礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

丸山眞男とフィヒテ

2025-01-21 00:08:08 | コラムと名言
◎丸山眞男とフィヒテ

 新年になって、何冊かの本を手にしたが、最初から最後まで読み通した本は、今のところ、一冊のみ。苅部直(かるべ・ただし)さんの『丸山眞男――リベラリストの肖像』(岩波新書、2006年5月)。丸山眞男の経歴・思想・業績について、多くのことを教えられ、また考えさせられた。この本は、もっと早く読んでおくべきだったと反省した。
 この本の125ページから128ページにかけて、フィヒテ(1762~1814)の名前が出てくる。たまたま、ブログで、この哲学者を採りあげていたので、その箇所は印象に残った。後学のために、引用させていただく。[酒井一九九八]、[座3-298、5-319]などは、原文のまま。adjectoのところに、ルビの形で[ママ]とある。

 終戦の年の十二月一日(写真では十一月と読めるが誤記であろう)の日付がある講義草稿が現存するが、それを保存した封筒に「戦後初めての講義の講義案」と丸山は記している。正規の「東洋政治思想史」講義ではなく、法学部が十一月中旬から臨時に開いていた、一般市民むけの「大学普及講座」の一つとして、一日だけ提供したものではないか。この翌日の夜、丸山は三島の市民による文化講座で「明治の精神――封建的精神とのたたかひ」と題して講演し、その催しが、翌年二月からはじまる庶民大学に、発展することにもなった[酒井一九九八]。終戦後の丸山眞男の、広く社会にむけた第一声である。本郷での「戦後初めての講義」は、こう始まる。
【一行アキ】
 われわれは今日、外国によって「自由」をあてがはれ強制された。しかしあてがはれた自由、強制された自由とは実は本質的な矛盾――contradictio in adjecto[ママ]――である。自由とは日本国民が自らの事柄を自らの精神を以て決するの謂〈イイ〉に外ならぬからである。われわれはかゝる真の自由を獲得すべく、換言するならば、所与としての自由を内面的な自由にまで高めるべく、血みどろの努力を続けねばならないのである[丸山一九四五、講2-181]。
【一行アキ】
 この講義で丸山は、かつてヨハン・ゴットリープ・フィヒテ〔Johann Gottlieb Fichte〕が、ナポレオン・ボナパルト指揮下のフランス軍に占領されたベルリンで行なった講演、『ドイツ国民に告ぐ』(一八〇七~〇八年)を紹介する。そこでフィヒテは、「自由・平等・博愛の大旆〈タイハイ〉」を掲げたフランス軍によって、「プロシャの封建的旧体制」が崩壊した状況のもと、それまで権力者に迎合していた人々が、こんどは占領者の「外国人」に媚びへつらい、手のひらを返すように、かつての「当局者の戦争責任を追及する」態度を、きびしく批判した。これを丸山は、急激に「民主主義万々歳」が叫ばれ、左翼が擡頭〈タイトウ〉する戦後日本の風潮に重ねながら話したのである[座3-298、5-319]。
 たしかな信念もなく、さっさと新しい権力者にのりかえるだけで、自由や民主主義を謳歌する人々は、もし再びかつての支配者が政権につけば、あっさりと転向してしまうだろう。「徒【いたず】らなる外国崇拝」は、そのとき「徒らなる自国賛美乃至外国排斥」へと転じる。――徳川にかつて仕えながら明治政府の官僚に転じる学者たちを、痛烈に批判した福澤諭吉の先例も、丸山の念頭にあった。新憲法についても、その内容は支持するものの、時流に軽々しく乗るかのような姿勢を示したくないという気持ちから、政府による憲法普及会の講師になることや、法改正の委員への就任は断りつづけたという[座7-103~104]。
 自由の精神とナショナリズム 『ドイツ国民に告ぐ』は、「国民」の一体性と独立を熱烈に語った書物としては、ナチズムの民族理論が賞讃したものであり、日本でも大正期から文部省が国民道徳の教科書として推奨していた。しかし同時にまた、人種や伝統の共有を第一におくのではなく、人類普遍の「自由」をめざし、「超国民的なる普遍的理性」を紐帯〈チュウタイ〉とすることが、正しいナショナリズムの条件だと主張する本でもある点を、南原繁が戦前から唱えている[南原一九三四]。この理解をうけて、丸山もフィヒテに依りながら、「国民大衆の自由な自発性、自主的な精神を前提としてのみ」、国家の運命を「自らの責任に於いて担ふ能動的主体的精神」、すなわちナショナリズムが確立すると説いたのである。「制度」の変更に自足するのではなく、それを支える人間の「精神」を改革しなくてはいけないという主張を、デモクラシーに関して終生口にし続けたが、それもこの講義ですでに姿を現わしている。

