6月8日の日曜日白昼に起こった東京・秋葉原の通り魔連続殺人事件ですが、以前の私なら、一応政治系と目される自分のブログで、こんな刑事事件をわざわざ話題に取り上げる事はありませんでした。しかし、例の森との一件があってからというもの、今回の事件についても、とても他人事だとは思えないのです。いつまた同じ様な目に遭うかもしれないかと思うと、まったくやりきれない気持ちになります。
今までのニュース報道に因ると、通り魔事件の加害者は25歳の男性派遣社員だとの事です。彼は青森市の出身で、高校は県下有数の公立進学校を卒業しながら、派遣社員として自動車メーカーの現場を今まで渡り歩いてきました。
何故大学に進学しなかったのか。青森県と言えば、大学は確か国公立と私立がそれぞれ数校あるだけで、有効求人倍率も全国最低ランクでしょう。公務員などに縁故採用のコネでもあればまた別ですが、そうでない限り、進学するにしろ就職するにしろ、マトモな所に就こうとすれば、地元から出るしかない。或いは、この頃に両親が別居しているので、ひょっとしたら、家庭崩壊やそれに伴う経済的な理由で、進学を諦めざるを得なかったのかもしれません。
そうして彼は、派遣社員として幾つかの現場を渡り歩いた後、静岡県裾野市の自動車メーカーの工場で働く事になりました。「おとなしい、礼儀正しい人」と言うのが、彼の表向きの人物像ですが、知人・同僚の話によると「一旦キレたら手がつけられない」という一面もあったとの事です。実際、事件発生数日前にも、出勤時に自分の作業着が見当たらなかった事で、「自分は会社からは疎んじられている」と勝手に思い込んで、それが通り魔殺人を引き起こす直接のキッカケとなりました。その背景には、当該自動車メーカーで進められていた人員削減も、微妙に影を落としていました。
また彼は、高校は公立進学校に合格したものの、周囲は秀才揃いで授業にも付いて行けず、今までとは一転して「負け組」の悲哀を味わう事となり、次第に「ブスでグズでノロマで異性にもてない人間」と自分を卑下し、ネットにのめり込む様になっていきました。事件当日も携帯サイトに頻繁に、犯行予告や自分の心境を書き込んでいました。
彼は、小泉構造改革や新自由主義、自民党政治の犠牲者である事は、もうハッキリしています。青森という出稼ぎ常襲地帯で、受験競争にせきたてられて、つかの間の「勝ち組」気分を味わえたものの、やがて両親の離婚などを契機に、それまでバカにしていた「負け組」に、今度は自分自身が転落していくのを、嫌というほど味あわされる様になる。
しかし彼は、受験競争という枠組みに飼いならされてきたが故に、その枠組みそのものを廃絶する(つまり社会変革)という思考には最後まで至らず、逆に「差別されているが故に、逆に差別する側に回ろうとする」アンクル・トムの心理に囚われ続けた挙句に、レンタカーで借りた2トントラックを凶器に、歩行者という弱者に襲い掛かっていったのです。何のことは無い、森と全く同じじゃないか。
作家の雨宮処凛が、自著の「生きさせろ!難民化する若者たち」の中で、「何故ワーキングプアの若者が立ち上がらないか、という声をよく耳にするが、既にニートや引きこもりという形で、立ち上がっている」という趣旨の事を書いていました。私は、これは半分は当たっているが、半分は間違っていると思います。
こういう形での「決起」は、確かに社会変革に至る一つのキッカケになる可能性があります。実際、ワーキングプアの若者の間では、在りし日のプロレタリア小説「蟹工船」が一大ブームになったり、日払い派遣の実態を告発した共産党の国会質問が話題を呼んだりしていますから。しかし、こういう形での「決起」のままでは、絶対に社会変革や革命になぞには至りません。何故ならば、アンクル・トムの思考に囚われている限り、いつまで経っても「椅子取りゲームの中での椅子の奪い合い」にしかならず、「椅子取りゲームそのものを止めさせて、椅子を増やす」という形にはならないからです。
その「決起」の行き着く先は、結局は「万人の万人に対する闘争」でしかありません。その怒りの矛先が向けられるのは、支配階級ではなく、自分が今まで卑下していた別の弱者でしかありません。「下見て暮らせ傘の下」の思考が、そこでは極限まで貫徹される事になります。
それを見た支配者は、更に嵩にかかって、「これぞ戦後民主主義の個人エゴの現れだ、今こそ親・家族・社会・国家への崇敬の念が必要だ」とばかりに、ナイフ所持規制(町村官房長官)や「会社でも社歌と君が代を歌え」(御手洗・経団連会長)という様な事を、今まで以上に言ってくるでしょう。そして、政権与党や大政党に圧倒的に有利な小選挙区制や、企業献金や有料テレビCMは野放しの一方でビラ配布一つにも難癖をつけて来る公選法の規定や、政府与党によるマスコミ操作・「命令放送」・ネット規制などによって、当座はしのげるでしょう。しかし、それでいつまでも持つと思えば、大間違いです。
