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朝鮮通信使と北朝鮮問題

2010年02月02日 23時29分48秒 | 北朝鮮・中国人権問題
朝鮮通信使の旅日記―ソウルから江戸 「誠信の道」を訪ねて (PHP新書)
辛 基秀
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 1月31日は”荒らし”の相手で休日の午前中が潰れてしまいました。おまけに当日は終日雨模様だったので、午後からも自宅でゆっくりしようと、たまたま見たテレビ番組がNHKのETV特集「日本と朝鮮半島2000年」シリーズの「朝鮮通信使」に関するもので、これが私にとっては「目からウロコ」ともいうべき良い番組でした。荒らされても只では起きない(わら)。
 「朝鮮通信使」については、私も言葉だけは知っていたものの、詳しい歴史的背景については殆ど何も知りませんでした。詳しくは下記の参考資料を見てもらうとして、まずは大まかな説明から。

 豊臣秀吉が天下統一の余勢を駆って引き起こした朝鮮出兵(1592~1598年)。日本では文禄・慶長の役、朝鮮では壬申倭乱(イムジンウェラン)と呼ばれるこの戦いで、抗日将軍・李舜臣の活躍や、伊万里焼が朝鮮人によってもたらされた事などは断片的に知っていたものの、何万人もの朝鮮人が被虜人(ひりょにん:捕虜)として日本に連行されていた事については、全く知りませんでした。後の朝鮮人強制連行、日本版・拉致事件ともいうべき事が、当時から引き起こされていたのですね。
 その後、豊臣家を関ヶ原の戦い(1600年)で倒して江戸幕府を開いた徳川家康が、日朝貿易再開に向けて動き出し、対馬の宗家を仲立ちにして、当時の李氏朝鮮に復交を申し入れます。しかし朝鮮側の警戒はそう簡単には解けません。その中で、山がちの離島で日朝貿易に活路を見出すしかない対馬の宗家としては、是非とも日朝復交を実現したい。そこで、李氏朝鮮が半信半疑で対馬に送ってきた民間人僧侶の交渉人を、わざわざ京都にまで呼び寄せ、家康からの国書(親書)を偽装してまでして、何とか復交に漕ぎ着けた。

 そうして始まった朝鮮使節団(朝鮮通信使)の来日ですが、4回目までは朝鮮通信使ではなく回答兼刷還使(かいとうけんさっかんし)という名称で、歴代将軍の国書伝達と被虜人の本国送還だけに役割が限られていました。しかしそれでも、実際に多くの被虜人の帰国を実現した点は流石だと思います。今の拉致問題とはえらい違いだ。
 しかし4回目の段階で、宗家からの内部告発によって、その国書偽装がとうとう暴かれてしまいます(1633年の柳川一件)。そうして、もはや朝鮮使節団の来日もこれまでかと思われたのが、何と宗家は一切お咎めなしで、逆に内部告発者の宗家家老が流罪を言い渡されてしまいます。幕府としては、あくまでも日朝貿易による実利の方を選んだのです。他方で、朝鮮側も国書偽装には薄々気付いていたものの、こちらも満州女真族(後に清朝を興す)への対抗上、日本との友好関係維持の為に、偽装には目を瞑ります。何か、豊臣秀吉がブッシュ(麻生太郎)に、徳川家康がオバマ(鳩山由紀夫)に、国書が日朝ピョンヤン宣言に、それぞれ似てなくはない?時系列が多少前後するのはご愛嬌として。

 こうして、偽装でない公式の国書を携えた、正式な朝鮮通信使に基づく日朝交流が、江戸時代末期まで、その後ものべ8回に渡り行われます。その中で、通信使の接待を仰せつかった対馬藩儒学者の雨森芳洲と、朝鮮通信使製述官(書記)の申維翰(シン・ユハン)との交流が本格的に始まります。雨森芳洲はハングルの辞典まで作って朝鮮語を覚え、申維翰も日本に対する警戒を次第に解いていきます。芳洲が唱えた「誠信」「交隣」外交というのは、今風に言えば友愛外交・「東アジア共同体」に相当するのでしょうが、その一方で申維翰にも言うべき事はきちんと言っています。決して今のネットウヨクがいう「媚中・親北」なぞではなかった。例えば、申が日本を「倭」国呼ばわりするのを、雨森は「日本」と呼ぶ様にきちんと本人の面前で指摘しています。
 その甲斐もあって、朝鮮通信使との接見を通して、朝鮮や朝鮮人に対する日本人の見方が徐々に変わってきます。朝鮮通信使の宿泊施設などの遺構が、通信使の通り道となった瀬戸内海沿岸や近畿地方に散在していますが、それによると、今で言う韓流ブームのような事が起こっていたようです。それも一方通行の交流ではなく、日本が朝鮮から高麗人参を取り入れ、韓国も日本からさつま芋の栽培を学んでいったという、双方向での交流が広がっていました。

 以上がそのETV特集番組のあらましですが、何か、今よりも安土桃山・江戸時代の方が、遥かに開放的・進歩的だったような気がしません?日本人民衆の意識も朝鮮人民衆の意識も。確かに当時は、儒教道徳や封建身分制に絡め取られた「切捨て御免」の社会でしたが、その一方で、八っつぁん熊つぁんらによる江戸下町長屋の自由気ままな暮らしも厳然としてありました。「靖国神社」「軍人勅諭」「教育勅語」も「自己責任」「成果主義」もなく、百姓・町人も分け隔てなく朝鮮通信使と交流できた当時の方が、ある意味では明治以降や現代よりも遥かに自由だったのでは。
 そして、日朝間の過去の清算や拉致問題解決のヒントも、この中に埋もれているような気がするのですが。北朝鮮の人権状況改善や民主化を掲げる場合も、北朝鮮の民衆を敵に回すのではなく、寧ろ継続的に対話を働きかけていかなければならない。勿論、北朝鮮政府の言うがままでなく、働きかける側が目的意識をもって。それをせず、単に武力で相手の政権をぶっ潰せばそれで良しとするのは、所詮は帝国主義の考え方でしかない。その行き着く先が何であるかは、ベトナム・アフガン・イラクでの米国の失敗を見れば直ぐに分かる。そもそも、「嫌韓流」的な心性の持ち主が、幾ら北朝鮮民衆に民主化の説教をした所で、誰が聞く耳を持ちますか。彼の人たちにとっては、朝鮮通信使も北朝鮮・拉致問題も、単に朝鮮人を貶す為のネタでしかないのですから。

(参考資料)

・ETV特集「シリーズ日本と朝鮮半島2000年 第9回 朝鮮通信使」(NHK)
 http://www.nhk.or.jp/japan/program/prg_091227_3.html
・やさしい朝鮮通信使の話(八幡ガイド)
 http://www.yamapla.jp/kankou/tsusinsi/
・雨森芳洲と朝鮮通信使(高月観音の里歴史民俗資料館)
 http://www.biwa.ne.jp/~kannon-m/hosyu-3.htm
・雨森芳洲庵
 http://inoues.net/club/amenomori.html
・朝鮮通信使と村上水軍(上関町商工会)
 http://www.y-shoko.com/suigun1/tushin/tuushinsi.htm
・朝鮮通信使in鞆の浦
 http://swan.srv7.biz/tomo10.htm
・歴史・対馬から観た日韓関係
 http://www1.ocn.ne.jp/~kurose/c-history.htm
・朝鮮通信使のなぞ(フナハシ学習塾)
 http://homepage3.nifty.com/funahashi/sonota/hoka81.html 
コメント (10)
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