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フィヒテは「自由の理想主義者」の驍将である

2025-01-20 00:04:46 | コラムと名言
◎フィヒテは「自由の理想主義者」の驍将である

 フィヒテ著・出口勇蔵訳『封鎖商業国家論』(弘文堂書房、1938年8月)から、「訳者序言」を紹介している。本日は、その後半を紹介する。

 訳者は本書の内容に就てこゝで立入つて私見を述べようとは思はない、それへの批判は、之を読者の自由な心に一任する。けれども、次の三つのことだけは、読者の自由な心を乱すことなくして、此古典に就て云ひうるであらう。――第一は経済学の構成に就てゞある。凡て実践科学がさうであるやうに、経済学も亦歴史・理論・政策の三部門から成り立つ。本書はその構成の著しく目立つた姿を示してゐる、而もアダム・スミスの『富国論』の構成がさうであるやうに、経済学に於けるそれは十八世紀的と特徴づけられるであらう。この構成の仕方は十九世紀の歴史主義に於て否定せられ、それ以後経済学に於ても方法論上重大な論題となつてゐて、今日と雖も〈イエドモ〉その決定的な解決の上に研究が行はれてゐる訳ではない。それどころか、此方法論上の問題の真意を把へ〈トラエ〉てゐない無反省な態度が、歴史と理論と政策とを機械的に分離して、且つ同様に機械的にそれらを恣意によつて結合せしめたり、経済学の理論と一応はよそよそしいと見える他の科学や神話から鎔接剤を借りて来て結びつけようとしてゐるのが今日の吾国の、また同時に世界の経済学界の現状ではないであらうか。十八世紀的な此古典の構成を再び認識することは、上の抽象的な態度を批判して此方法論の問題を反省するために、必ずしも無意義ではない筈である。第二は本書の理論的水準に就てである。本書に展開せられる経済理論は、現今の経済情勢と現在の理論的水準とから見れば、単純なまた幼稚なものに過ぎない。けれども古典は、それが刊行されたその時代のその場所に於て理解されなければならぬ。而して英国に於て発展を遂げた古典経済学の価値とは別個の価値が、此古典に於て認められなければならない。古典経済学に於て充分な意義に於ての理論の対象となり得なかつたやうな事態が、本書に於て取扱はれてゐる。而してそれは、今日世界が直面してゐる困難な問題とことのほか近いのである。吾々は読者に希望する、読者が此共感を或は此反感を、一時的な印象としてそのまゝに放置せらるゝことなく、各自自由な立場から徹底的にそれらの根拠を求められ、而して連関づけられて、願はくば本書を各位の立場のための試金石の一つとしていたゞかんことを。第三はこのことに連関することであるが、現今フィヒテをショーヴィニスト〔chauvinist〕として把へようとする機運が強まりつゝあると云ふことに就てゞある。フィヒテは独逸観念論界の「自由の理想主義者」の驍将〈ギョウショウ〉である。その彼を偏狭固陋なショーヴィニストと解し、安価な愛国主義の出来合を彼から購はう〈アガナオウ〉とすること程、無稽な試〈ココロミ〉はないであらう。而して若し本書に於てショーヴィニズム〔chauvinism〕と相通ずるものがあるとすれば、それこそは読者の鋭利な批判の俎上にのせらるべきものであるであらう。
 最後に此翻訳に就て一言する。昨年〔1937〕の春、恒に指導を戴いてゐる石川興二先生から御勧めを得て、此翻訳にとりかゝつたのは五月下旬であつた。幸ひにもフィヒテに就ての吾国の権威である京大文学部の木村素衛〈モトモリ〉助教授の知遇を得た訳者は、翻訳について色々と相談に乗つていたゞくことが出来た。一応訳稿が出来てから、三高の相原信作氏は貴重な時間を割いて原稿を一々原文と対照して見て下さつて、尠くない誤訳や不適当な表現や拙い訳文などに注意して下さつた。訳者はその御注意によつて、訳文全体に亘つて推敲を重ねて、とにかくもこの四月にはこの体裁のものになつたのである。(すばやい翻訳を次々に発表すると云ふことが、経済学の最近の風潮の一つである。けれども此風潮に棹さすには拙ない私でるらしい。)フィヒテの雄勁な文章をば移し得たなどゝは元元思ひもよらないけれども、若しいくらか読み易くなつてゐるならば、それは偏に〈ヒトエニ〉上記の木村・相原両先生のお蔭である。記して厚く御礼を申述べたい。又終始たどたどしい訳者を激動して下さつた石川興二先生をはじめ、先輩友人各位に深い謝意を表したいと思ふ。皆様の御指摘や御注意にも拘らず、この訳文には誤訳やまだまだ不明瞭な点があるであらう。どんな点に就てゞあれ、御叱正を与へて下されば幸甚である。尚又訳者の筆になる「解説」に就ても、誤謬その他を御訂正下さらんことを切に希望するものである。