今の社会体制に対するワーキングプアの潜在的な怒りが、どれだけ凄まじいものか。政府・自民党・財界には、それが全然分かっていません。ホンの一例を挙げれば、日払い派遣労働者の大半が、昼食抜きか、せいぜいカップヌードルとおにぎりだけのお弁当で、毎日毎日働いている事を、どれだけ知っているか。それも、一昔前までのフリーターに時々見られた「将来の夢実現の為に、今は我慢」というのとは、全く違う。夢も希望も打ち砕かれた挙句に、死ぬまでこういう状況が続くのだが、それがどれほど惨めな事かを、政府・自民党・財界の面々は殆ど理解していないのではないでしょうか。
これは別に、北朝鮮の話でもなければ、アフリカの最貧国の話でもありません。れっきとした日本の現実です。戦前日本でも欠食児童が少なくありませんでしたが、家族・社会の絆(民間のセーフティネット)が崩壊している分、ある意味では戦前よりも酷いとも言えるのではないでしょうか。カップ麺を買わされる度に、或いはメタボ健診の知らせを聞かされる度に、「お前が店内で立ち入る事が許されるのは、カップ麺とおにぎりのコーナーだけだ、それ以外は立入禁止」と言わんばかりの、自分と社会とを分け隔てている目には見えない分断線の存在を、彼らは理屈抜きに身体で感じ取っているのです。
そんな状況を放置したままで、何が「君が代」か「美しい国」か。笑わせるな。偉そうに愛国心の説教を垂れるより前に、誰でも普通に働いたらまともに食っていける様にするのが、筋だろう。
このままでは、日本は、遅かれ早かれ、職場・地域全体が映画「ボウリング・フォー・コロンバイン」の様になるでしょう。「資本主義は弱肉強食」と、いい気になって社会変革への希望を圧殺していると、最後に来るのは、もう取り返しのつかない「亡国」状況です。それが嫌なら、もう「革命」しか無い。
(参考記事)
・携帯サイトで犯行予告 秋葉原無差別殺傷7人死亡(朝日新聞)
http://www.asahi.com/national/update/0608/TKY200806080127.html
・秋葉原通り魔:「みんな殺したい」ネット論争で激怒(毎日新聞)
http://mainichi.jp/select/jiken/akihabara/news/20080610k0000e040072000c.html
・「会社に居場所なくなった」加藤容疑者が供述(読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080610-OYT1T00066.htm
(関連エントリー)
・似非弱者による差別暴力を許さない
http://blog.goo.ne.jp/afghan_iraq_nk/e/f8083536c36a7e3cb8230124f4fbdb24
・資本主義は弱肉強食 希望は亡国
http://blog.goo.ne.jp/afghan_iraq_nk/e/8b5ca85c5c095b93890749648ff5a0a8
・食のアパルトヘイト
http://blog.goo.ne.jp/afghan_iraq_nk/e/79b4079365d5c81c0e2b4190341bde60
今までのニュース報道に因ると、通り魔事件の加害者は25歳の男性派遣社員だとの事です。彼は青森市の出身で、高校は県下有数の公立進学校を卒業しながら、派遣社員として自動車メーカーの現場を今まで渡り歩いてきました。
何故大学に進学しなかったのか。青森県と言えば、大学は確か国公立と私立がそれぞれ数校あるだけで、有効求人倍率も全国最低ランクでしょう。公務員などに縁故採用のコネでもあればまた別ですが、そうでない限り、進学するにしろ就職するにしろ、マトモな所に就こうとすれば、地元から出るしかない。或いは、この頃に両親が別居しているので、ひょっとしたら、家庭崩壊やそれに伴う経済的な理由で、進学を諦めざるを得なかったのかもしれません。
そうして彼は、派遣社員として幾つかの現場を渡り歩いた後、静岡県裾野市の自動車メーカーの工場で働く事になりました。「おとなしい、礼儀正しい人」と言うのが、彼の表向きの人物像ですが、知人・同僚の話によると「一旦キレたら手がつけられない」という一面もあったとの事です。実際、事件発生数日前にも、出勤時に自分の作業着が見当たらなかった事で、「自分は会社からは疎んじられている」と勝手に思い込んで、それが通り魔殺人を引き起こす直接のキッカケとなりました。その背景には、当該自動車メーカーで進められていた人員削減も、微妙に影を落としていました。
また彼は、高校は公立進学校に合格したものの、周囲は秀才揃いで授業にも付いて行けず、今までとは一転して「負け組」の悲哀を味わう事となり、次第に「ブスでグズでノロマで異性にもてない人間」と自分を卑下し、ネットにのめり込む様になっていきました。事件当日も携帯サイトに頻繁に、犯行予告や自分の心境を書き込んでいました。
彼は、小泉構造改革や新自由主義、自民党政治の犠牲者である事は、もうハッキリしています。青森という出稼ぎ常襲地帯で、受験競争にせきたてられて、つかの間の「勝ち組」気分を味わえたものの、やがて両親の離婚などを契機に、それまでバカにしていた「負け組」に、今度は自分自身が転落していくのを、嫌というほど味あわされる様になる。
