axelle red et renaud manhattan kaboul
マンハッタン=カブール Manhattan-Kaboul
詞 ルノー Renaud
曲 ジャン=ピエール・ビュコロ Jean-Pierre Bucolo
歌 ルノー、アクセル・レッド Renaud & Axelle Red
若いプエルトリコ人の男の子
アメリカ社会に適応して、ほとんど生粋のニューヨーカー
ガラスと鋼鉄のビルディングの中
コークをやり、コーヒーを飲みながら僕は仕事
地球の反対側にいるのは
アフガニスタンの女の子
マンハッタンなんて全然聞いたことないわ
貧困と戦争だけがあたしの日々
お互いに知らない間柄、こんなにもちがう二人
地球のあちらとこちらの無名の二人
生贄台に乗せられて
いつの世も同じ暴力で木っ端微塵に吹き飛ばされた二人
ボーイング747型機が
僕の窓で爆発した
爆撃があたしの村を破壊し尽くして
こんなに青かったあたしの空は雷雨に変わったわ
お互いに知らない間柄、こんなにもちがう二人
地球のあちらとこちらの無名の二人
生贄台に乗せられて
いつの世も同じ暴力で木っ端微塵に吹き飛ばされた二人
あばよ、僕のアメリカン・ドリームが終わった
あたしはもう権力の犬たちの奴隷じゃなくなった
きみは専制君主たちのイスラム教を無理強いされていたんだよ
あの人たちはきっとコーランをちゃんと読んだことがないんだね
僕はまた塵になった
僕はこの世の支配者にはなれない
僕がこれほど愛していたこのアメリカって
結局は張子の虎にすぎなかったんだろうか
あの神この神、あの宗教この宗教
あの文明戦争この文明戦争
あの兵器この兵器、あの国旗この国旗、あの祖国この祖国、あの国家この国家
こんなもののせいでいつもあたしたちは砲弾の餌食になる兵士なのね
お互いに知らない間柄、こんなにもちがう二人
地球のあちらとこちらの無名の二人
生贄台に乗せられて
いつの世も同じ暴力で木っ端微塵に吹き飛ばされた二人
お互いに知らない間柄、こんなにもちがう二人
地球のあちらとこちらの無名の二人
生贄台に乗せられて
いつの世も同じ暴力で木っ端微塵に吹き飛ばされた二人
(出典)
・「マンハッタン=カブール」 ルノー (不定期連載「世界の反戦歌・反戦詩から」)
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-1457.html
・挑発するロック歌手、ルノー(スキピオの夢:LE REVE DE SCIPION)
http://scipion.blog60.fc2.com/blog-entry-5.html
(注)上記両ブログ間で訳文がそれぞれ微妙に異なりますが、ここでは最初の村野瀬ブログの訳を載せておきます。
2001年9月11日のNYテロから早10年。この10年は、NYテロとアフガン戦争反対がキッカケで生まれた、このブログの歴史でもあります(ブログ開設宣言参照)。
そういう意味では、当ブログとしても、何らかの意思表示をするつもりではいました。しかし、如何せん日々の生活に追われる中で、立て続けに記事をアップするのは至難の業。という事で、今回はこの詩の紹介だけでお茶を濁します(^^;)。まずはじっくり、この詩を噛み締めて下さい。
でも、じっくり書いている暇がないだけであって、決して言いたい事がない訳ではない。言いたい事は山ほどあります。
自民党の石原伸晃幹事長が、まるで他人事の様に「テロはキリスト教徒とイスラム教徒の対立で、歴史の必然だった」と言ったそうですが、何をか況やです。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110910/stt11091017550007-n1.htm
この世襲の二世議員は、ここに出てくる貧しいプエルトリコ人の若者の様に、食い詰めた末に兵士として派兵される事もなければ、アフガニスタンの少女の様に、戦争やテロや宗教対立に巻き込まれて死んでいく事も無い。だから、戦場から遠く離れた日本で、この様な他人事の言辞が吐けるのです。しかし、この若者や少女ともそう変わらない下積みの我々にとっては、これは決して他人事なんかじゃあない。明日は我が身かも知れないのです。