 昭和十三年七月六日       京都にて 訳 者  〈3~6ページ〉

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出口勇蔵訳『封鎖商業国家論』(1938)の「訳者序言」

2025-01-19 01:41:57 | コラムと名言
◎出口勇蔵訳『封鎖商業国家論』(1938)の「訳者序言」

 ここで、フィヒテ著・出口勇蔵訳の『封鎖商業国家論』(弘文堂書房、1938年8月)を読んでみたい。今日、この本は、国立国会図書館のデジタルコレクションで、容易に閲覧できる。本当は、訳者・出口勇蔵による「解説」を紹介したいところだが、これは60ページ分もあるので(9~68ページ)、紹介を断念し、その代わりとして、「訳者序言」を紹介したいと思う。
 これもかなり長いので、前後二回に分けて紹介する。

     訳 者 序 言

 本書はJohann Gottlieb Fichte; Der geschlossene Handelsstaat(1800)の全訳である。テキストとして、J・H・フィヒテ編纂の全集版を用ひ、かたはらメディクス編纂の哲学文庫版とヴェンティヒ編纂の社会科学名匠集版とを参照した。後の二つには、而して最後のものには特に、誤植が多いやうである。訳文の便宜上適当と思はれるところには、ダッシュを補つたが、原文のダッシュと区別して示すことをしなかつた。訳文の上欄に示されてあるローマ数字トアラビア数字とは、全集版の巻数とその頁数である。
 フィヒテは吾国では『知識学』や『独逸国民に告ぐ』やによつて、哲学界ならびに相当広範囲の読者層の間では知られてゐる。けれども彼の経済思想に至つては、専門雑誌に於て若干の論議が加へられたに過ぎなかつたやうである。この独逸理想主義の勇士から実践的な政策論を聴くべく、本書を、吾国の読者に近づけることは、二重の意味に於て重要であると思ふ。一つには、吾国の哲学界が従来の認識論的な方向を去つて、歴史的社会的現実の基礎理論の探求に進みつゝある情勢の下にあつて、本書は実践理論を通してのフィヒテの再評価再批判に役立つであらう。二つには、経済学の専攻者に対しては、政治経済学の基底に立てらるべき経済哲学への自覚が別して要求せられつゝある現代に於て、本書は此要求に答へて経済哲学の一つの古典的な型を提供するであらう。
 フィヒテは古い封建制の土壌から頭をもたげたドイツに於ける資本主義の芽生〈メバエ〉が、フランスに於ける血腥い〈チナマグサイ〉ブルヂョア革命の雷鳴のとゞろく大暴風雨の余波を受けて、特異な形態に変容したところのドイツ的現実に生き且つ思索した。彼は十八世紀と十九世紀との両つ〈フタツ〉の面貌を持つ「ヤーヌスの頭の所有者」(ウィンデルバント)である。フィヒテが生きたドイツの現実の複雑な構成とその思想的表現の多岐性とそれらのめまぐるしい変遷とは、彼の思想を一つの天才的な思想の芽生の平静な順当な発展であると見ることを許さない。故に本書が正当に読まれるためには、フィヒテとの環境との理解が予め〈アラカジメ〉必要である。そこで訳者は此必要を満たすために、貧しいながらも「解説」を草し、之を訳文の前に添へて、本書の成立までのフィヒテの社会思想の概観と、本書の公刊前後の事情とを、社会的現実との相即〈ソウソク〉に於て説明した。又本書が従来解されて来、又現在解されつゝある種々の立場をも併せて読者に示しておいた。本書の健全な理解と、読者の自由な批判とに対して、此解説が読者を妨げることなくして役立つならば、と訳者は思ふ。〈1~3ページ〉【以下、次回】