しかし彼は、受験競争という枠組みに飼いならされてきたが故に、その枠組みそのものを廃絶する(つまり社会変革)という思考には最後まで至らず、逆に「差別されているが故に、逆に差別する側に回ろうとする」アンクル・トムの心理に囚われ続けた挙句に、レンタカーで借りた2トントラックを凶器に、歩行者という弱者に襲い掛かっていったのです。何のことは無い、森と全く同じじゃないか。
作家の雨宮処凛が、自著の「生きさせろ!難民化する若者たち」の中で、「何故ワーキングプアの若者が立ち上がらないか、という声をよく耳にするが、既にニートや引きこもりという形で、立ち上がっている」という趣旨の事を書いていました。私は、これは半分は当たっているが、半分は間違っていると思います。
こういう形での「決起」は、確かに社会変革に至る一つのキッカケになる可能性があります。実際、ワーキングプアの若者の間では、在りし日のプロレタリア小説「蟹工船」が一大ブームになったり、日払い派遣の実態を告発した共産党の国会質問が話題を呼んだりしていますから。しかし、こういう形での「決起」のままでは、絶対に社会変革や革命になぞには至りません。何故ならば、アンクル・トムの思考に囚われている限り、いつまで経っても「椅子取りゲームの中での椅子の奪い合い」にしかならず、「椅子取りゲームそのものを止めさせて、椅子を増やす」という形にはならないからです。
その「決起」の行き着く先は、結局は「万人の万人に対する闘争」でしかありません。その怒りの矛先が向けられるのは、支配階級ではなく、自分が今まで卑下していた別の弱者でしかありません。「下見て暮らせ傘の下」の思考が、そこでは極限まで貫徹される事になります。
それを見た支配者は、更に嵩にかかって、「これぞ戦後民主主義の個人エゴの現れだ、今こそ親・家族・社会・国家への崇敬の念が必要だ」とばかりに、ナイフ所持規制(町村官房長官)や「会社でも社歌と君が代を歌え」(御手洗・経団連会長)という様な事を、今まで以上に言ってくるでしょう。そして、政権与党や大政党に圧倒的に有利な小選挙区制や、企業献金や有料テレビCMは野放しの一方でビラ配布一つにも難癖をつけて来る公選法の規定や、政府与党によるマスコミ操作・「命令放送」・ネット規制などによって、当座はしのげるでしょう。しかし、それでいつまでも持つと思えば、大間違いです。
今の社会体制に対するワーキングプアの潜在的な怒りが、どれだけ凄まじいものか。政府・自民党・財界には、それが全然分かっていません。ホンの一例を挙げれば、日払い派遣労働者の大半が、昼食抜きか、せいぜいカップヌードルとおにぎりだけのお弁当で、毎日毎日働いている事を、どれだけ知っているか。それも、一昔前までのフリーターに時々見られた「将来の夢実現の為に、今は我慢」というのとは、全く違う。夢も希望も打ち砕かれた挙句に、死ぬまでこういう状況が続くのだが、それがどれほど惨めな事かを、政府・自民党・財界の面々は殆ど理解していないのではないでしょうか。
これは別に、北朝鮮の話でもなければ、アフリカの最貧国の話でもありません。れっきとした日本の現実です。戦前日本でも欠食児童が少なくありませんでしたが、家族・社会の絆(民間のセーフティネット)が崩壊している分、ある意味では戦前よりも酷いとも言えるのではないでしょうか。カップ麺を買わされる度に、或いはメタボ健診の知らせを聞かされる度に、「お前が店内で立ち入る事が許されるのは、カップ麺とおにぎりのコーナーだけだ、それ以外は立入禁止」と言わんばかりの、自分と社会とを分け隔てている目には見えない分断線の存在を、彼らは理屈抜きに身体で感じ取っているのです。
そんな状況を放置したままで、何が「君が代」か「美しい国」か。笑わせるな。偉そうに愛国心の説教を垂れるより前に、誰でも普通に働いたらまともに食っていける様にするのが、筋だろう。
このままでは、日本は、遅かれ早かれ、職場・地域全体が映画「ボウリング・フォー・コロンバイン」の様になるでしょう。「資本主義は弱肉強食」と、いい気になって社会変革への希望を圧殺していると、最後に来るのは、もう取り返しのつかない「亡国」状況です。それが嫌なら、もう「革命」しか無い。
(参考記事)
・携帯サイトで犯行予告 秋葉原無差別殺傷7人死亡(朝日新聞)
http://www.asahi.com/national/update/0608/TKY200806080127.html
・秋葉原通り魔:「みんな殺したい」ネット論争で激怒(毎日新聞)
http://mainichi.jp/select/jiken/akihabara/news/20080610k0000e040072000c.html
・「会社に居場所なくなった」加藤容疑者が供述(読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080610-OYT1T00066.htm
(関連エントリー)
・似非弱者による差別暴力を許さない
http://blog.goo.ne.jp/afghan_iraq_nk/e/f8083536c36a7e3cb8230124f4fbdb24
・資本主義は弱肉強食 希望は亡国
http://blog.goo.ne.jp/afghan_iraq_nk/e/8b5ca85c5c095b93890749648ff5a0a8
