アフガン・イラク・北朝鮮と日本

黙って野垂れ死ぬな やられたらやり返せ 万国のプレカリアート団結せよ!

当ブログへようこそ

 アフガン・イラク戦争も金正日もNO!!搾取・抑圧のない世界を目指して、万国のプレカリアート団結せよ!

 これが、当ブログの主張です。
 詳しくは→こちらを参照の事。
 「プレカリアート」という言葉の意味は→こちらを参照。
 コメント・TB(トラックバック)については→こちらを参照。
 読んだ記事の中で気に入ったものがあれば→こちらをクリック。

アバター:真の連帯とは

2010年02月24日 23時35分05秒 | 映画・文化批評
映画「アバター」予告編


 この前、話題の映画「アバター」を観てきました。
 この「アバター」ですが、実は当初はそんなにも評価していませんでした。映画ポスターや予告編映像からの印象で、「何だかんだ言っても所詮は戦争映画だろう」と思い込んでいました。保守派からの「反戦偏向映画」との批判についても、「自民党・右翼による朝日新聞・日教組・民主党叩き」と同じで、とっくに体制の補完物と化したものをことさら叩く事で、更に右傾化を煽る魂胆だろうと思っていました。あくまでも、そういう観点から保守派の動きを警戒していました。その一方で、「アバター」なんて観る位なら、同じ日に大阪で上映された「アメリカ帰還兵・イラクに誓う」を観る方が、よっぽどマシだと思っていました。
 しかし、ブログ読者からのアドバイスもあったので、「アバター」を観る事にしたのです。そして実際、この映画は、私が当初思っていたよりも遥かに奥の深いものでした。

 映画の舞台は未知の衛星パンドラ。そこに眠るアンオブタニウムという鉱物を巡り、パンドラの先住民宇宙人ナヴィと地球人との間で対立が生じていた。パンドラでは、そのままの姿では地球人は生きていけないので、遺伝子操作で造られたアバターという化身を使い、人間兵士の代わりにナヴィ社会でのスパイ活動に従事させていた。
 アバターは、「身体はナヴィで中身は地球人」の謂わば工作員だが、あくまで操作するのは元の身体の地球人兵士であり、独自の人格は持たない。その目的は、あくまでもナヴィの「手なずけ」と情報収集、交渉決裂後の破壊工作に限られていた。
 他方でナヴィは、姿形こそ人間とよく似ているものの、身長3メートルの巨体に尻尾や後頭部の巻き毛を持ち、独自の言語・文化を営み、動物との交信術や生体エネルギー(エイワ)の獲得術に秀でていた。(詳細はウィキペディアの解説を参照の事)

 そんな舞台設定の中で、私が最も魅かれたのが、地球人傭兵たちのナヴィとの関わり方です。この映画の主人公である傭兵のジェイクは、海兵隊時代に負傷した足の治療費稼ぎの為に、アバターとしてパンドラに潜入します。しかし、次第にナヴィの価値観や文化の高さに触れる中で、やがてパンドラ侵略の戦争目的自体に疑問を抱くようになり、最後にはナヴィに加勢して地球の侵略と戦うようになります。
 その一方で、地球人傭兵の現場司令官であるクオリッチ大佐にとっては、アバターも所詮はナヴィを手なずける為の手段にしか過ぎませんでした。最初は、ナヴィをアンオブタニウム鉱山地帯から追っ払う為の立ち退き交渉の道具としてアバターを使い、交渉が効かないとなるや、一挙にナヴィ殲滅に向かおうとしました。

 その中で取り分け私の気を惹いたのが、オーガスティン博士の変化です。この女性植物学者は、アバターの生みの親ともいうべき人です。最初は、あくまでもパンドラの生態系に対する学者としての知的好奇心から、クオリッチ大佐のナヴィ殲滅作戦に異議を唱えていました。しかし、ジェイクと同様に、次第にナヴィに理解を示すようになり、最後には同僚を引き連れて、ジェイクと共に、クオリッチ大佐率いる地球侵略軍と戦うようになるのですが、残念ながらクオリッチに殺されてしまいます。
 彼女は、当初は「自分の研究対象を守る」という、あくまでも功利的な立場から、侵略を阻止しようとしました。つまり、アバターをナヴィ宣撫工作の道具としか看做していなかったクオリッチ大佐の立場とも、この時点ではまだ「どっこいどっこい」だった訳です。しかし彼女は、それに止まらず、最後にはジェイクと同じ侵略阻止の立場に立つに至りました。

 ここにこそ、この映画の主題が込められているように思うのです。この映画が問うていたのは、「真の連帯とは何か」というテーマだったのではないでしょうか。「資源獲得」や「研究対象の保護」といった功利目的ではなく、「相手の人格・文化を認め合う事でしか、真の平等も共存も在り得ない」という事を、言いたかったのではないでしょうか。
 日本とアジア諸国との友好についても、同じ事が言えるのではないでしょうか。単に「貿易相手国だから」といった発想だけでは、真の平等・共存にはなりません。また「日本の国益や国威発揚に繋がる」といった自国本位の発想でもダメです。その友好が、単に相手国政府への飴玉に堕するものであってはならないのです。当該国の国民の幸福や、人権状況の改善、真の経済自立に結びつくものであるか否かが、最重要なのです。
 これは、例えばハイチ震災救援PKOへの自衛隊派遣を巡る議論でも、同じ事が言えるのではないでしょうか。一番肝心なハイチの復興を脇において、単に「どこそこの国に先を越されてはいけない」なぞという自国本位の発想では、クオリッチ大佐や最初の頃のオーガスティン博士と同じで、相手国国民の心に響くものには到底ならないでしょう。
コメント (16)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする