書こうかどうか迷ったが、やっぱり書く事にします。
実は数日前に、職場の「団塊オヤジ」と、とうとう衝突してしまいました。
きっかけは些細な事です。野菜の仕分け中に、少ない人数で商品の仕分けをしている中で、また次から次へと商品が入荷してくる中で、検品を先にやるか仕分けを先にやるかで揉めたと。現象面だけで見れば、それだけの内容です。(詳しくは次の参考資料を参照の事)
ただ、それをもっと詳細に見ていくと、また別の面が浮かび上がってきます。
一つの商品の仕分け中に、別の大量の商品(カット野菜、計500数十ケース)が入ってきました。その時は、私と「団塊オヤジ」と後もう一人の、計3名のバイトで仕分けをしていたのですが、そこから私が、その商品の検品に抜けました。
その検品商品は、とても仮置き場だけでは収まらないほど大量でした。だから、「現在仕分け中の商品が終われば、直ぐにその大量の商品の仕分けにも取り掛かれるように」との算段もあって、検品が終わった商品の一部を仕分け作業場にも流し始めました。
その時に、いきなり「団塊オヤジ」が、「そんな事は納品業者にさせろや!」と偉そうに言ってきたのです。私も売り言葉に買い言葉で、「このままやったら置き場所がなくなるから、一部をそっちにも流していってるんやんけ!」と返しました。そしたらいきなり、自分の偉そうな物言いを棚に上げて、「お前、誰に物を言っているんや!」と来ました。以下は、その後のやり取りの流れです。
●団塊:「仕分けする人間がおらへんのやから、検品なんか業者が全部降ろし終わるまで放っておけよ、それより仕分けに回らんかい!」
●私:「検品中に仕分けなぞ出来る訳がないだろう!」「バイトが少ないのも、俺らだけの責任と違うだろう!」
●団塊:「お前、頭おかしいんと違うか!ワシに喧嘩売っているんか!」
まあ、こんな調子ですわ。その時は、直ぐに周囲のバイトや社員の人が仲裁に入ってくれて、事なきを得ましたが。
そのくせ、今やっている商品の仕分けが済んでも、他の商品の検品が終わっていない為に、検品が終わるまで待たなくてはならない破目になってしまって(つまり検品と仕分けのどちらを優先しようと結局は同じ事w)、団塊オヤジにもその責任が大いにあるのに、その事はおくびにも出さずに「検品やれよ」の一言だけで。
しかし、この発言の中にこそ、この「団塊オヤジ」の自己中心的な性格が如実に現れていると、私は思っています。その何処が自己中心的なのか。
第一に、自分の考え(検品より仕分け優先)だけを絶対視し、他の意見(仕分けと検品を併行して進めトータルとして時間短縮を図る)を一切聞かないという唯我独尊。
第二に、自分の偉そうな物言いは棚に上げて、他人の非ばかりを論うダブル・スタンダード(二重基準)。
第三に、自分たちの都合(作業人員の少なさ)だけが先にまずありきで、その為に商品を降ろし終わってからも検品で待たされる業者の迷惑を一切無視しているという我が儘。人が少ない云々なんて、業者からすれば、こちら側の勝手な事情でしかないにも関わらず(実際、業者もその「団塊オヤジ」の言動に対しては、ものすごく怒っていた)。
第四に、最初の言い分(そんな事は納品業者にさせろ)と後の言い分(検品より仕分けを優先しろ)が全く食い違い、道理の通らない点。これでは、ただの「難癖」でしかない。
第五に、「人が少ないのは俺らの責任だけではない」という私の反論に対して、「頭おかしいんと違うか」「俺に喧嘩売っているのか」=「うるさい黙れ」と、資本家と同じ立場に立って、問答無用と言わんばかりに封殺しにかかってきた点。これが何よりも決定的。
そして第六に、結局は仕分けと検品のどちらが後先になるかというだけで、どちらも最後は同じだったにも関わらず、それをごり押しした事の非も認めないという、謙虚の無さ。
私、あんまり腹が立ったので、その時の経過を簡単に文章にして翌日に所長に提出し、「団塊オヤジ」の配置換えを要求しました。明日からは、「団塊オヤジ」は別の仕分け場で作業に就く事になります。別とは言っても直ぐ隣なので、ホンの気休めにしかならないと思いますが。(追記:結局この措置も保留扱いで、偉そうな物言いに対する注意のみとなった)
この私の反応を見て、読者の方の中には、「過剰反応ではないか」と訝しがる向きもあるかも知れません。しかし、今までいちいち書きませんでしたが、これは何も今に始まった話ではないのです。
「団塊オヤジ」のこの物言いは、今までも有名だったのです。有名どころか、前の部署では、この偉そうな物言いに反発して、大量のバイトが退職し、急遽求人・紹介募集のチラシを撒く騒動にまで発展しているのです。
それでも仕事は一生懸命やってくれるし、何かと世話も焼いてくれたりもしたので、今までは、たとえ偉そうに言われても、そんなに苦には感じなかったのです。また会社のほうでも、「派遣並みの賃金で主任並みの仕事をこなしてくれる」という事で、大目に見ていた部分があったのです。これは今から考えたら、とんでもない甘やかしでしたが。