・食のアパルトヘイト
http://blog.goo.ne.jp/afghan_iraq_nk/e/79b4079365d5c81c0e2b4190341bde60
「市場主義」の方は、伝統的に利己心と分業が調和して全体の福利を高めていくといった世界観だと思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E9%80%B2%E5%8C%96%E8%AB%96
レスが遅くなりましたが。要するに、「小泉や石原は本当の新自由主義者ではない」という事ですね。斯様に、ネオリベ(新自由主義)にしてもネオコン(新保守主義)にしても、同じ保守・体制派イデオロギーとして一くくりで捉えられがちなこれらの思想も、日米間で(ひいては日欧間でも)大きく異なるでしょうね。
シカゴ学派にしろハイエク・フリードマンにしろ、米国保守派のバックボーンにあるのは、自主独立・個人主義の精神でしょう。そもそも米国にしてからが、中世欧州のシガラミから逃げてきた人たちが、「強い自立した個人」となって、先住民を征服しながら建国してきた国ですから。
よく言われる「自己責任」の概念も、自立した個人を前提にして初めて成り立つものです。その負の側面たる「弱肉強食、勝者総取り、カジノ資本主義」のイデオロギーにしても、「強い個人」へのご褒美として考えると、何となく理解出来ます。
だから、「国家からの干渉」を極端に嫌う。米国で銃規制が進まないのも、全米ライフル協会の政治力も然る事ながら、銃での武装が「自由」や「権力への抵抗」の象徴として捉えられているからでしょう。
その辺が、日本の保守派との決定的な違いでしょうね。日本の保守派なんて、単なる封建復古・伝統回帰・「長いものには巻かれろ」・「知らしむるべからず依らにむるべし」でしかないですから。日本では現代ネオリベの代表選手の様に思われている小泉にしても、最後に頼ったのはカビの生えた靖国神社だったという体たらくで。
ただ、草の根の小泉・橋下支持者の中には、米国流のアンチ「国家主義」に近いものを持っている人も、結構いるのじゃないかな。たとえば私の兄貴の様に。
小泉・橋下政治の是非を巡って、いつも私との間で論争になるウチの兄貴ですが、この前は珍しく意見が一致しました。大阪府や日本の財政状況を巡って、議員定数削減や「乱開発や米軍思いやり予算のツケを庶民に押し付けるな」という話になり、「天皇制こそ最大のムダ使いじゃないか」という所で完全に意見が一致してしまいました。
曰く「日の丸・君が代なんて今の主権在民・民主主義の感覚から完全に遊離している」「右翼が煩いからみんな黙って敢えて言わないだけだ」「まるで封建時代の忠誠道徳の延長でしかない」「そんな代物を、その是非・存続についてきちんと議論した事が一度も無いまま、国民に一方的に押し付けるな」「そんなに国旗・国歌の尊重を言うのなら、一体どんな国旗・国歌がこの日本に相応しいのかを含め、まず国民投票で選び直す所から始めるべきだ」と。
それで、実際に右翼系の掲示板(どうやら「2ちゃんねる」では無い様ですが)に、わざわざ先述の書き込みをしたんだと。そうしたら誰も反論しなくなったのだと。
まあ、「自営で商売やっていたら、最後にはこういう考え方になるわな」と、妙に納得してしまった次第で。
ところが彼らはその「生活水準」の保護。「正当価格」の保護、または「職業に応じた所得」の保護なだは当然受ける権利があると考えており、その保護のもとで国家の支援を受けているのである・・・中略・・
生産者のある集団に属する弱いか不運な団員が、競争の「規則」によって堅実な基礎を持つことになった団員のために搾取されることほど、一階級に対する他の階級の悪くで残酷な搾取はないのである。
ハイエク「隷従への道」保障と自由の項
その中でも、とりわけ目を引いたのが、次の2点です。―(1)容疑者に殺された被害者の遺族までもが、この事件を単に容疑者だけの問題としてではなく、社会病理の現れとして捉えている事、(2)容疑者の知人・同僚・同級生など何人もの方が、続々と実名でインタビューに応じていた事。それらの人々は、いずれも、「これは容疑者だけに限った特異な事件ではなく、自分たちにもいつでも起こりうる事だ」と捉えていたからこそ、そういう反応を示したのでしょう。いずれにせよ、イラク人質事件・光市母子殺害事件の時とは、世論の反応が全然違います。寧ろ、どちらかと言えば、JR福知山線事故後の世論の反応の方によく似ています。
これだけの人々が実名で番組に登場し、「やった事は許せないが、その気持ちは分かる」というコメントを残している。携帯のネット掲示板で、盛んに「自分は孤立している、社会から見捨てられた」という書き込みを残していた加藤容疑者ですが、実際には孤立なぞしていなかったのではないか。それを、さも孤立しているかの様に思い込まされていたのでは。政治や社会の手で。
という事で、今日も朝早くから仕事なので、今日はとりあえず簡単な感想のみでご容赦を。これまでのコメント欄へのレスも、帰ってから順次書かせて貰います。
