礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

神道は、「宗教」として自立・成長できたのか

2022-08-26 02:56:54 | コラムと名言

◎神道は、「宗教」として自立・成長できたのか

 折口信夫の「神道の新しい方向」(民俗学研究所編『民俗学の話』共同出版社、一九四九年六月)は、文字通り、「神道の新しい方向」を示そうとした文章である。折口信夫には珍しく、きわめて論旨が明白なエッセイである。
 そこで折口は、「神道」は、「千年以来」、「宗教」としての成長を阻まれてきた。しかし、これからは、「宗教」という本来の姿に立ち返ることができる。これは、「神道」にとって喜ばしいことだということを述べている。
 そのエッセイから、ところどころ、文章を引いてみよう。文中、傍点が施されていた箇所は、下線で代用した。

〇ところが、たゞ一ついゝことは、われわれに非常に幸福な救いのときが来た、ということです。われわれにとっては、今の状態は決して幸福な状態だとはいえませぬが、その中の万分の一の幸福を求めれば、こういうところから立ち直ってこそ、本当の宗教的な礼譲のある生活に入ることが出来る。義人のいる、よい社会生活をすることができるということです。

〇われわれは、日本の神々を、宗教の上に復活させて、千年以来の神の軛【クビキ】から解放してさし上げなければならぬのです。

〇日本精神を云々する人々の根本の方針に誤ったところが、もしあったとしたなら、この宗教を失っておった――宗教を考えることをしなかった――、宗教をば、神道の上に考えることが罪悪であり、神を汚すことだと――、そういった考えを持っておったことが、根本の誤りだったろうと思われるのです。だからどうしてもわれわれは、こゝにおいて神道が宗教として新しく復活して現れて来るのを、情熱を深めて仰ぎ望むべきだと思います。

〇われわれが本当にこの世の中の秩序を回復し、世の中をよい世の中にし、礼譲のある美しい世の中にするのには、もう一遍埋没した神々に、復活を乞わなければなりません。
 もう一遍神を信ずる心を、とり返さねばなりません。そうしない限り、この日本の秩序ある美しい社会生活というものは実現せられないだろうと思います。
 その日まで、われわれはこうして神道の、神学を組織するに努めているでしょう。そうして心静かに、神道宗教の上に、聖【キヨ】い啓示を待つばかりです。

 ここで折口が「千年以来」と言っているのは、たぶん、神仏習合がおこなわれて以来という意味であろう。なお、神道は、明治維新で、「神仏分離」がおこなわれたあとも、「宗教」として自立、成長することができなかった。それは、近代日本国家が、「国家神道」を「非宗教」と規定する宗教政策を採用したからである。ただし、折口は、このエッセイでは、近代日本国家の「国家神道=非宗教」政策には触れていない。
 いずれにしても、神道にとって、この「敗戦」は、「宗教」として自立し成長してゆく絶好の機会であったと思う。折口は、「敗戦」という未曽有の事態の中で、「神道の新しい方向」を、そのように見定めたのであろう。
 さて、折口信夫が、「神道の新しい方向」というエッセイを発表してから、すでに七十三年の歳月が経った。ではこの間、「神道」は、「宗教」として自立し、成長することができたのか。ひとつの「宗教」として、日本人を癒し、導くことができるようになったのか。
 この問いに対するブログ子の回答は、否定的である。この間、神道関係者の主流は、「宗教」として自立する道を選ばなかった。国家権力に接近し、それに「庇護」されることを、一貫して目指してきた。「神道政治連盟」(一九六九年結成)や「日本会議」(一九九七年結成)は、国家による「庇護」を目指して結成された運動団体であったと私は捉えている。
 本年六月一三日、ホテル・ニューオータニで、「神道政治連盟国会議員懇談会」が開かれた。その冒頭、元首相の安倍晋三氏が、同会会長として挨拶をおこなった。――それから、ひと月もしない七月八日、その安倍晋三氏が狙撃されるという重大事件が起きた。
 容疑者は、宗教上のウラミから犯行に及んだと供述しているという。日本の歴代首相六十四名のうち、暗殺された首相・元首相は七名に及ぶが(安倍元首相が七人目)、「宗教」がからんだケースは、今回が初めてであろう。その意味でこれは、「近代日本宗教史」の上で特筆すべき重大事件として位置づけられる。
 この事件でもっとも衝撃を受けたのは、「神道政治連盟」関係者、「日本会議」関係者ではなかったか。しかしまだ、そうした関係者からのコメント、あるいは、神道関係者、神道学者からのコメントに接していないような気がする。

