあった。私は〔東京日日新聞〕社会部長の堤為章に特別休暇を申請して、奉天経由、新京(長春)へ向かった。
 新京へ着いてみると、折りから壮大な首都建設工事のまっ最中。マーチョ(馬車)のまき散らす馬糞のホコリの舞い上がるなかを、建設の槌音が高らかに響いていた。出迎えに来てくれた軍司令部の副官が〝見てください! この馬糞臭い田舎町も、数ケ月中に近代都市へ変貌するはずですからね〟と胸を張っていた。
 当時、関東軍の参謀副長は、われわれと親しい岡村寧次〈ヤスジ〉少将であった。私たちのために、すぐ参謀部員を招集して、ソ満国境方面の情勢を説明してくれた。それによると、ソ連は着々と国境の防備を固めて、極東に大軍を集結中である。そして、〝決戦も辞せず〟と挑発的行動を示している。ことに堅固な防衛ラインを敷いているのは、東部の東寧〈トウネイ〉、綏芬河〈スイフンガ〉方面だとのこと。そこには厚いコンクリートで固めた〝トーチカ〟をズラリと並べて、難攻不落の要塞を作っているとある。しかも、この沿海州〈エンカイシュウ〉方面にはソ連空軍の精鋭、長距離重爆撃機の大集団を配備して東京爆撃の構えさえ示している。万一、内地が襲われるとあっては一大事だ。そこで関東軍としてはこの重爆集団をたたくと共に、是が非でもトーチカ群を突破しなければならない。イザという場合、どうしたらこの難敵を粉砕できるか、軍司令部としては頭の痛いところだ、との話であった。こうしてセミナーは、数時間に及んだ。トーチカというソ連の軍事用語も、この席で初めて耳にした。
 それまで〝無敵関東軍〟と信じ込んでいた私の心は暗かった。
 初代の満州国国務総理・鄭孝胥〈テイ・コウショ〉と会見したのも、この時である。いかにも聖人君子と呼ぶにふさわしい、老学者であった。岸信介〈ノブスケ〉ら経済官僚グループとも会って、その抱負を聞いた。満州国の経済建設のため、日本から派遣された人たちである。まだ、みんな若くて意気軒昂たるものがあった。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2021・2・21(8・9位に極めて珍しいものが入っています)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