ところが他方、不安は下層階級の恐ろしい状態を馴致するのであり、青年期に俸給生活者の地位という避難所に入ることを拒絶された人々は、終世そのような状態に取り残されるのである。
ハイエク「隷従への道」保障と自由の項
新自由主義を言われるものも中身はイロイロですが、ハイエク・フリードマンをいった代表選手であれば、その特徴は権力の恣意的行使を極端に嫌うという点でしょうか。従って、小泉元首相や石原都知事を含めて政治家に新自由主義者はいないでしょう。テレビでの発言しか知りませんが竹中平蔵ならそのまんまフリードマンという気がします。
支持層ですが、たとえば私のような自営業、未組織労働者、サービス業者、小規模ベンチャー経営者(いわいる無党派層)といったところは政治的に極端な弱者なんですよ。一次産業やハンディキャップの人よりも弱い。ただし市場競争力という点であればまあまあの(強くはありませんが)ところに行く。その結果、むしられるだけむしられてるというのが現状でしょう。政治的分配は明らかに損なんです。これをなんとかしてくれ、という期待が小泉氏や橋下氏の支持に向かった。オバマ氏もこの層意識して支持を訴えたと聞いています。
http://blog.goo.ne.jp/egovblog/e/276d0d0469c9e9d92a4f7cd759a34153
(高齢医療拠出金で)「派遣」健保161億円負担増。
派遣労働者が加入する「人材派遣健康保険組合」が2008年度に後期高齢者医療制度に拠出する支援金は、前年度の老人保健制度への拠出金に比べ、約161億円贈の224億円に上ることが17日わかった。
・剣はペンよりも強し 事件が残したもの 秋葉原連続通り魔事件12
・絶望工場の実態 秋葉原通り魔殺人事件11
・たった一人の暴力革命 秋葉原通り魔事件10
・国内より海外のマスコミが真相を語った 秋葉原連続通り魔事件9
・未だ真相は隠したまま(一部報道された) 無連帯の恐怖 秋葉原連続通り魔事件8
・今日の弾幕 秋葉原連続通り魔事件7
・趣味品(大切なもの。自分をこの世に留めておくもの)を売って金をつくる 秋葉原連続通り魔事件6
・前兆は既にあった 秋葉原連続通り魔事件5
・さっそく情報工作開始 スピン・ドクターは誰? 秋葉原通り魔事件4
・何か変わるきっかけになって欲しいが… 秋葉原連続通り魔事件3
・秋葉原連続通り魔事件2 一種の自殺
・秋葉原連続通り魔事件
http://search.goo.ne.jp/blogreader.jsp?url=http%3A%2F%2Fmikogami.cocolog-nifty.com%2Fblog%2F2008%2F06%2Fpost_00e3.html&MT=%C0%BE%C0%AE%CB%BD%C6%B02008&DC=10&RD=&IU=&snum=1
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080616-00000012-gen-ent
人間1人が普通に食っていくためには、実家住まいの独身男性でも、月15万円が必要です。これが、「健康で文化的な生活」を送る為の、謂わば最低ライン。実際の手取りが、月20万円だったのか、それとも15万円しか無かったのか、或いはそれ以下だったのか。その月数万円の差で、加害者の置かれた生活実態(追い詰められ具合、生活の荒み具合)は、大きく変わってきます。
分かりました。私としては、「差別されているが故に、逆に差別する側に回ろうとする」という事を表現出来ればそれで良いのであって、「アンクル・トム」という言葉自体に拘らなければならない理由は、何もありませんから。
ただ、当該表現は私が勝手に作った造語(例:「ラ帝」「安倍マルコス」)ではないので、別の人が使った場合に、私にそれを止める権利はありません。その点はご了承願います。
しかし、じゃあ何て言えば良いのだろう。素直に「へつらい者」としても良いのですが、一層の事「プロ奴隷」で行きますか。「プロ奴隷」と言うのは、言わずと知れた「ネットウヨク」の別名です。
「ネットウヨク」の正体については、「大企業退職者、天下り官僚などの勝ち組」説から「ワーキングプア」説や、「ネットが勝手に作り上げた想像上の産物」というものまで諸説在りますが、ここでは「ワーキングプア」説を採る事にします。
実際、直近の都知事選挙においても、石原支持層の特徴として、新自由主義のお零れに預る「勝ち組」(例:ホリエモンやグッドウィルの折口など)とともに、下町の零細自営業者・ワーキングプアなどの所謂「負け組」が、二大支持層を形成しているという、調査結果もありますので(拙ブログでも過去に紹介済)。
本来は新自由主義の犠牲者である筈の「負け組」が、何故「新自由主義者」の石原を支持するのか?その背景にも、弱者故に「弱肉強食こそ世の習い」と居直り、「今は差別される側に身を落としているが、いつかまた差別する側に回ってやる」という心理が働いているのは、確かですから。
それと、最後の【余談】ですが、老婆心ながら気になります。お気持ちは分からない事もないですが、くれぐれも「自爆テロ」にだけは陥らないように・・・。
<