それを、鴨長明の「方丈記」じゃあるまいし、「歴史の必然」とやらで片付けられたのでは堪らない。そもそも、戦争・テロも人権侵害も、為政者によって引き起こされる「人災・政災」だ。断じて「必然」や「宿命」なんかではない。それをまるで「天災」みたいに言うのは、明らかに間違っている。そもそも、この人、他にも一杯問題発言しているじゃない。「反原発は集団ヒステリー」とか「市民に放射能勝手に計らせるな」とか。
たとえ言う場・時や言い方に問題はあったとしても、単に事実を述べたに過ぎない鉢呂・前経産相の「死の町」発言なんかよりも、こちらの方がよっぽど悪質じゃないか。
また、右翼の桜井よしこが、先日も産経新聞の一面コラムに「格差是正よりも国防や国家観の醸成の方が大事だ」みたいな事を書いていましたが、この女も石原と同じです。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110908/plc11090802590006-n1.htm
ネットカフェ難民やホームレス、失業者にとっては、日々生き抜く事こそ「戦争」なのです。その思いに少しでも寄り添う気があれば、こんな「格差是正なんて二の次」と言わんばかりの、他人事のような言葉が吐ける訳が無い。それは、仮に桜井自身がホームレスになった時も、こんな上から目線の冷淡な言辞を、自らに向かって吐けるかどうかを考えれば直ぐに分かります。
所詮、この人たちにとっては貧民の事なぞ他人事なのです。以前、北九州市で、生活保護を打ち切られて「おにぎり食べたい」と言って餓死した人がいましたが、その人にも同じ言葉が吐けるのか。
こんな人物が、今も昔も政治・社会の中心に居座って来たから、戦時中も多くの日本兵がガダルカナルやインパールの戦場で、まるで消耗品のように扱われて死んでいったのです。そして今も、派遣社員や高齢者が、まるで社会の邪魔者のように扱われて死んでいくのです。そんな人物に、そもそも「愛国」や「道徳」を語る資格があるのか?
戦争や貧困は決して宿命なんかじゃないし、諦めや忍耐も断じて美徳なんかではない。今一番必要なのは、<諦め耐え忍ぶ>のではなく、<そうさせないようにする>事だ。
マンハッタン=カブール Manhattan-Kaboul
詞 ルノー Renaud
曲 ジャン=ピエール・ビュコロ Jean-Pierre Bucolo
歌 ルノー、アクセル・レッド Renaud & Axelle Red
若いプエルトリコ人の男の子
アメリカ社会に適応して、ほとんど生粋のニューヨーカー
ガラスと鋼鉄のビルディングの中
コークをやり、コーヒーを飲みながら僕は仕事
地球の反対側にいるのは
アフガニスタンの女の子
マンハッタンなんて全然聞いたことないわ
貧困と戦争だけがあたしの日々
お互いに知らない間柄、こんなにもちがう二人
地球のあちらとこちらの無名の二人
生贄台に乗せられて
いつの世も同じ暴力で木っ端微塵に吹き飛ばされた二人
ボーイング747型機が
僕の窓で爆発した
爆撃があたしの村を破壊し尽くして
こんなに青かったあたしの空は雷雨に変わったわ
お互いに知らない間柄、こんなにもちがう二人
地球のあちらとこちらの無名の二人
生贄台に乗せられて
いつの世も同じ暴力で木っ端微塵に吹き飛ばされた二人
あばよ、僕のアメリカン・ドリームが終わった
あたしはもう権力の犬たちの奴隷じゃなくなった
きみは専制君主たちのイスラム教を無理強いされていたんだよ
あの人たちはきっとコーランをちゃんと読んだことがないんだね
僕はまた塵になった
僕はこの世の支配者にはなれない
僕がこれほど愛していたこのアメリカって
結局は張子の虎にすぎなかったんだろうか
あの神この神、あの宗教この宗教
あの文明戦争この文明戦争
あの兵器この兵器、あの国旗この国旗、あの祖国この祖国、あの国家この国家
こんなもののせいでいつもあたしたちは砲弾の餌食になる兵士なのね
お互いに知らない間柄、こんなにもちがう二人
地球のあちらとこちらの無名の二人
生贄台に乗せられて
いつの世も同じ暴力で木っ端微塵に吹き飛ばされた二人
お互いに知らない間柄、こんなにもちがう二人
地球のあちらとこちらの無名の二人
生贄台に乗せられて
いつの世も同じ暴力で木っ端微塵に吹き飛ばされた二人
(出典)