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日本は「宗教的な情熱」という点で敵国に劣っている

2022-08-25 00:30:55 | コラムと名言

◎日本は「宗教的な情熱」という点で敵国に劣っている

 昨日の話の続きである。国文学者・歌人の折口信夫(おりくち・しのぶ)は、終戦直後に、「神道の新しい方向」というエッセイを発表した。私はそれを、民俗学研究所編『民俗学の話』(共同出版社、一九四九年六月)で読んだ。
 当ブログでは、このエッセイを、昨年一月三一日から五回にわたって紹介した。そのときにも示唆したが、このエッセイの基になったのは、講演の速記録と思われる。ただし、その講演がおこなわれた日時、場所などはわからない。
 昨年一月三一日の記事〝折口信夫「この戦争に勝ち目があるだろうか」〟と重なるが、本日は、同エッセイの最初の部分を紹介してみたい。

  神道の新しい方向     折 口 信 夫
 昭和二十年の夏のことでした。
 まさか、終戦のみじめな事実が、日々刻々に近寄っていようとは考えもつきませんでしたが、そのある日、ふっとある啓示が胸に浮んで来るような気持ちがして、愕然といたしました。それは、あめりかの青年たちがひよっとすると、あのえるされむを回復するためにあれだけの努力を費した十字軍における彼らの祖先の情熱をもって、この戦争に努力しているのではなかろうか、もしそうだったら、われわれは、この戦争に勝ち目があるだろうかという、静かな反省が起って来ました。
 けれども、静かだとはいうものゝ、われわれの情熱は、まさにその時烈しく沸っておりました。しかしわれわれは、どうしても不安で不安でなりませんでした。それは、日本の国に、果してそれだけの宗教的な情熱を持った若者がいるだろうかという考えでした。
 日本の若者たちは、道徳的に優れている生活をしておるかも知れないけれども、宗教的の情熱においては、遥かに劣った生活をしておりました。それは歯に衣を着せず、自分を庇わなければ、まさにそういえることです。
 われわれの国は、社会的の礼譲なんていうことは、何よりも欠けておりました。
 それが幾層倍かに拡張せられて現れた、この終戦以後のことで御覧になりましてもわかりますように、世の中に、礼儀が失われているとか、礼が欠けておるところから起る不規律だとかいうようなことが、われわれの身に迫って来て、われわれを苦痛にしておるのですが、それがみんな宗教的情熱を欠いておるところから出ている。宗教的な秩序ある生活をしていないから来るのだという心持ちがします。心持ちだけぢやありませぬ。事実それが原因で、こういう礼譲のない生活を続けておるわけです。これはどうしても宗教でなければ、救えませぬ。仏教徒であったわれわれの家では、ときを定めて寺へ詣る――そういう生活を繰返しておりますけれども、もうそれにはすっかり情熱がなくなっております。それからその慣例について謙譲な内容がなくなっております。【後略】
 
 折口は、敗戦の直前になって、この戦争には勝ち目がないと感じた。それは、「宗教的な情熱」という点で、敵国に劣っているという「啓示」を得たからだという。
 マリー=エマニュエル修道女の手記によれば、敗戦直後、「警備係」(警察関係者)は、修道女らを集めた上で、「みなさんが勝ち、われわれは敗けました。」と述べたという(昨日のコラム参照)。
 原爆投下のあと、警備関係者たちは怯えきっていた。そうしたなかで、修道女らは、進んで瓦礫を片づけ、負傷した日本人たちの介護にあたっていた。それを目のあたりにした警備関係者たちは、その「宗教的な情熱」に圧倒されたに違いない。だからこそ、「われわれは、みなさんに敗れた」という言葉が出たのではなかったか。【この話、さらに続く】