(・・・略)トムは紛れもなくイエス・キリストをモチーフとしてとして描かれている(受難しそれを耐え忍び、最期には自らを殺そうとするレグリーをも赦し、二人の凶暴な男に囲まれて亡くなる)。この作品は黒人のイエスの受難物語といっても過言ではない。(・・・略)
一方で、アンクル・トムは「白人に媚を売る黒人」という意味で主に黒人間で軽蔑的に用いられる。(ジンバブエのムガベ大統領がライス・アメリカ国務長官を“アンクル・トムの娘”と罵倒した) このように、トムの従順な態度は一見脆弱な存在に映ることもあるが、実際にはイエス・キリストの受難になぞらえているのであって、けしてトムを弱い存在として作品自体は描こうとはしていない。
>
私が子供のころ、たぶん50年以上も前になりますが、NHKの子供向けラジオ番組で「アンクル・トムの小屋」を放送しておりました。毎夕、ラジオから流れる物語を聞き、悲しい思いをしたものです。同時に、奴隷制の理不尽さ、残酷さを子供ながらに理解しておりました。もっともキリスト教っぽいところは子供にはうんざりでしたが・・。それはともかく、幼い頃に聞いた私の記憶によっても、トムは神を信じる従順な受難者ではありましたが、自分よりさらに弱い者を差別するような人物として描かれてはいません。
「白人に媚を売る黒人」という意味で用いられることは、それはそれで理解できますが、プレカリアートさん言うところの、「差別されているが故に、逆に差別する側に回ろうとする」、「弱者の暴力性」、「弱者であるが故の暴力性」といった意味に拡張、転用することはどうも納得しかねるものがあります。「私のブログだから勝手でしょ」と言われればそれまでですが、小説中の事実とも異なりますし、この小説がアメリカ史に果たしたと信じられていることから考えましても、前述のような意味付けは適切ではないと思います。
「差別されているが故に、逆に差別する側に回ろうとする」ということが往々にしてあることは、たしかに私自身の心に照らしても認めざるをえません。「弱者の暴力性」あるいは「弱者であるが故の暴力性」も、語彙の選択は置くとしても、意味するところは私にも分かります。私自身、母の退院時に暴言を吐いた医師に対して、「ぶんなぐってやりたい」とか「刺し殺したい」とか、憎しみを抱き続けていますからね。
そういうわけで、プレカリアートさんの意味するところを「アンクル・トム」と表現するのは撤回していただき、もっと違う、適切な人物や、モノやことばで表現していただけないでしょうか。どうかよろしくお願いいたします。
【余談】介護を続けていると心身ともに疲れ、いらいらがつのり、何も協力しない兄弟を激しく憎悪するようになりました。私も臨界点(暴発寸前)に達しているようです。怒鳴りつけて、兄弟の縁を切りたいと思うこのごろです。
そう、それは私も思いました。念の為に先に言っておくと、私もこの事件については、派遣労働から来る問題とは別に、事件加害者の加藤智大(ともひろ)容疑者に固有の問題があると思います。実際、彼がネット掲示板に残した投稿を読んでいると、もう「アホか」としか思えないものも、少なくありません。
例えば、「私の価値が時給1300円から1050円に下がりました、ますます安い人間に」とかいう6月2日付の投稿なんか読むと、「じゃあ、時給900円の私や、850円のN君・I君たちは、一体どうなるの?」と、突っ込みの一つも入れたくなります。これでは何か、私たちが加藤容疑者からバカにされているみたいじゃないですか。
高校卒業後の進路についても、理工系が得意だったのなら、何故高専に進学するなり、自動車整備士1級の資格を取るなり、しなかったのか。いくらクラスでは落ちこぼれと言っても、腐っても進学校に進めたのだから、その気さえあれば、いくらでも自分の可能性を広げる事が出来て、有名大学に進学した奴を見返す事も出来た筈です。
携帯依存症というのも、私には理解出来ません。容疑者は最大で毎日200件からの書き込みを携帯掲示板にしていたそうですが、所詮は携帯です。書き込みの容量が限られているので、書き込める内容も短文での愚痴や独白みたいなものに限られます。そんな愚痴や独白を幾ら書き込んだ所で、「同類友を呼ぶ」という結果にしかならない事ぐらい、分からなかったのでしょうか。それで案の定、「2ちゃんねらー」みたいな奴から格好の標的にされて、「ネットでも無視された」と言うに至っては、「こいつバカじゃないか」という他ない。
ただ、彼は青森から静岡に出てきて、派遣会社の寮に住んでいたのでしょう。そこで問題になるのが、実際の手取り収入です。時給1300円の額面だけで見ると、実家から通っている限りでは、優雅な独身貴族の生活ですが、実際には寮費やら布団・テレビのリース代やらで、結構ピンハネされているものです。それに加えて、自動車メーカーの方でも生産調整で勤務日数を減らしていたとしたら、実際の月の手取りは、10万円チョイ位しか無かったかも知れません。
以上から想像すると、彼は経済的にと言うよりも、寧ろそれ以上に、精神的に追い詰められていたのでは、という気がします。
