◎神道は、「宗教」として自立・成長できたのか
折口信夫の「神道の新しい方向」(民俗学研究所編『民俗学の話』共同出版社、一九四九年六月)は、文字通り、「神道の新しい方向」を示そうとした文章である。折口信夫には珍しく、きわめて論旨が明白なエッセイである。
そこで折口は、「神道」は、「千年以来」、「宗教」としての成長を阻まれてきた。しかし、これからは、「宗教」という本来の姿に立ち返ることができる。これは、「神道」にとって喜ばしいことだということを述べている。
そのエッセイから、ところどころ、文章を引いてみよう。文中、傍点が施されていた箇所は、下線で代用した。
〇ところが、たゞ一ついゝことは、われわれに非常に幸福な救いのときが来た、ということです。われわれにとっては、今の状態は決して幸福な状態だとはいえませぬが、その中の万分の一の幸福を求めれば、こういうところから立ち直ってこそ、本当の宗教的な礼譲のある生活に入ることが出来る。義人のいる、よい社会生活をすることができるということです。
〇われわれは、日本の神々を、宗教の上に復活させて、千年以来の神の軛【クビキ】から解放してさし上げなければならぬのです。
〇日本精神を云々する人々の根本の方針に誤ったところが、もしあったとしたなら、この宗教を失っておった――宗教を考えることをしなかった――、宗教をば、神道の上に考えることが罪悪であり、神を汚すことだと――、そういった考えを持っておったことが、根本の誤りだったろうと思われるのです。だからどうしてもわれわれは、こゝにおいて神道が宗教として新しく復活して現れて来るのを、情熱を深めて仰ぎ望むべきだと思います。
〇われわれが本当にこの世の中の秩序を回復し、世の中をよい世の中にし、礼譲のある美しい世の中にするのには、もう一遍埋没した神々に、復活を乞わなければなりません。
もう一遍神を信ずる心を、とり返さねばなりません。そうしない限り、この日本の秩序ある美しい社会生活というものは実現せられないだろうと思います。
その日まで、われわれはこうして神道の、神学を組織するに努めているでしょう。そうして心静かに、神道宗教の上に、聖【キヨ】い啓示を待つばかりです。
ここで折口が「千年以来」と言っているのは、たぶん、神仏習合がおこなわれて以来という意味であろう。なお、神道は、明治維新で、「神仏分離」がおこなわれたあとも、「宗教」として自立、成長することができなかった。それは、近代日本国家が、「国家神道」を「非宗教」と規定する宗教政策を採用したからである。ただし、折口は、このエッセイでは、近代日本国家の「国家神道=非宗教」政策には触れていない。
いずれにしても、神道にとって、この「敗戦」は、「宗教」として自立し成長してゆく絶好の機会であったと思う。折口は、「敗戦」という未曽有の事態の中で、「神道の新しい方向」を、そのように見定めたのであろう。
さて、折口信夫が、「神道の新しい方向」というエッセイを発表してから、すでに七十三年の歳月が経った。ではこの間、「神道」は、「宗教」として自立し、成長することができたのか。ひとつの「宗教」として、日本人を癒し、導くことができるようになったのか。
この問いに対するブログ子の回答は、否定的である。この間、神道関係者の主流は、「宗教」として自立する道を選ばなかった。国家権力に接近し、それに「庇護」されることを、一貫して目指してきた。「神道政治連盟」(一九六九年結成)や「日本会議」(一九九七年結成)は、国家による「庇護」を目指して結成された運動団体であったと私は捉えている。
本年六月一三日、ホテル・ニューオータニで、「神道政治連盟国会議員懇談会」が開かれた。その冒頭、元首相の安倍晋三氏が、同会会長として挨拶をおこなった。――それから、ひと月もしない七月八日、その安倍晋三氏が狙撃されるという重大事件が起きた。
容疑者は、宗教上のウラミから犯行に及んだと供述しているという。日本の歴代首相六十四名のうち、暗殺された首相・元首相は七名に及ぶが(安倍元首相が七人目)、「宗教」がからんだケースは、今回が初めてであろう。その意味でこれは、「近代日本宗教史」の上で特筆すべき重大事件として位置づけられる。
この事件でもっとも衝撃を受けたのは、「神道政治連盟」関係者、「日本会議」関係者ではなかったか。しかしまだ、そうした関係者からのコメント、あるいは、神道関係者、神道学者からのコメントに接していないような気がする。