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自分の中の洋画ベスト10

2025-01-18 02:14:00 | コラムと名言
◎自分の中の洋画ベスト10

 十年ほど前、文藝春秋編『洋画ベスト150』(文春文庫ビジュアル版、1988)という本を入手した。この本には、映画愛好家諸氏が選んだ、みずからの「洋画ベスト10」というものが、数多く紹介されていた。
 その「洋画ベスト10」を見ていって意外だったのは、作家の井上ひさし(1934~2010)が選んだ「洋画ベスト10」の筆頭に、イタリア映画『ミラノの奇蹟』(1951)が挙げられていたことである。この映画は、子どものころ、テレビで観て、強烈な印象が残った。それから半世紀以上、2023年になって、DVDで、この映画を鑑賞したが、記憶していた通りの、あるいは、それ以上の傑作であった。井上ひさしと同じく、私もまた、みずからの「洋画ベスト10」の筆頭に、この『ミラノの奇蹟』を挙げたいと思った。
 今年に入って、映画『白鯨』(1956)を鑑賞した。そのことは、このブログに書いた。「洋画ベスト10」に、この映画を入れている愛好家がいるかどうか調べるために、数日前、久しぶりに、『洋画ベスト150』を開いてみた。すると、藤子不二雄A(1934~2022)が、何と第2位に『白鯨』を挙げていた。藤子不二雄Aに倣ってというわけではないが、私も、この『白鯨』を、第2位に挙げたくなった。
 自分の中では、半世紀以上にわたって、『市民ケーン』(1941)が、洋画ベスト1だった。しかし、以上のような次第で、『市民ケーン』は、第3位に後退することになった。ちなみに、『市民ケーン』を第3位に位置づけている方に、荻昌弘(1925~1988)、三國一朗(1921~2000)がいる。
 第4位を、『激突!』(1971)としてみた。深い理由はない。吉行淳之介(1924~1994)が、これを第4位に挙げていたのに刺激されたのである。ちなみに、吉行和子さんは、この作品を、第2位に挙げていらした。
 こんな感じで、自分としての「洋画ベスト10」を選んでいった。この作業は、なかなか楽しいものった。その結果、得られた「洋画ベスト10」は、次の通り。〔  〕内は、ベスト10の順位が一致している方のお名前である。

1 ミラノの奇蹟(1951)       〔井上ひさし〕
2 白鯨(1956)           〔藤子不二雄A〕
3 市民ケーン(1941)        〔荻昌弘ほか〕 
4 激突!(1971)          〔吉行淳之介〕
5 モダン・タイムス(1936)     〔小菅春生ほか〕
6 大いなる幻影(1937)       〔浅利慶太ほか〕
7 博士の異常な愛情(1964)     〔畑中 純〕
8 アスファルト・ジャングル(1950) 〔神吉拓郎〕
9 或る夜の出来事(1934)      〔双葉十三郎〕
10 キング・コング(1933)     〔つげ義春さん〕

 もし、「ベスト15」を選ぶのであれば、これらに、『頭上の敵機』(1949)、『終身犯』(1962)、『暗黒街の弾痕』(1937)、『Z』(1969)、『オズの魔法使』(1939)を加えたいと思っている。


