親の背中

2010-11-23 16:34:58 | 学習塾・勉強の仕方

 

 

最近、子供の躾の責任は何をおいてもやはり親、或いは保護者にあるのだなあということをしみじみと感じた出来事があります。

 

今中学生のある兄弟は、とにかく今目の前にある楽しみに没頭することだけで毎日を過ごし、自分にとってつらいこと、面倒なことは決してやらない(先送りするのではなく、「やらない」のです)という暮らしを生まれてからずっと送ってきた結果、殆ど全ての科目で最低の評価しか付けられていません。

 

上の子だけ、或いは下の子だけがそうであるなら、それは個性と言うものが絡んでいるのかとも思いますが、揃ってこうだというあたりに、最早構造的な理由や原因があるのかと思い、たまたまその保護者と或る集まりでそういう話がありましたので、その保護者自身の教育観といったものをさりげなく聞いてみたら、驚くことに、保護者自身が全く同じ価値観(と呼んでよいか分かりませんが)で毎日を享楽主義的に生きているのですね。ですから、そこには教育観と呼べるものを少なくとも私は感じられませんでした。

 

要するに、日がなテレビを観て笑い(時間の効率的な使い方などの観念が無い)、食べたいときに食べ(規則的な食習慣というものがなく、しかも、そこには栄養バランスなどへの配慮は何もなし)休みに日もめいめいがパチンコやカラオケ三昧、仕事も、始めては辞め、始めては辞めの繰り返し。

 

親が髪を金色に染めて首からはキラキラするネックレスをこれ見よがしに垂らして、道を歩けば信号無視などは当たり前(そう公言していました)。

 

子供は生まれてからずっとこういう親の姿を見続けて育ち、そしてこれに何の疑問も抱かないのですから、これでマトモになれという方が無理というものですよね。

 

上に書いた「評価」ということで言えば、やっても出来ない結果としての評価ではなく、何もそれらしいことをやらないということへの評価だと思いますが、しかし本人たちは、それすら考えようともしないので、当然ながら反省も、そこから生まれる建設的なものもありません。

 

 

学習塾という場所においては、少なくとも全ての子やその保護者が目的や目標を持って行動(勉強)していますが、世の中には、そうしたものとは無縁の、全く異なった世界に生きている人がいるのだなあと思うと同時に、子供に勉強を教える、或いは勉強をさせるというような話以前に、保護者はその行動自体が子供への生々しい教育の体現であるのだということを感じた次第です。

 

 


 

 

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