林銑十郎は皇道派の追放をもくろんだが……

2021-02-20 00:24:07 | コラムと名言

◎林銑十郎は皇道派の追放をもくろんだが……

 石橋恒喜著『昭和の反乱』(高木書房、一九七九年二月)の上巻から、「十三 皇道派への反発強まる」の章を紹介している。本日は、その二回目。

 出現した〝悪魔の軍務局〟
 やがて八月の定期大異動は迫った。林〔銑十郎〕は中央部から、皇道派の追放をもくろんだ。相談相手は渡辺錠太郎と軍務局長の永田鉄山であった。女房役の柳川〔平助〕次官と松浦淳六郎人事局長は、完全に無視された。主要な人事異動は次のとおり。
 ▽軍事参議官・松井石根〈イワネ〉(台湾軍司令官)▽軍事参議官・川島義之(朝鮮軍司令官)▽台湾軍司令官・寺内寿一〈ヒサイチ〉(第四師団長)▽朝鮮軍司令官・植田謙吉(参謀次長)▽参謀次長・杉山元〈ゲン〉(航空本部長)▽第一師団長・柳川平助(陸軍次官)▽陸軍次官・橋本虎之助(参謀本部総務部長)▽第二師団長・秦真次〈ハタ・シンジ〉(憲兵司令官)▽憲兵司令官・田代皖一郎▽歩兵第二十四旅団長・東条英機(士官学校幹事)▽陸軍省付・山下奉文〈トモユキ〉(陸軍省軍事課長)▽陸軍省軍事課長・橋本群〈グン〉(参謀本部課長)▽第十一師団長・古荘幹郎〈フルショウ・モトオ〉(参謀本部第一部長)
 林としては、もっとも目ざわりな次官の柳川を田舎の師団長へ追い出し、憲兵司令官の秦はクビにする計画だった。が、真崎〔甚三郎〕が承知するはずがない。やむなく柳川を東京の第一師団へ、秦を仙台第二師団へ転出させた。表面上は栄転である。また、軍司令官級では、大阪第四師団長の寺内を朝鮮へ、航空本部長の杉山を台湾へ起用することを考えていた。しかし、この案にも真崎が反対した。〝植田を朝鮮へ出せ〟とがんばったので参謀次長には杉山が抜擢された。
 植田が中央から追われたわけは彼が閑院宮をあやつって、反皇道派的策謀を繰り返しているとにらまれたからだ。寺内は遊びにかけてはベテランだが、軍司令官という人物ではない。せいぜい少将どまりの男だが、親の七光りで、いつの間にか最高のイスについてしまった。思わぬ拾い物をしたのは杉山元だ。波は宇垣系ではあるが〝昼行燈〟的存在だ。杉山なら御し易い、と真崎の目にうつったからであろう。東条英機も、真崎の注文で久留米の旅団長へ転出させられた。三月の異動で士官学校幹事に追い払ったものの、何かというと皇道派に循を突く。ここらで田舎の旅団長に飛ばしておいて、次の異動ではクビにしてしまえというのが真崎の腹づもりだった。皇道派の整備局長・山岡重厚〈シゲアツ〉と人事局長・松浦淳六郎は、そのまま陸軍省に居すわった。
 また、少将に進級した皇道派のホープ・山下奉文も、陸軍省勤務となって辛くも皇道派の一角を死守した。
 このような経過をたどって、八月異動は終わった。その結果は皇道派一掃の人事とはならなかったものの陸軍次官・橋本虎之助、軍務局長・永田鉄山、軍事課長・橋本群という新陣容が整った。そして軍事課の課員には、くせものの武藤章をはじめ影佐禎昭〈カゲサ・サダアキ〉、池田純久〈スミヒサ〉といった中堅幕僚が配置された。「永田軍政」は、いよいよスタートを切ったのである。憲兵隊ではこのグループを〝統制派〟と命名した。統制派というのは「部内に皇道、清軍両派の対立のあるのを非とし、軍中央部の一糸乱れざる〝統制〟の下に国家改造に進まんとする一団」のことを指す。皇道派はこれを〝悪魔の軍務局〟と呼んだ。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2021・2・20

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

林銑十郎陸相の「辞任茶番劇」(1934)

2021-02-19 05:19:17 | コラムと名言

◎林銑十郎陸相の「辞任茶番劇」(1934)

