2023年の幕が開きました。新年明けましておめでとうございます。今年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。
新年早々から朗報です。コロナ禍で休止を余儀なくされていた釜ヶ崎の越冬祭りが今年から再び始まりました。大阪・西成あいりん地区(旧称・釜ヶ崎)の萩之茶屋南公園(通称・三角公園)を中心に、野宿者支援の炊き出しや、野宿者を無法者の襲撃から守る為の集団野営、公園ステージのイベント、難波・梅田など繁華街で暮らしている野宿者に対する夜回り・弁当配布・医療支援活動が、50年ほど前から毎年暮れの時期に行われてきました。これらの支援活動を総称して「越冬闘争」と呼ばれます。何故、単なる支援活動ではなく「闘争」なのか?野宿者にとっては仕事のなくなる年末年始を生き抜く事自体が一つの「闘争」だからです。しかし、幾ら「闘争」でも野宿者自身が楽しく参加できなければ意味がありません。そこで三角公園で毎年盆と暮れの時期にコンサートが開催されてきました。それが釜ヶ崎の夏祭りと越冬祭りです。
その越冬祭りが、2019年の年末を最後に、コロナ禍の為に2年間休止を余儀なくされてきました。炊き出しも人の密集を避ける為に弁当配布に縮小され、夜回りだけが行われてきました。今もコロナ禍は依然として猛威を振るっていますが、コロナウィルスの「弱毒化」に伴い、今年から越冬祭りが再開される事になりました。私もつい最近まで、このあいりん地区に住んでいて、釜ヶ崎の夏祭り、越冬祭りには毎年参加して来ました。今年から再び越冬祭りが行われるようになると聞き、昨日の大晦日に久しぶりに顔をのぞかせて来ました。
越冬祭り会場の三角公園への行き方は上の地図を参照して下さい。グレーの線と囲みがJR・南海・阪堺各線の線路と駅、ピンクの囲みが旧あいりんセンター、ピンクの直線が南海電鉄萩ノ茶屋駅から阪堺線今池駅の方に抜ける萩之茶屋商店街、オレンジの囲みが祭り会場の三角公園です。下の表は祭りイベントのコンサートプログラム(12/30~1/3日開催)で、私はその中の12月31日の部、17時から始まった中川五郎さんのコンサートに顔をのぞかせて来ました。
中川五郎さんの熱唱は圧巻でした。この方は60年代末からギターでフォークソングの弾き語りをされています。その頃の世代の方にとっては、高石ともや、ザ・ナターシャセブン、六文銭などとともに、割と名の知られた方だったそうで。その方が、70歳を超えた今でも、現役のフォークシンガーとして活躍されていました。会場で聴いたのは「図書館でデモをする」「一台のリヤカーが立ち向かう」の2曲です。どちらもスマホでビデオ撮影しましたが、残念ながら容量オーバーと著作権法との関連でブログに載せる事が出来ません。どちらの曲もYouTubeで公開されていますので、興味のある方はそちらのリンクを開いて聴いてください。
私はむしろ、それら2曲よりも、「1923年福田村の虐殺」という曲に圧倒されました。この曲も越冬祭りの会場で演奏されたそうですが、私は残念ながら聴く事が出来ませんでした。1923年の関東大震災で、多くの朝鮮人や社会主義者が虐殺されました。震災の混乱の中で、「朝鮮人や社会主義者が、混乱に乗じて日本を乗っ取ろうと、井戸に毒を投げ込んだ」と言うデマが、警察も含めて半ば意図的に流された中で、起こった出来事でした。殺されたのは朝鮮人や社会主義者だけではありません。香川県から行商にやって来た被差別部落の人も、千葉県野田市の利根川の渡しの所で、大勢殺されました。被差別部落の人が「我々は日本人だ」と幾ら説明しても、千葉の人は讃岐弁が分からず、「喋り方がおかしい、こいつら朝鮮人じゃないか?」と疑われ、行商人15人のうちの9人もの方が虐殺されたのです。
虐殺に加わったのは地元の自警団に組織された200人もの村人です。その中で逮捕されたのはわずか8名のみ。その8名も後の昭和天皇即位の恩赦で釈放されています。逮捕者の家族には村から見舞金まで支給されています。その反面、被害者の被差別部落の人には謝罪も補償もありませんでした。千葉だけでなく地元の香川県でも、真相は闇から闇に葬られ、最近まで明るみに出る事はありませんでした。ようやく数年前に、虐殺現場となった利根川の渡しのたもとに慰霊碑が建てられたそうです。(Wikipediaの解説記事参照)
福田村事件について書かれた本と、同事件を題材に今年公開される映画の写真。
私、そんな事全然知りませんでした。それどころか、中川五郎さんの名前も知りませんでした。近年、北朝鮮の拉致問題やミサイル発射報道の影響で、在日朝鮮人へのバッシングや、「従軍慰安婦なぞ居なかった、あれはただの売春婦だ」というデマが広まっています。戦前は今と違い公娼制度(国が限定付きで売春を認めた)がありましたが、その公娼制度の下でも、娼妓(しょうぎ)取締規則で「強制売春」は禁止されていました。建前上は、あくまでも本人の自発性に基づく許可営業だったのです。実際は借金返済の為に遊郭に売られた人がほとんどでしたが。それに対し、慰安婦は「いい仕事がある」と騙されて連れて来られた人が大半です。公娼制度下の建前上の「許可」や健康診断受診などの「保護」措置もありませんでした。従軍慰安婦は当時でも違法な「強制労働」の「犯罪行為」です。
私のブログでも過去に北朝鮮の拉致問題を取り上げた事がありました。拉致問題をきっかけに、北朝鮮国内の政治犯収容所の存在や、餓死寸前の北朝鮮難民が中国や韓国、日本に逃げてきた脱北者の存在が明るみに出て来ました。私のブログでも、北朝鮮の人権侵害に対して抗議のキャンペーンを張りました。しかし、その一方で、北朝鮮拉致問題を口実に、国内の在日朝鮮人に対するバッシングが広まり始めました。拉致被害者支援に名を借りて、朝鮮人差別を煽る投稿が目に付きだしました。それに対して、私は次第に距離を置くようになりました。幾ら北朝鮮の人権侵害が酷くても、それとは何の関係もない在日朝鮮人を叩いたり、過去の戦争犯罪に目をつむるのは筋違いじゃないかと。
その中で知ったのが、中川五郎さんのこの歌でした。朝鮮人虐殺の犠牲になったのは朝鮮人だけではない。同じ日本人も犠牲になった。日本人の中でも被差別部落の人が、「怪しい行商人」として震災の混乱の中で殺された。被差別部落の人は、貧しさゆえに田畑を持てず、高い小作料も払えず、やむなく行商で生計を立てる他なかっただけなのに。差別や排除の対象にされるのは朝鮮人や慰安婦だけではない。被差別部落民や野宿者、非正規労働者も差別の対象にされる。不景気になれば真っ先に首を切られるのは派遣の労働者だ。現に私も、世間が休みの正月も、通常の休み以外は働かなければならない。これが差別でなくて一体何なのか?
中川五郎さんの「福田村の虐殺」の歌詞は余りにも長いので、ブログの字数制限の関係で全文を転載する事は出来ません。ここでは後半の一部だけを転載する事にします。歌詞の最後の「デマや流言飛語に弱いのは臆病者の証拠 信じることから始めよう、人はみんな同じ」のくだりは、私も含めて今も全ての日本人の胸に突き刺さる言葉です。たとえ正月であっても。むしろ年頭の正月だからこそ。
見知らぬ人には親切に、苦境の人には助けの手を
それがよその土地の人であれ、よその国の人であれ
たとえ自分たちと違っていても、言葉が違っていても
信じることから始めよう、それが人の心というもの
昔も今も日本人はよそ者を嫌い、
身内だけで固まる狭い心の持ち主なのか
デマや流言飛語に弱いのは臆病者の証拠
信じることから始めよう、人はみんな同じ
※追記:コメント欄に「福田村の虐殺」歌詞全文を投稿する事が出来ました。gooブログでは、本文の方は字数オーバーで投稿出来なくても、コメント欄なら出来るようですw。
「福田村の虐殺」、とても重く受け止めました。
私が思うのは、こういう差別や虐殺も、この国では「エンタメ」なんとちゃうんかなあということです。
「エンタメ」というのは「他人事だから、自分たちには降りかからない」から成り立つし、楽しめるのです。
十数年前、NHKスペシャルで「ワーキングプア」がシリーズで放送され、反響を呼びましたが、「世の中にはあんな苦しい人もいるが、自分とは『違う』存在だからだろう」と思う人がほとんどだったのではないでしょうか。
同様に、この国では社会的マイノリティたち、そしてマイノリティたちを支援する人たちに対して侮蔑や冷笑を浴びせかけられたりします。これもひとえに「エンタメ」、「うちらはこんな奴らの側でなくてよかった」という考えから石を投げつけているんだろうと思うのです。
私はこの国に暗たんな思いを抱いています。
それはちょうど5日後のこと、関東大震災の日から
千葉県東葛飾郡福田村、今の野田市三ツ堀のあたり
行商人の一団がその村にやってきた
売り物の薬や日用品を大八車に積んで
やって来た行商人の一団、その数は全部で15人
朝早く宿を出て歩き続けて福田村に着いたのは10時頃
利根川の渡し場近くの神社のあたりでまずは一休み
神社のそばの雑貨屋の前には二組の夫婦と
若者二人と子供らが三人、九人が休み
神社の鳥居の脇には一組の夫婦と子供らが四人
夫は足が不自由だった、まだひとつの乳飲み子もいた