今日の名言 2025・1・18

◎この十本はわたしの進むべき方向を啓示してくれました

 作家・井上ひさしの言葉。『洋画ベスト150』の509ページにある。井上ひさしは、アンケート回答用紙の「★マイベスト10のご感想を一言……」の欄に、次のように記入している。「十本だけ選べというのは酷だ。キャプラもチャップリンもフォードもヒッチコックもマルクス兄弟も落っこちてしまった。とにかくこの十本はわたしの進むべき方向を啓示してくれました。」

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ナチスの社会観はフィヒテの思想と一脈通じる

2025-01-17 03:21:31 | コラムと名言
◎ナチスの社会観はフィヒテの思想と一脈通じる

『社会経済史学』第9巻第2号(1939年5月)から、フィヒテ著・出口勇蔵訳『封鎖商業国家論』(弘文堂書房、1938年8月)についての梶山力の書評を紹介している。本日は、その四回目(最後)。

 尚ほ注意すべきことは、フィヒテの改革的思想のうちに国家の役割がきはめて重要な地位を占めてゐるといふことである。国家の任務がたゞ各人に人格的権利と財産とを所有させておいてその保護をなすのみでよいといふ観念は、フィヒテを満足させることが出来ない。むしろ彼によれば国家は「人々に初めて彼のものを与へ、初めて彼に財産を得しめ、しかるのちに彼のこの状態の保護をなす」ものでなくてはならない(二四頁)。国家こそは国民のうちに正義を実現するところの唯一の理性の代表者である。吾々はこゝでもまた、ドイツの社会思想に共通するあの国の一つの発現に衝きあたるのである。それは、一つには当時のブロシアの国家形態を反映するものであると同時に、また思想史的にはルッター以来のあのドイツ国民の精神的性格――個人の自由の精神は権威への服従と、奇妙にも結ばれてゐるのである――をひきつぐものであることを忘れてはならない。それはやがてヘーゲルの国家哲学においてその頂点に達して、ブロシア軍国主義の形成に、著るしく貢献したところのあの思想にほかならない。フィヒテを学ぶにつけても吾々は、この国家観を採用するか否かの、選択のまへに立たせられる。今日のナチス・ドイツでさへも古い形態の権力的国家観をうけいれてゐるのでは決してない。ナチスにとつては民族こそは最高の存在であつて「国家」は民族発展に役立つところの一手段にすぎないからである。と同時にまた、ナチスの社会観がフィヒテの思想と一脈共通するところのあることをも、吾々は否定しえないであらう。ナチスの思想家達がフィヒテをその精神上の祖先として大いに尊敬しはじめたことに、吾々はさまざまの意味を見ることが出来る。――個人か民族か国家か。この三人の女神は、牧人パリス〔Paris〕のまへに互ひに主権を競つてゐるのである。もし吾々が人間の進歩を下からの力ではなく、「上からの革命」によつてのみ成就されうると考へるならば、吾々はフィヒテとともに国家を択ぶことに躊躇しないであらう。(了)
   (菊判、二九六頁、索引一四頁、二円、弘文堂刊) 〈118~119ページ〉

 以上が、フィヒテ著・出口勇蔵訳『封鎖商業国家論』についての梶山力の書評であった。出口勇蔵と梶山力とは、同年(1909年)の生れで、同じ年(1938年)に、翻訳書を世に問うている。
 梶山力が、マックス・ウェーバー著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の翻訳を有斐閣から上梓したのが1938年(昭和13)5月、出口勇蔵が、フィヒテ著『封鎖商業国家論』の翻訳を弘文堂書房から上梓したのが、同年の8月であった。
 なお、梶山力は、この書評の発表から二年後の1941(昭和16)4月、肺結核のため32歳の若さで亡くなっている。

今日の名言 2025・1・17

◎個人の自由の精神は、権威への服従と奇妙にも結ばれている

 梶山力の意味深長な言葉。上記の引用参照。梶山力によれば、ドイツ国民の精神的性格として、個人の自由の精神が権威への服従に結びつくことが指摘できるという。こういった精神的性格は、わたしたち日本人についても、指摘できるような気がする。なお、あくまでも私見だが、梶山力の指摘する「精神的性格」(個人の自由の精神が権威への服従に結びつく精神的性格)は、「自発的隷従」と言い換えられるように思う。

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