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みなさんが勝ち、われわれは敗けました

2022-08-24 00:02:26 | コラムと名言

◎みなさんが勝ち、われわれは敗けました

 今月になって、畏敬する大橋尚泰さんの新刊『長崎の原爆で終わった抑留――イギリス人修道女の戦争体験記』(えにし書房、二〇二二年八月)を読んだ。この本は、カトリックのマリー=エマニュエル修道女の手記「日本でとらわれの身となったヌヴェールの聖ベルナデッタ修道会の一修道女――その原爆による解放」を紹介・翻訳し、それについて周到な解説をおこなった本である。
 マリー=エマニュエル修道女はイギリス国籍だったので、先の大戦中は、敵国人として抑留された。なお、この手記はフランス語で書かれ、一九四七年に刊行されているという。
 修道女らは、一九四五年の八月の時点では、長崎の聖母の騎士修道院に付属する小神学校に抑留されていて、そこで原爆を体験した。初めて終戦の事実を知ったのは、「一七日の夜、午前一時三十分頃」(正しくは、八月一八日の午前一時三十分頃)だったという。
 手記から、そのあたりの文章を引用してみよう。文中、何か所か、……とあるが、すべて原文のままである。

 一七日の夜、午前一時三十分頃のことでしたが、例の集合の鐘が鳴りました。飛行機の音は聞こえなかったはずなのに……。暗闇のなかで警備係たちが長いこと話をし、行ったり来たりしていました。いったい、どうしたというのでしょう。侵攻でしょうか、民衆の反乱でしょうか…… あるいは、もっと辺鄙な場所に私たちを避難させたいと思っているのでしょうか。……一人の警備係が二階に上がってきて、なるべく早く下りてくるようにと告げました。五分後、私たちの何人かは多少なりともきちんとした格好をして、全員食堂に集まったのですが、そこにはすでに警察官の一団が待っていました。奇妙なことに、私たちは着席するようにすすめられました。着席し終わると、一人の地位の高い人が立ちあがり、話しはじめました。静かな口調で、自制するように、こう語りました。「みなさん、おめでとうございます。みなさんの国々のほうが強いことが示されました。みなさんが勝ち、われわれは敗けました。八月十五日、天皇陛下におかせられては、臣民の命を救おうと思し召され、戦争をやめるようにお命じになりました。ですから、われわれもそれに従います。」〈四〇ページ〉

 ここに、「警備係」とあるのは、修道女らの抑留を担当していた警察関係者のことである。さて、この日、その警備係のうち、「地位の高い」者が、修道女らに対し、「みなさんが勝ち、われわれは敗けました。」と言ったという。なぜ、そう言ったのだろうか。想像するに彼は、「皆さんの信仰心が勝ち、われわれの信仰心は敗けました。」と言おうとしたのではないか。少なくとも私は、そのように受けとめたのである。
 私が、そのように受けとめたのには理由がある。国文学者・歌人の折口信夫(おりくち・しのぶ)が、敗戦の直後に、「敵の信仰心が勝ち、われわれの信仰心は敗けた」という趣旨の発言をしていたことを思い出したからである。【この話、続く】

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清水澄博士、錦ヶ浦から身を投げる(1947・9・25)

2022-08-23 01:42:52 | コラムと名言

◎清水澄博士、錦ヶ浦から身を投げる(1947・9・25)