当初は進学校のエリートで、プライドも高かった人なのでしょう。それが不安定な有期雇用契約の繰り返しの中で、「負け犬に転落してしまった」という気分に囚われていったのではなかったか。しかし、「格差社会を廃絶する」という思考には終に至る事なく、その鬱憤を別の弱者に当り散らしただけでした。当り散らされ殺された別の弱者こそ、良い迷惑です。
敢えて不謹慎な言い方をさせて貰うと、これが自民党本部やグッドウィルにトラックごと突っ込むとかすれば、未だしも味方の一人や二人ぐらいは居たかも知れないものを。勿論、私はこんなやり方は到底支持出来ませんが。ところがそういう度胸も無く、無差別殺人に走った挙句に、自分だけはチャッカリ助かって。やる事が卑怯過ぎます。
そして忘れてはならないのは、受験競争や生存競争を煽れば煽るほど、彼のような精神的奇形児が生まれる下地が培養される、という事です。東京都杉並区の公立中学で「勝ち組」対象の有料進学塾を開講したり、石原都政や橋下・大阪府政が、公立高校の学区制撤廃や進学校特区の創設みたいな事を主張していますが、それこそ噴飯モノ以外の何物でもありません。
幾ら口先だけ「人格重視」云々と誤魔化しても無駄です。実際それで、全国学力テストの順位で予算配分に傾斜をつけて、進学校とその他の学校を思いっきり差別しているのですから。そんな教育ばかりやっているから、「勝ち組だけが全て」と誤解する様な、加藤みたいな人間が出てくるのです。そういう意味では、彼もやはり新自由主義の犠牲者なのです。
実は私も、「へつらい者」という意味での「アンクル・トム」の用法を知ったのは、そんなに前の事ではありません。以前に、ある知人とメールのやり取りをしていた時に、偶々「アンクル・トム」の当該の意味を知る事となったのです。それで色々調べてみたら、確かにそういう使われ方をする事がある様なのです。
「アンクル・トム」そのものは、ぼんくらおじさんも触れていた、ストウ夫人の小説「アンクル・トムの小屋」に登場する主人公の事です。ぼんくらおじさんもご存知の様に、この小説は、19世紀米国における奴隷制度の悲惨さを告発したもので、その後の南北戦争勃発のキッカケの一つともなったものです。
しかし、それをまた別の面から見ると、また違ったものが見えてきます。
最初は良心的な奴隷主の下で幸せな生活を送っていた黒人奴隷のトムが、最後には悪徳奴隷主によって殺されてしまうのですが、その最後においても、トムは奴隷主への敬愛を捨てなかった。なんて崇高な奴隷なのだろう。そんな奴隷を殺した悪徳奴隷主は、我々「良心的な白人」が許さない。―これが、この小説の大まかなあらすじでしょう。
でも、その「良心的な白人」が実際にやった事は何だったのか。先住民の土地を取り上げ、テキサス・カリフォルニア・フィリピンを奪い、ハワイを併合し、その後もベトナムを侵略し、中南米諸国を欲しいままに蹂躙し、今もイラクを占領しているではないか。そして、形だけの奴隷解放宣言の後も、黒人・ヒスパニック・先住民への差別を温存し、その上に胡坐をかいてきたではないか。そういう意味では、「良心的な白人」も「悪徳奴隷主」も、やっている事はみな同じじゃないか。そんな中では、「アンクル・トム」なんて所詮は、米国社会の醜い面を糊塗する「イチジクの葉」にしか過ぎないじゃないか。―これが、マイノリティの側から見た「アンクル・トム」観です。
私が、「へつらい者」をイメージする「アンクル・トム」の概念を、よく引き合いに出すのは、「差別されているが故に、逆に差別する側に回ろうとする」という「弱者の暴力性」(弱者であるが故の暴力性、と言い換える事が出来るかも)を、分かりやすい形で示してくれているからです。
「ワーキングプアの連帯」でしか、今の新自由主義グローバリゼーション・弱肉強食資本主義を打ち倒すしかない―というのは、全く以ってその通りなのですが、それがそう簡単に一筋縄でいかないのは、この「弱者の暴力性」があるからです。
街宣右翼・ヤクザ右翼に身を落とす未解放民・在日コリアン、少数民族弾圧に辣腕を振るった少数民族出身の旧ソ連指導者スターリン、移民をクズと罵った移民出身のフランス大統領サルコジ、過去の日帝植民地支配や今のネオコン・新自由主義を賛美する台湾の金美齢、女性でありながら生理休暇も労基法も不要と言い放つ人材派遣会社ザ・アール社長の奥谷禮子、等々。
私が前の現場でいた時によく引き合いに出していたB層バカウヨ封建オヤジや、この前の差別・パワハラ・ワーキングプアの森某も、その「等々」の中に含まれます。
かつて中国の作家・魯迅が小説「阿Q正伝」の中で描いて見せた様な、この「弱者の暴力性」は、私も含めて、誰の心の中にもあります。そうしてこれらが、石原都政・橋下府政や「小泉人気」を、陰で支えているのです。
トヨタの期間工の募集が新聞に載っていますが、年収で400万程度、そう悪くない、ただし、仕事はムチャクチャきついらしい。
もう何年も親の介護ばかりで、買い物とか以外には外に出ることもないし、社会の変化から少し疎くなってきていることを感じています。
「差別されているが故に、逆に差別する側に回ろうとする」ような者のことを「アンクル・トム」と言うとは知りませんでした。「へつらい者」と言ったような意味で「アンクル・トム」と言うことがあるとウィキペディアに出ていましたが、前者のような意味は本当にあるのでしょうか?
