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真田幸村と猫のいる秘境駅

2014年10月19日 16時19分19秒 | 身辺雑記・ちょいまじ鉄ネタ


 以前、高野山の戦犯慰霊碑探訪記事を書いた時に、字数の関係でカットせざるを得なかった沿線風景などについても書きたかったので、再び高野山に行って来ました。但し、もう高野山には上らず、極楽橋へも行かず、紀伊神谷・紀伊細川の二つの秘境駅と、それだけでは時間が余るので、ついでに真田幸村やその家来の十勇士で町興しをやっている九度山の街並みを堪能してきました。

 まずは南海高野線の九度山駅からスタートです。ホームにある花壇がキレイ。他に高野下と下古沢(しもこさわ)の駅にもこの様な花壇があり、駅員や地元の方が丹精込めて管理されています。さすが近代化産業遺産に指定されているだけあって、駅にも風情が感じられます。
 真田十勇士とは、猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道、三好伊三(いさ)入道、穴山小助、由利鎌之助、筧(かけい)十蔵、海野(うんの)六郎、根津甚八、望月六郎の10人。戦国武将の真田幸村に仕えた忍者や槍・鉄砲の名手です。こんなにいたのですね。私は猿飛佐助と霧隠才蔵しか知りませんでした。
 この真田十勇士ゆかりの地を回るスタンプラリーに私も参加しました(左下写真)。全部回ると幸村茶というお茶がもらえます。駅前の交差点を渡って「真田のみち」からスタートするのですが、入口の道標ゲートが奥まった所にあり、場所が分かりにくかったのが残念です。



 私としては、あくまで秘境駅探訪がメーンのつもりなので、九度山については駆け足で紹介していきます。まず真田庵(右上写真)から。真田幸村が関ヶ原の戦い(1600年)に負けた後、徳川家康によって蟄居(ちっきょ:自宅軟禁)を命じられ、大坂冬の陣、同・夏の陣の陣(1614~15年)に再び出陣するまで住んだ所です。ここのスタンプラリーのスタンプ台は縁側の上の高い所にあり、私は背が低いので取りにくかった。
 真田庵の隣に幸村庵というのもあり、こちらもスタンプラリーのコースに組み入れられていますが、別に史跡でも何でもありません。ただのお蕎麦屋さんです。私が行った時はまだ昼前で準備中でした。真田十勇士にちなんだ飾りつけや広告が街中のあちこちにある事からも、真田ブームにかける町の意気込みがうかがえます。
 スタンプラリーのゴールは幹線道路沿いの道の駅「柿の郷くどやま」です。地元資本のスーパーや土産物販売・展示コーナーや喫茶店が併設されています。そこの喫茶店で昼食を食べ、ラリー完走記念の幸村茶のペットボトルをもらいました。



 スタンプラリーはそこで終了ですが、それ以外にも忘れてはならないのが、高野山の開祖・弘法大師(空海)ゆかりのお寺・慈尊院(左上写真)と、その先にある昔の高野山参拝路(町石道)の起点・丹生官省符(にゅうかんしょうふ)神社(右上写真)です。どちらも世界遺産に指定されています。高野山は昔は女人禁制だったので、空海自身のお母さんも山麓の慈尊院に住まわせたのですね。女性絡みの史跡だけあって、安産や乳がん治療の祈願に訪れる人が後を絶ちません(中央上の写真)。九度山の地名も、空海が慈尊院のお母さんに月に9度も会いに来た事に由来するのだとか。こんな大事な史跡をなぜスタンプラリーのコースに組み入れないのだろう?確かに、どちらも道の駅から更に片道徒歩約10~15分と、町の中心部からは少し遠いですが。