ところが、この間、牛乳仕分けやPC積み替え作業などの形で、元請スーパーからの労働強化が強まる中で、この「団塊オヤジ」は、他のバイトが日々怒りを募らせるのに反比例するかのように、逆にますます元請・下請け企業の意に沿う形で動くようになり、私たちに対する態度も、嵩にかかった物言いや、気分次第で怒ったり、人によって対応が変わったりと、そういう面が目立つようになってきました。
それは上記のやり取りからも充分伺えます。それが第三理由に挙げた「自分の都合まず先にありき」や、第五理由の「上には何も言えずに下に当り散らすばかり」です。「自分さえ助かれば他はどうでも良い」という、弱肉強食の、新自由主義・強欲資本主義の価値観にどっぷり染まって、自分の保身しか考えていないのです。
もう歳が歳だから、「長い物に巻かれろ」といった封建的価値観から一歩も抜け出れないのでしょう。それを少しでも変えるべく、「オヤジ」にも新聞を配ってきたのですが、結局は変わらなかった。
今さらそれをとやかくは言わない。でも、俺らまでがその飛ばっちりを受けなければならない謂れはない。そんな「保守・反動」の「会社のイヌ」に、何であんなに偉そうに言われなければならないのか。
それで以上のような結末に至った訳です。これで良かったのかどうか、今の私には何とも言えません。正社員の中にも「よくやった」と声を掛けてくれる人がいるので、まあ良かったのでしょう。ちなみに、その正社員の人も、「団塊オヤジ」とは何度も衝突していたようです。みんながみんな見て見ぬ振りをしていた訳でもなかったようです。
という事で、この件はこれで終了です。とりあえず近況報告という事で。本当はこんな職場の恥みたいな事は私も書きたくなかったのですが、これを書かない事には、何故ブログ更新が滞っていたのか、説明がつかないと思いましたので。更新が滞っていたのは、他にも理由があるのですが、その中でも、この理由が割りと大きなウエートを占めているのは確かなので。
職場新聞(すなわちブログのこのシリーズ)も、年明け以降は編集方針を見直して、今までのような職場の実態告発から、国内外の社会情勢の推移や労働者・人民の闘いの紹介に、その重点を移していっています。それを通してしか、職場の民主化も「奴隷根性」克服もないと思いますので。
これはまた、日本社会の民主化にも繋がる課題だと、密かに自負しています。何故なら、橋下徹や河村たかし、東国原英夫、阿久根のパワハラ元市長や、石原慎太郎や森田健作というような質の悪い政治家が、何故これほどまでに跋扈するようになったのかを考えた場合、そこにも「奴隷根性」の悪影響があるのは否めないからです。
彼らの本質はデマゴギーです。彼らは、時として自民党にも逆らったりしていますが、それは決して、自民党の悪政を本心から変えようとしているのではありません。旧来の自民党に取って代わって、自分が新しい「自民党政治の支配者」、新たな特権階級になろうとしているのに過ぎないからです。つまり、古い奴隷主から利権を奪い取って、自分たち新しい奴隷主の物にしようとしているだけで、奴隷制度そのものを無くそうとは決してしない、という事です。
彼らが、道州制導入の露払い役を買って出て、盛んに「大阪都」や「中京都」の宣伝をしているのも、決して本当の意味での地方分権・地方自治を目指しているからではありません。単に、自分たちの思いどうりになる自治体(橋下王朝や河村王朝)を作りたいだけなのです。自治体行政の私物化以外の何物でもない。
それが証拠に、彼ら橋下や河村などが、普天間問題や消費税増税、派遣法改正問題、後期高齢者医療制度廃止などの問題で、今までの自民党政治やそれと何ら変わらない民主党政治に、異を唱えた事なぞ一つもないではないですか。根本的な所でこれまでの悪政には何ら手をつけずに、自分の気に入らない相手(官公労・教組や言いなりにならない教委など)をひたすら叩く事で、自分たちが恰も改革者・革命家であるかのように、装っているだけではないですか。
それは自民・保守系の橋下や河村だけでなく、民主党の菅や小沢も同じです。ただ後者は、反自民で票を掠め取ってきた経緯もあり、前者よりは庶民の味方を装う事に長けている。それだけの違いでしかない。
そんな政治家が、何故選挙のたびに大量得票してしまうのか。そこには、正論で闘う「バカ正直」な政治家よりも、胡散臭くても力のありそうな政治家に縋ろうとする意識が、国民の間に根付いてしまっているからです。その正体は、保身に走る「団塊オヤジ」と同じ「奴隷根性」です。
革命前の中国に、魯迅(ろじん)という作家がいました(1881~1936年)。彼は、「阿Q正伝」「狂人日記」などの作品の中で、当時の中国人の「奴隷根性」を痛烈に批判し、これが克服されない限り、中国革命も中国の民主化も成し遂げられないと訴えました。この魯迅の警句が、今の日本にも、そのまま当てはまるのではないでしょうか。
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