渡し場から船に乗ろうと行商人が値段の交渉に
突然船頭が叫び出して あたりの空気は一変
「こいつら日本語が変だぞ」船頭が大声あげる
半鐘が激しく鳴らされて村のみんなが駆けつける
駐在所の巡査が先頭に立ち、村の自警団員が続く
手には竹槍や鳶口、日本刀や猟銃も
その数は全部で数十人、あるいは百人以上とも
自警団員たちが行商人に迫る「お前ら日本人か」
「わしらは日本人じゃ」答える行商人に
「やっぱりこいつら言葉が変だぞ」
「いったいどこから来たんだ」
「四国から来たんじゃ」
千葉の人間にしてみれば聞き慣れぬ讃岐弁
「お前ら日本人なら『君が代』歌ってみろ」
命じられるままに行商人たち「君が代」を歌えば
半信半疑の自警団員たち、
こんどはお経を唱えろと言ったり
「いろは」を言えと言ったり、どんどんエスカレート
目の前の見慣れぬ者が敵に思えて来た
本署の指示を仰ごうと巡査がその場を離れたとたんに
不安に駆られた自警団員たち、行商人たちに襲いかかる
赤ん坊抱いて命乞いする母親を竹槍で突き刺し、
逃げる男たちを後ろから鳶口で頭をかち割った
川を泳いで逃げようとした者たちは小舟で追われて
日本刀でめった切りにされて銃声も響く
雑貨屋の前にいた九人が全員殺された
鳥居の脇の六人は恐怖におののき震えるだけ
残った六人も捕まえられて川べりに連行される
縄や針金で後ろ手に縛られ、まるで罪人扱い
乳飲み子を抱えたまま縛られた母親を男が後から蹴りあげ
醜い顔で大声あげる「川に投げ込んでしまえ!」
興奮して頭に血が上った自警団員の男たち
残った六人全員を後ろ手に縛ったまま
川に投げ込もうとしたちょうどその時
馬に乗った警官が駆けつけて
凄惨極めた惨殺はそこで止められた
九月初めの昼の盛り、利根川の河原には
虐殺された九人の死体が転がる
幼い子供もいれば身重の若い母親も
無残な死体に残暑の日差しが照りつける
襲いかかった自警団員、福田村と隣の田中村の男たち
数十人の中で逮捕されたのはたったの八人だけ
殺人罪で起訴されて懲役刑を受けたが
昭和天皇即位の恩赦ですぐに全員が釈放された
殺人者を告発する検察官は
「彼らに悪意はなかった」と語り
弁護費用は村費でまかなわれ
家族には見舞金も支給された
殺人者たちの家族には村をあげての支援
惨殺された行商人たちには謝罪の言葉はないまま
出所した主犯格の一人、出所後は村長になり
やがては市会議員に選ばれて地元のために尽くす
おまえは夜眠れたのか、悪夢にうなされなかったのか
おまえたちがしたことは謝ってすむことじゃない
関東大震災の直後に朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだと
いたるところでデマが流され、たくさんの朝鮮人が殺された
誰も彼もが疑心暗鬼、言葉が少しおかしいというだけで
幼い子供や母親を竹槍で突き殺した
自警団員もただの人、家に帰れば優しい父親
我が子の遊ぶ姿に相好を崩し、隣近所と親しく付き合う
そんなどこにでもいる善人たちが徒党を組んで
不安に煽られたとたんに鬼になってしまう
福田村で襲われたのは四国香川の行商人たち
僅かな薬や日用品を売ってその日その日を暮らす
地元香川のふるさとの村を後にして
どうして旅を続けなければならなかったのか
千キロ近く離れた千葉の果てまで
三豊郡のふるさとの村では彼らに仕事はなく
稲を育てる田んぼもなく、小作料は高すぎる
地区の人たちのほとんどが行商をして暮らす
旅のつらさ覚悟すればからだひとつで始められる仕事
虐殺現場の福田村から謝罪の言葉は届かず
地元香川の中からも抗議や糾弾の声は起こらず
なかったことにしようと言わんばかりに
県のお偉方は知らんぷり
虐殺された行商人たちのふるさと、香川の被差別部落
2003年9月6日、80年の歳月が流れて
虐殺現場の三ツ堀で慰霊碑の除幕式
あの日と同じように残暑の日差しが照りつける
渡し場は今はゴルフの練習場、霊はここで80年さまよっていたのか
見知らぬ人には親切に、苦境の人には助けの手を
それがよその土地の人であれ、よその国の人であれ
たとえ自分たちと違っていても、言葉が違っていても
信じることから始めよう、それが人の心というもの
昔も今も日本人はよそ者を嫌い、
身内だけで固まる狭い心の持ち主なのか
デマや流言飛語に弱いのは臆病者の証拠
信じることから始めよう、人はみんな同じ
朝鮮人だとか部落だとか、小さな日本人よ
朝鮮人だとか部落だとか、小さな人間よ
http://protestsongs.michikusa.jp/japanese/nakagawa/fukuda_village.html