『国家学会雑誌』第四八巻第五号(一九三四年五月)から、清水澄の論文「帝国憲法改正の限界」本日は、その八回目(最後)。

 帝国憲法第七十四条第二項に「皇室典範ヲ以テ此ノ憲法ノ条規ヲ変更スルコトヲ得ス」とある。此の条項の一応の意義は一目瞭然であるが、世には往々之に拡張解釈を加へて、帝国憲法の改正に依つて皇室典範の条規を変更するは妨〈サマタゲ〉なしと云ふ者がある。此の見解に従へば、帝国憲法と皇室典範とは其の効力上に差等あり、前者は後者に比して優越なる効力を有することゝなる。乍併、斯くの如きは我が国法の基本に関する重大なる誤解である。我が国法上、帝国憲法と皇室典範とは其の規定の目的たる事項に於て各々固有の分野を有し、俱に国家根本の法規として最も優越なる効力を具へたるもので、其の間に効力上の優劣のあるべき筈がない。之を両者改正の手続より見るも、帝国憲法の改正には帝国議会の協賛を要するも、皇室典範の改正は帝国議会に付議すべき限でない。されば、皇室典範の改正を以て帝国憲法の条規を変更するは、帝国議会の議を経べきものを之を経ずして行ふことゝなり、孰れ〈イズレ〉にしても関要なる条規に違背するものたるを免れず、其の許すべからざる非違なることは言を俟たざる所である。乃ち、皇室典範の改正を以て帝国憲法の条規を変更することを得ざると同時に、帝国憲法の改正を以て皇室典範の条規を変更することも亦出来ぬ。たゞ、皇位継承及摂政に関する条規は、其の大綱を帝国憲法第二条及第十七条に置き、其の細則を皇室典範第一章及第五章に収めてあるので、皇室典範に於ける細則の改正に因つて、万一にも帝国憲法に於ける大網の条規を変更するが如きことあつてはならぬ。帝国憲法七十四条第二項の規定は、かゝる齟齬の必無を期すべく念の為めに設けられたる注意的条文といふを憚らぬ。帝国憲法の改正に因つて皇室典範の条規を変更してはならぬことは、成文法規に別段の明文はないが、国法上当然の条理として確認せざるべからざる所である。されば、帝国憲法第七十四条第二項の規定は、此の旨義を明にする為めに相当の改正を加ふるは格別、之とは反対の趣旨を加ふる目的を以てしては変更すべからざるものである。
 余事ながら、或る論者は、皇室典範及之に基きて発せらるゝ皇室令が、国法として人民を拘束するの効力を有するは、即ち皇室の自治権は帝国憲法第七十四条の規定を以て国法上の根拠とするものであると説く。皇室を以て自治権の主体なりと解するはよいが、それは我国特殊の体制上むしろ当然の原則であつて、必ずしも帝国憲法第七十四条の規定を根拠とするものではない。若し論者のいふが如くなれば、帝国憲法第七十四条の規定は当然の事理にして特に之を存置するの要なしといふが如き理由を以て、他日該規定を削除することあらんか、皇室の自治権は其の根拠を失ひおのづから消滅に帰するの外なきことゝなる。斯くの如き事態の不都合なるは喋々を要せね。以て右の所説の妥当ならざることを知るに足るであらう。
 一二 前項に記述したる所の如く、帝国憲法の改正を以て皇室典範の条規を変更することは出来ぬ。之を換言すれば、実質上皇室典範の条規に牴触すると認むべきものは、形式上は帝国憲法の改正なるも之を行ふことを得ないのである。乃ち、茲に帝国憲法改正の限界を定むる一の一般的なる制約を認めねばならぬ。
    *    *    *    *
 以上臚陳〈ロチン〉したる所は、帝国憲法改正の限界を知るに足るべき主要なる箇条を列掲したるに止まり、其の限界を画すべきものを洩なく綱羅したのではない。要するに、苟くも我が国家の根本体制に乖離し我が憲法成立の由来に背戻するが如きものは、憲法の改正として断じて許すべからざる所である。いかに憲法改正の手続の規定あればとて、又たとひ形式的手続に於て成規に違反する所なしとするも、憲法の改正にはおのづから一定の限界あり、実質上其の限界を踰越〈ユエツ〉したるものは、国法上確然之を無効とせねばならぬ。  (完)