 石橋恒喜著『昭和の反乱』(高木書房、一九七九年二月)の紹介に戻る。本日以降、同書の上巻から、「十三 皇道派への反発強まる」の章を、何回かに分けて紹介してみたい。

  十三 皇道派への反発強まる

 林陸相の辞任劇
 昭和九年四月十一日、陸軍省へ顔を出してみると、首脳部の動きがあわただしい。〝何かあったのか〟と新聞班長の根本〔博〕にたずねると、陸軍大臣が突然、辞表を出したのだという。理由は東京市の疑獄事件に関係して、かねてから裁判中であった市助役の白上佑吉〈シラカミ・ユウキチ〉にこの日有罪の求刑があったためだとのこと。白上は林〔銑十郎〕の実弟である。林の言い分によると、肉身の弟が有罪の求刑を受けたとあっては、陸相のイスにとどまるわけにはいかないというのだ。そして後任には、前陸相の荒木貞夫を推しているとのことだった。これがいわゆる林の〝辞任茶番劇〟だ。私たちは、すぐ幡ケ谷〈ハタガヤ〉の荒木の私宅へ車を飛ばした。荒木はちょうど外出しようとするところだった。
「なに! 林君が辞表を出したって? ほんとかね。だが、林君は辞めるはずはないよ。かけをしてもいい…」
 荒木は、われわれの質問を軽く受け流して、車に乗った。
 さあ、これからというものは、三宅坂はひっくり返るような騒ぎだ。次官の柳川〔平助〕は、林が辞表提出に当たって、一言の相談もなかったというのでふくれっつらをしている。憲兵司令官の秦〔真次〕、整備局長の山岡〔重厚〕、人事局長の松浦〔淳六郎〕、軍事課長の山下〔奉文〕ら皇道派の面々は、冷ややかな目でこの辞任劇を眺めてい る。片や軍事参議官の南次郎、同・渡辺錠太郎、同・阿部信行ら反皇道派もてんやわんやの騒ぎ。せっかく〝永田軍政〟がスタートを切ろうとする矢先である。というのに、林に辞められたのでは一大事だ。何とかして翻意させなければならない。ここで林の説得役をかって出たのは、渡辺錠太郎だ。
 渡辺は荻窪に住んでいて、林の私邸がある天沼とは近い。暮夜〈ボヤ〉ひそかに林を訪れて、皇道派に天下を渡してはならないとかきくどいた。それと同時に渡辺は、参謀次長の植田謙吉と連絡をとった。参謀総長・閑院宮〔載仁親王〕のお声がかりで林を留任させようという魂胆である。折りから閑院宮は関西方面をご旅行中で、十四日夜ご帰京の予定であるという。植田は静岡まで殿下を出迎えて、この話を持ち込んだ。真崎や皇道派が大嫌いの殿下が、〝ノー〟というはずはない。翌十五日、林を御殿に呼んだ。ここで〝留任せよ〟との鶴の一声がかかったわけだ。もともと林には、辞職する考えはなかった。そこで〝閑院宮の懇請もだしがたく〟という口実で、天沼の私邸から官邸へ帰って来た。辞表を出してから五日目である。反荒木・真崎派の幕僚陣が〝してやったり〟と快哉を叫んだ。
 では、一体、林は、何でこんな田舎芝居を演じたのだろう? それは林でなければ分からない。白上の有罪は、彼が大臣に就任の前から分かっていたはずである。〝何をいまさら〟という気がする。 ただ当時、彼が腐り切っていたことは確かだ。というのは、意気揚々と三宅坂へ乗り込んではみたものの、何かというと真崎に頭をおさえつけられる。しかも、側近を見渡すと、どれもこれも〝土匪〟(土肥)の群である。頼りとするは軍務局長の永田〔鉄山〕ただ一人だ。これでは手も足も出ない。そこで、参謀総長宮〈サンボウソウチョウノミヤ〉のお声がかりをねらって、乾坤一擲【けんこんいつてき】の茶番劇を演出したのである。

 真崎追放をねらう閑院宮
 いずれにしても彼は、この辞任劇を機として、強力なうしろだてが控えていることを知った。それは閑院元帥宮と渡辺錠太郎である。渡辺は温厚篤実。武将というよりは学究肌。月給の大半を丸善へ支払っているといわれていた将軍だ。航空記者だった私は、よく航空本部長室に押しかけては、彼の該博な欧米の航空事情の講義を問いた。徒然草の研究も、国文学者はだしだった。それだけに、彼のどこを押してみても、今度のような寝業師【ねわざし】であるとは、想像もつかなかったものである。皇道派もまた、油断し切っていた。渡辺を単なる〝学者軍人〟と小ばかにしていて、〝台風の目〟であることに気づかなかったのはうかつであった。二・二六事件で渡辺が、悲惨な最期をとげた要因は、実にこの茶番劇にはじまったのである。
 参謀総長・閑院元帥宮〈カンインゲンスイノミヤ〉の存在も皇道派の命取りとなった。閑院宮を参謀総長にかつぎ上げたのは荒木だが、殿下は真崎〔甚三郎〕の参謀次長就任には、最初から反対であった。従って、殿下をロボット扱いする真崎次長の行動には、ハラにすえかねるものがあったらしい。もともと荒木が閑院宮を擁立したわけ は小畑敏四郎の入れ知恵であった。つまり、田中義一‐山梨半造‐白川義則‐宇垣一成‐南次郎と、陸軍大将の陸相が続いたあとでは、若い中将の荒木では貫禄が不足である。そこで、皇族であり陸軍の最高長老でもある殿下の権威を利用して、こうるさい軍事参議官や宮中側近ににらみをきかそうという作戦であった。むろん床の間の飾り物とするつもりだった。ところが、殿下はロボットであることには満足しない。ことごとに自分を無視する真崎に対して憎悪の目を向け始めた。かくて皇道派幹部は、自らの立てた作戦計画が裏目に出て、寝首をかかれることになったのだ。真崎が宮中方面からも毛嫌いされた原因の一つは、閑院宮との確執にあったことは確かだ。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2021・2・19(10位に極めて珍しいものが入っています)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする