アフガン・イラク・北朝鮮と日本

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絶望を煽る田母神、希望を語る美輪さん

2009年08月12日 21時08分20秒 | 戦争・改憲よりも平和・人権
  

 以下は、「薔薇、または陽だまりの猫」から「村野瀬玲奈の秘書課広報室」経由で私も知る事となった、8月7日付毎日新聞夕刊に掲載された、芸能人・美輪明宏さんが10歳の時の被爆体験記です。感じ入ったので、こちらでもその全文を紹介しておきます。
 特に感じ入ったのが、その第三節(2つ目の■より後)の部分です。単に「辛かった、苦しかった」だけで終わるのでなく、自分たちの犠牲が礎となって、世界が確実に社会進歩(平和・人権・民主主義実現)の方向に向かっている事も、しっかり見据えています。既に地球上から植民地が殆ど一掃され、今や米国大統領さえもが核廃絶を口にせざるを得なくなったと言うのに、未だに「弱肉強食こそが世の倣い、核も戦争も差別もない公正な世界なんて在り得ないし、絶対にそんな方向には行かせない」と、歴史の歩みに逆らうしか能の無い復古反動の田母神とは、もう大違いです。
 http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/b24b871d96a0583b0d9ab477f2a71bc0
 http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-1350.html

(転載開始)
<特集ワイド>10歳で被爆 美輪明宏さんの目に映る日本/毎日新聞

◇原爆は愚かさの結果/政権交代は新しい息吹

 10歳のときに長崎で被爆した美輪明宏さん。軍国主義が支配したころの日本は「愚かで野蛮だった」と振り返った。しかし選挙を前にしたいま、「新しい息吹を感じる。政権交代もその流れ。古い汚いものは自滅していく」と力を込める。【國枝すみれ】

 美輪さんの家は長崎市南部の本(もと)石灰(しっくい)町(まち)にあった。原爆が投下された9日、縁側の机で宿題の絵を描いていた。「絵の出来を見ようと椅子から立ちあがり後ろに下がったとき、マグネシウム1000万個をたいたような光に包まれた。あれっ、と思った瞬間、大音響、地響き。瓦が落ち、窓ガラスが飛び散った」

 お手伝いさんと兄で、隣の船大工町にある防空壕(ごう)を目指した。家の外は地獄絵図だった。髪がずるりと抜けた人、服なのか皮膚なのか判別がつかないほど焼けただれた人。死んだ子供をおぶったり抱いたまま逃げる女たち、中腰のまま、坂の途中でぼーっと焼ける町を見ている下宿屋のお姉さん。リヤカーの上には枕が一つ。理性的な行動をしている人は誰もいなかった。

 金融会社を経営していた父は爆心地に近い浦上に集金に行く予定をサボって釣りに行ったため、助かった。実母は美輪さんが2歳のときに病死、継母もすでに病死していた。山を越え、弟たちが疎開していた田手原村(たでわらむら)に逃げた一家は、玉音放送を聞き、すぐに長崎に戻った。

 昔カフェだった自宅の玄関にはショーウインドーが突き出ていた。ガラスは吹っ飛び、板とゴザをひくとちょうど縁側のようになった。畳が懐かしいのか、溶岩が流れたような顔の人が「休ませてください」「水をください」と寄ってくる。焼けただれた唇が合わず、茶わんから飲むことができない人には、土瓶で口に水を注いであげた。

 「怖いというより気の毒でした。いまでも思い出します。いい年した大人が10歳の私を拝むんですよ、こうやって……」。美輪さんが胸の前で手を合わせた。「ずいぶん多くの人に末期の水を飲ませました」。そんな状態が終戦後も2カ月近く続いた。

 美輪さんは浦上天主堂の近くにあった母方の祖母の家に向かったが、がれきの山があるだけだった。後に原爆で伯母が亡くなったと知る。

 「とにかく臭い。死体のような塊がいたる所に転がっている。親子の遺体は必ず子供がおなかの下に。抱きかかえるように覆いかぶさって、自分は焼け焦げても子供は助けたいと思ったのでしょう」