 再び九度山駅に戻って、午後からはいよいよ秘境駅の探訪に。駅では無料の雨傘貸し出しやベンチへの座布団設置が行われていました。
 別に有料の観光列車「天空」になぞ乗らなくても、普通の各駅停車でも窓が広いので景色は充分堪能できます。むしろ各駅停車の方が、「天空」が止まらない駅にも停車するので、更に秘境駅の気分が味わえます。高野下駅の古レールの架線柱(大正14年6月製造のレア物です!)も、各駅停車の車窓から停車中に撮影できました(職場新聞の編集上の都合で掲載断念!)。
 まず訪れたのは高野線の終点・極楽橋から一つ手前、標高473メートルの紀伊神谷(きいかみや)駅(左上写真)。通勤・通学客で終日ごった返す高野線も、橋本から先は単線です。特に高野下から先は典型的な山岳路線で、50パーミル(単位表記は‰で、千メートル進む毎に50メートル上る)の急勾配や半径100メートルの急カーブが連続し、使用できる車両もズームカーと呼ばれる車長17メートル2扉式の中型車に限られます。難波から終点の極楽橋まで通しで走れるのは特急「こうや」等の一部の車両だけです。
 駅も高野下より先はもう秘境駅そのものです。実際に、この紀伊神谷とその一つ難波よりの紀伊細川の2つの駅は、秘境駅ライター牛山隆信氏のブログ「秘境駅へ行こう!」で取り上げられた全国200駅の中でも、それぞれ81位と161位にランクインしています。
 上段右上写真が、駅のホームから高野山(極楽橋)方向直ぐに見える50パーミル勾配の大迫トンネル。トンネル反対側の明かりの位置からも、その勾配の凄さがしのばれます。



 駅の周囲は森だけ。人家が全然ありません。実際は丘一つ越えた反対側に神谷の集落があり、高野線が高野山・極楽橋まで全線開通する昭和初期までは参拝客の宿場町として賑わったそうですが、当日はそこまでは足を延ばせませんでした。
 しかし、その賑わいも昔の話。今はもう乗降客数が南海全100駅中最下位の一日13人に甘んじています(2012年)。長靴でやって来て駅でよそ行きの靴に履き替える地元の乗降客用に個人別の靴箱が用意されている程、もっぱら地元客だけの利用に止まっています(右上写真)。
 ちょうど時間もあるので、紀伊細川の駅まで歩いてみる事にしました。駅の人に聞くと、紀伊細川までは駅間距離で約3キロ弱との事。まあ一本道だし下りなので何とかなるだろうと、その時は思っていました。普段はなかなかお目にかかれない50パーミルの勾配標も、途中の踏切で撮影できたし(この2つ右上の写真)。

 しかし、延々と続くつづら折れの急勾配に、だんだん不安になってきました。スマホの地図アプリで現在地を調べようにも、地図には線路と道路しか表示されません。都市部の検索ではマンション名までご丁寧に表示される携帯の地図アプリも、こんな秘境駅周辺では線路と道路しか表示されないのですね。川も学校も郵便局も表示されないのでは、位置が皆目分かりません。おまけに途中で二股別れする道まで現れる始末。もう登山やハイキングと変わらないのだから、地形図は必要不可欠だという事に気付いたが、もう後の祭りで。
 しかし、その反面、街中では見れない景色にも色々と遭遇する事が出来ました。恐らく山林作業者専用だと思われる、断崖絶壁を登る謎の階段とか。みかん輸送用のモノレールとか(この直ぐ下の写真)。





 そうこうするうちに、やがて田畑や人家が現れてきたので、いよいよ細川の集落に到着かと思いきや。それにしては到着がやけに早すぎる。実際に後で調べたら、そこはまだ浦神谷という途中の集落でした。ここで上段右上写真の川の橋の下の道に注目!ロケーションからすると、これは恐らくトロッコ道(森林鉄道)の跡ではないか!
 浦神谷の集落を抜け、再び山間の道を行く事しばし。やがて前方に、高野線の車窓からも見えた見覚えのある建物群が。後で調べたら、細川集落にある高野町の町営住宅でした(下段左上写真)。紀伊細川の駅も、はるか山の上に見えてきました。自宅前で洗車している人に駅への道順を教えてもらい、目印の郵便ポストを右折(同じく右上写真)。
 ところが、その道というのが、これまた駅前通りとはとても思えないような道で。不安に駆られながら歩きはじめる私。不安に駆られながら山間の「駅前通り」を行くと、やがて駅への道標や階段が(下の3枚の写真)。