 このように、憲法学者の清水澄博士は、大日本帝国憲法には「絶対的に変更すべからざるもの」がいくつもあり、その改正には「限界」があることを強調した。ところが、あに計らんや、のちに博士は、最後の枢密院議長として、大日本帝国憲法の「改正」にあたることになった。大日本帝国憲法第七十三条に定められた手続きに従いながらも、博士の言う「絶対的に変更すべからざるもの」を、ことごとく変更して成立したのが、日本国憲法であった。
 清水澄(わたる)博士は、一九四七年(昭和二二)の九月二五日に、熱海の錦ヶ浦海岸から投身自殺した。ウィキペディア「清水澄」の項には、その遺書が紹介されている。遺書は、新憲法実施の日(一九四七年五月三日)に書かれたという。

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憲法改正の手続を規定した第73条は改正できるか

2022-08-22 01:04:03 | コラムと名言

◎憲法改正の手続を規定した第73条は改正できるか

『国家学会雑誌』第四八巻第五号(一九三四年五月)から、清水澄の論文「帝国憲法改正の限界」を紹介している。本日は、その七回目。

 一〇 帝国憲法第七十三条は、本篇の冒頭に記載したる所の如く、憲法改正の手続を規定したるものである。此の条規の下に在りては、こゝに規定せられたる手続に依るに非ざれば憲法を改正するを得ざること勿論である。故に、勅命に係る議案の提出なきに拘らず一議院に於て憲法改正の発案を為し、両議院に於て各々其の総員三分の二以上出席し出席議員三分の二以上の多数を以て之を可決するも、其の議決は全然無効である。新独逸国に於て斯かる手続に依る憲法の改正を有効とするより推及して、我国に於ても亦然るが如く解する者あらば、そは断じて許すべからざる謬見である。
 然らば、本条所定の手続に依り本条の規定を改正することを得るか。現行成規の要件に叶ひさへすれば、憲法改正の手続を変更してよいか。憲法改正の手続として右の現行規定の要求する所は、発案の制限と両議院に於ける定足数の制限と其の表決数の制限とである。此の三要件の中、両議院に於ける定足数及評決数の制限は、或る程度まで之を変更するを妨げないであらう。ひとり発案を勅命に繋くる〈カクル〉の制限は、絶対的に変更すべからざるものである。蓋し、我国に於ては、憲法を以て君主を立てたのではなく、天皇が憲法を定めたまうたのである。其の憲法は純真なる欽定憲法である。その必然の帰結として、憲法改正の発議は一に天皇の大権に専属せねばならね。此の事は、帝国憲法第七十三条第一項の規定に明記せられたるのみならず、帝国憲法の上諭中に、「将来若此ノ憲法ノ或ル条章ヲ改定スルノ必要ナル時宜ヲ見ルニ至ラハ朕及朕カ継統ノ子孫ハ発議ノ権ヲ執リ之ヲ議会ニ付シ議会ハ此ノ憲法ニ定メタル要件ニ依リ之ヲ議決スルノ外朕カ子孫及及臣民ハ敢テ之カ紛更ヲ試ミルコトヲ得サルヘシ」と極めて明白に記載せられて居る。まことに是れ我が憲法の根本義であつて、いかなることあるも変改すべからざるものである。乃ち、此の限度に於ては、帝国憲法第七十三条の規定は絶対的に変更すべからざるものである。
 一一 帝国憲法第七十四条第一項に「皇室典範ノ改正ハ帝国議会ノ議ヲ経ルヲ要セス」とあつて、国家の大法たり皇室の大則たる皇室典範の改正は帝国議会の議に付すべき限に在らざることを明にしてある。伊藤博文公著「皇室典範義解」には疏注〈ソチュウ〉して、「将来已ムヲ得サルノ必要ニ由リ其ノ条章ヲ更定スルコトアルモ亦帝国議会ノ協賛ヲ経ルヲ要セサルナリ蓋皇室ノ家法ハ祖宗ニ承ケ子孫ニ伝フ既ニ君主ノ任意ニ制作スル所ニ非ス又臣民ノ敢テ干渉スル所ニ非サルナリ」と明言してある。まことに我が国家組織の基調に考へ、皇室典範の動かすべからざる本質として、必然斯くあらねばならぬ。乃ち、帝国憲法第七十四条第一項の規定は、これまた絶対的に変更すべからざるものである。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2022・8・22(9位に極めて珍しいものが入っています)

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