 既に恐怖感を超えていた。「もうおしまいだ。日本は二度と立ち直れない。この国はなくなるんだ」。そんな気持ちだけだった。

   ■

 県庁近くの小さな病院の前を通ると、髪の毛が抜け落ち、体中にやけどを負った人たちが炎天下に列を作っていた。病院は半分壊れ、薬も包帯もない。治してもらえる可能性は万に一つもないのに座り込んでいる。夏だから傷口にウジがわく。いくら取ってもぞろぞろと出てくる。

 「あの光景を米軍に見せてやりたい」

 原爆を開発した科学者、投下にゴーサインを出した政治家、死の商人たちは許せない。名前を挙げた科学者の一人は、物理学者エドワード・テラー(03年没)。核兵器開発のマンハッタン計画に参加し、一部の科学者が反核に転じた後も水爆開発の中心となった人物だ。「ビキニ環礁で水爆実験を成功させた後の記者会見で、放射能の後遺症は絶対にありません、と笑ったやつ」

 美輪さんも放射能の後遺症に苦しんだ。16歳で東京に出てきてから悪性貧血になり、髪が「だー」と抜けた。

 「死んでたまるか、と思ってました。怖いなんて言っている暇はなかった」

 上京後まもなく実家が破産。東京も長崎と同じだった。食物も家も仕事もなかった。銀座6丁目のキャバレーが3人のボーイを募集し、美輪さんも赴くと応募者が新橋まで列を作っていた。

 今秋、美輪さんは恒例の音楽会<愛>のプログラムに、原爆孤児を思って作った「ふるさとの空の下で」を入れた。「やわになった日本人に活を入れるためです。不況というけれど、戦争中や終戦直後に比べれば極楽です」

   ■

 取材中、美輪さんは繰り返した。「私の原爆体験より、いかに一般の日本人が知力に欠けた生活を強いられたか、をお書きなさい」

 米軍は武器も弾も食料もふんだんにあるのに、日本は竹やり。米軍の上陸に備えて、なぎなたの先生は女の子たちに「金玉の握りつぶし方」を教えていた。

 「日本は石油も鉄もニッケルもない。もともと戦争できない国なのに、根性、根性、根性――。根性なんて何の役にも立ちません。軍部は知力がなく、非科学的。日本人は野蛮人だった。その愚かさの結果が原爆ですよ」

 原爆が落ちた日、美輪さんの家の屋根瓦が落ちたのは「天井板をはずせ」という町内会の通達に従ったからだ。「スパイが隠れているかもしれない、不発弾がひっかかるかもしれないからって。そんなことを真剣に言っていたんですね、当時の日本人は」

 大声で話すと(米軍の)飛行機に盗聴される、と怒られた。歌や踊り、音楽、映画、芝居は「奢侈(しゃし)に流れる」と禁止され、美しいものは軟弱という理由で排除された。着物は紺のもんぺ色、国防色のカーキ色、どぶネズミ色しか許されず、美しい色を着ていたら警察にひっぱられた。インテリは国賊。大学を出た人が徴兵されると、上官に殴られた。

 無能な上層部が国を運営して国民が疲弊した知力なき時代。美輪さんは戦後64年たっても憲法9条を変えようとする勢力にその名残をみる。「そんな時代の残滓(ざんし)である自民党が壊滅状態になるということは日本が進化している証しの一つだと思う」。美輪さん、すっきり言い切った。政治評論家だってここまで言わない。

 世界はだんだんと良くなっている、と美輪さん。20世紀ほど王制や独裁政権が崩壊して民主化が進んだ時代はない。21世紀にはヘッジファンドに代表される詐欺的資本主義のメッキもはがれた。

 「日本でもホリエモンはついえた。亀田兄弟のように行儀作法を知らず見識もない人たちはボロボロになった」

 日本アニメや日本料理が世界を席巻し、環境に優しいエコカーが人気だ。

 「新しい息吹を感じる。政権交代もその流れ。古い汚いもの、余計なものは自滅していくんです。闇成り金のいいかげんな時代は終わりなの。これからはまともな人が評価を受ける。そんな黎明(れいめい)期です」
(転載終了)
コメント
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