 ついに紀伊細川駅にたどり着きました(左上写真)。この秘境駅に来たのも、この駅が「猫のいる秘境駅」としても有名だからです。和歌山電鉄の「たま駅長」とは違い、マスコミにはまだほとんど取り上げられていません。その数なんと18匹。毎晩18時に駅長や利用客が餌をやる事になっているのだとか。但し、餌を上げる事が出来るのは、駅長の許可を得た一部の利用客に限られますが。そして猫たちも、馴染み客以外には余りなついてくれません。触ろうとすると逃げて行きます。お友達になるには、もう後何回か通わないとダメみたい(右上写真)。



 駅からの眺望もまた格別です。今しがた上ってきた麓の町営住宅が眼下はるか下に見えています(左上写真)。まだ少し時間があったので、上ってきた左側とは反対の駅右側の、唯一駅に通じている片道一車線の車道から、麓に見える神社の銀杏(いちょう)の大木まで、再び下りてみる事にしました(右上写真)。
 道路沿いにはイノシシ除けの電線が張り巡らされていました。触ったら感電します。通るのは地元の人だけなので、警告表示も一ヶ所だけしか無かったのでしょう。私は触りませんでしたが、道路沿いでもあり、近畿自然歩道や町石道のハイキングコースも近くを通っているので、もう後何ヶ所か表示を増やした方が良いと思います。やがて車道から階段で降りて神社に。そこから再び紀伊細川の駅に戻ります。(下の3枚の写真)



 この駅も含め、橋本以南の駅は全て国の近代化産業遺産に指定されています。
 但し、地方の秘境駅とは違い、下古沢以外には委託の駅長が昼間は勤務しています。電車のダイヤも大体30分に1本はあり、比較的容易に来る事が出来ます。改札も自動改札。但し自動券売機はなく、ピタパ(PiTaPa)やイコカ(ICoCA)も使えません。
 下古沢以外は全駅に行き違い設備があり、唯一行き違い設備の無い下古沢駅だけが、高野下以南では一番乗客が多いにも関わらず唯一無人駅である事からも、これらの駅員が改札要員というよりも保線要員(連絡や非常時の対応用)として配置されている事がうかがえます。

 実際、台風19号が通過した直ぐ後のこの当日も、途中の線区や秘境駅の紀伊神谷駅でも、何人もの保線作業員の方に出会いました。今回の台風19号でも、一時運休した南海本線とは対照的に、本来なら山岳路線も抱え、より条件が厳しいはずの高野線が運休を免れたのも、この保線作業員の方たちの日常の努力の賜物であろうと思います。
 でも、それも大手私鉄の南海だからこそ出来るもの。地形的には同じ様な条件下にある、例えば静岡県の大井川鉄道で、SLなどの観光収入だけでそれをまかなおうとしても、それは無理な相談でしょう。

 同じ事は町興しの取り組みにも言えます。高野山開創1200年や真田幸村キャンペーンなどの地元の努力にも関わらず、高野町も九度山町も人口はこの40年で半減しています。(高野町7604→3979人、九度山町8091→4963人、いずれも1970→2010年、出典はウィキペディア)
 九度山でも、賑わっているのは幹線道路沿いにあるスーパーが運営する道の駅だけで、地元主婦が切り盛りする「まちなか休憩所」にはお客がほとんどいませんでした。町中でスタンプラリーに興じている最中も、手入れされずに廃墟と化した民家を目の当たりにしました。

 やはり、本当に地域の活性化を図るには、観光や町おこしだけでなく、基幹産業の農林業や水産業の振興を図る以外には無いと思います。
 ところが国のやり方を見ると、それと正反対の事ばかりやっています。「アベノミクス」「地方創生」と掛け声だけは勇ましいが、TPP(環太平洋経済連携協定)による市場開放で、農業を多国籍資本の食い物にしようと企んでいます。いくら国内の農家が努力しても、外国の大規模機械農法や企業農法と太刀打ちできるはずがありません。元々自然条件が全然違うのだから。
 では、日本では農業など止めて、外国の安い農産物でまかなえればそれで好いのか。外国の農産物がなぜ安いかというと、農薬をふんだんに使って遺伝子組み換え作物などを大量に生産しているからでしょう。自然破壊や資源浪費、途上国の農民搾取などと引き換えに。それでたとえ短期的には利益を上げる事が出来ても、長期的には地力減退、自然破壊や格差拡大の形で、巨大なしっぺ返しを食らう事になります。原発事故と同じ様な形で。そういう事も色々と考えさせられた秘境駅探訪でした。
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