・「マンハッタン=カブール」 ルノー (不定期連載「世界の反戦歌・反戦詩から」)
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-1457.html
・挑発するロック歌手、ルノー(スキピオの夢:LE REVE DE SCIPION)
http://scipion.blog60.fc2.com/blog-entry-5.html
(注)上記両ブログ間で訳文がそれぞれ微妙に異なりますが、ここでは最初の村野瀬ブログの訳を載せておきます。
2001年9月11日のNYテロから早10年。この10年は、NYテロとアフガン戦争反対がキッカケで生まれた、このブログの歴史でもあります(ブログ開設宣言参照)。
そういう意味では、当ブログとしても、何らかの意思表示をするつもりではいました。しかし、如何せん日々の生活に追われる中で、立て続けに記事をアップするのは至難の業。という事で、今回はこの詩の紹介だけでお茶を濁します(^^;)。まずはじっくり、この詩を噛み締めて下さい。
でも、じっくり書いている暇がないだけであって、決して言いたい事がない訳ではない。言いたい事は山ほどあります。
自民党の石原伸晃幹事長が、まるで他人事の様に「テロはキリスト教徒とイスラム教徒の対立で、歴史の必然だった」と言ったそうですが、何をか況やです。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110910/stt11091017550007-n1.htm
この世襲の二世議員は、ここに出てくる貧しいプエルトリコ人の若者の様に、食い詰めた末に兵士として派兵される事もなければ、アフガニスタンの少女の様に、戦争やテロや宗教対立に巻き込まれて死んでいく事も無い。だから、戦場から遠く離れた日本で、この様な他人事の言辞が吐けるのです。しかし、この若者や少女ともそう変わらない下積みの我々にとっては、これは決して他人事なんかじゃあない。明日は我が身かも知れないのです。
それを、鴨長明の「方丈記」じゃあるまいし、「歴史の必然」とやらで片付けられたのでは堪らない。そもそも、戦争・テロも人権侵害も、為政者によって引き起こされる「人災・政災」だ。断じて「必然」や「宿命」なんかではない。それをまるで「天災」みたいに言うのは、明らかに間違っている。そもそも、この人、他にも一杯問題発言しているじゃない。「反原発は集団ヒステリー」とか「市民に放射能勝手に計らせるな」とか。
たとえ言う場・時や言い方に問題はあったとしても、単に事実を述べたに過ぎない鉢呂・前経産相の「死の町」発言なんかよりも、こちらの方がよっぽど悪質じゃないか。
また、右翼の桜井よしこが、先日も産経新聞の一面コラムに「格差是正よりも国防や国家観の醸成の方が大事だ」みたいな事を書いていましたが、この女も石原と同じです。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110908/plc11090802590006-n1.htm
ネットカフェ難民やホームレス、失業者にとっては、日々生き抜く事こそ「戦争」なのです。その思いに少しでも寄り添う気があれば、こんな「格差是正なんて二の次」と言わんばかりの、他人事のような言葉が吐ける訳が無い。それは、仮に桜井自身がホームレスになった時も、こんな上から目線の冷淡な言辞を、自らに向かって吐けるかどうかを考えれば直ぐに分かります。
所詮、この人たちにとっては貧民の事なぞ他人事なのです。以前、北九州市で、生活保護を打ち切られて「おにぎり食べたい」と言って餓死した人がいましたが、その人にも同じ言葉が吐けるのか。
こんな人物が、今も昔も政治・社会の中心に居座って来たから、戦時中も多くの日本兵がガダルカナルやインパールの戦場で、まるで消耗品のように扱われて死んでいったのです。そして今も、派遣社員や高齢者が、まるで社会の邪魔者のように扱われて死んでいくのです。そんな人物に、そもそも「愛国」や「道徳」を語る資格があるのか?
戦争や貧困は決して宿命なんかじゃないし、諦めや忍耐も断じて美徳なんかではない。今一番必要なのは、<諦め耐え忍ぶ>のではなく、<そうさせないようにする>事だ。