ところで、秋葉原の通り魔事件の犯人は拙宅の近所のレンタカー会社からトラックを借り、拙宅の前を通って秋葉原に向かったのです。確実に私の耳の鼓膜は彼の運転するトラックのエンジン音で振動したはずです。月曜日はテレビの取材陣が押しかけてものものしかったです。とてもひとごとではありません。
「はたらけど はたらけど なほ わがくらし 楽にならざり」というような貧しさは、このごろ始まったことではなくて昔からありました。また、日本に限ったことでもないし、どうやら資本主義国だけでなくて、社会主義(を標榜する)国家でも起こっているようです。中国の格差社会はものすごいと聞いています。
金融危機、石油価格高騰、食糧危機、地球温暖化、などなど、世界がギクシャクしている。昔のように資本家と無産階級の座標軸だけで考えられなくなってきているように思います。私には革命という言葉が輝かしい未来を想像させなくなっています。もちろん、私にも「変えなくちゃ」という気持はあります。多くの人がきっとそう思っているのでしょうが。
最近、ブータンという国に興味を持つようになりました。現在、王制なのですが、国王自身は王制を廃止して民主化すると宣言し、一方、国民は王制存続を国王に嘆願するという、世にも珍しい国なのです。国民総生産GNPという指標ではなくて、国民総幸福度GNHとかいう指標があるとのことで、およそ先進国の高エネルギー文化とは正反対の価値観を持っているのですね。老子とか仏教の価値観に似ているなと感じました。私たちから見ると、ブータンの国民は貧しい暮らしをしているように見えるのですが、彼ら自身は満ち足りていて幸せだと答えます。変えようとは思わないし、ほしいものなどないと言います。
ところで老子のこんな言葉を思い出しました。↓
学者によって、いろいろな解釈がされているようですが、現代先進国の価値観とは違うことだけは確かのようです。
小国寡民。什伯の器ありて而も用いざらしめ、民をして死を重んじて而うして遠く徒らざらしむ。舟輿ありと雖も、之に乗る所無く、甲兵ありと雖もこれを陳ぬる所無し。人をして復縄を結んで而うして之を用いしめ、其の食を甘しとし、其の服を美とし、其の居に安んじ、其の俗を楽しましむ。隣国相望み、鶏犬の声相聞こえて、民は老死に至るまで、相往来せず。
http://www.stat.go.jp/data/roudou/sokuhou/tsuki/index.htm
★加藤智大容疑者の心の闇
( 1)1日中繰り返される「一人」のつぶやき
( 2)絶対零度の孤独
( 3)操り人形な毎日
( 4)「I,m not OK.」の人生
( 5)自己概念の循環効果
( 6)憎む対象が世間になる理由
( 7)「彼女」と「不細工」-2つのキーワード
( 8)「時間の構造化」の方法
( 9)転がりはじめた殺意
(10)ストローク飢餓の殺人ゲーム
http://nakaosodansitu.blog21.fc2.com/blog-entry-1159.html
ただ、私なりに彼の心情を考えると、宅間守でしたか、彼もそうだと思うけど、もうこの社会は自分とは絶対的な敵対関係だと判断しているわけですよね。社会は自分を受け入れないし居場所もない。それどころか自分を追い詰めるだけだ。そうなればもう社会は敵なんだから、その敵と闘ってやる、というのは、彼なりに論理は通ってるんだろうな。そして、敵と闘う時に敵の強い所にぶつかる人はいないから、最も弱い所である小学生を狙った。この犯人の場合も、宅間ほど確信犯ではないけど、ようするに同じで、今の社会に受け入れられて楽しく生きている(ように見える)秋葉原で遊んでいる同世代は皆敵だと。
その意味では、コロンバイン大学の銃乱射とはちょっと違う気がするんですよ。私は彼らの資料を少し読んだけれども、あれは基本的にはいじめられっ子の復讐だと思う。だから、あくまでターゲットは明確にある。宅間とか、この犯人とかは、社会そのものが無差別に敵なんですね。例えば、派遣システムが悪いとか、仕事現場の不愉快な上司を殺すとか、派遣会社にトラックで突っ込むとか、そういう発想はないんですよ。同世代で楽しく生きている人の人こそが敵なわけで。
犯罪には社会の病理が最も集約された形で現れるから、こういう事件は、結論をすぐに出さずにじっくりと考えるべきものだと思う。ただ、報道された限りの情報ですが、正直な感想を言うと、余りにも、彼は発想が貧しいですよ。生活の貧しさ以上に、もう惨めなくらい精神が貧しい。犯罪の大きさと比べ、この精神の矮小さはなんなんだろうと思う。受験教育に洗脳されて、とか言うのは私は全く信じられない。私も高卒で高校では下から数えたほうが早い落ちこぼれでしたが、それでも高校生活はいい想い出が一杯ある。彼は、自分で楽しみを見つける、自分で自分の精神を解放するって事が、なぜここまで出来ないのかと思う。
ボウリング・フォー・コロンバインで、私が一番素晴らしいセリフだと思ったのは、ロック歌手のマリリン・マンソンの言葉でした。犯行に及んだ学生に、もし貴方が出会ったらどんな言葉を掛けるか、という質問に「黙って、彼らの言う事をひたすら聴いてあげるよ。それが彼らが一番してほしかったことだから」この言葉は本当に重い。
私は、やっぱり右の人間ですから、死を美化したり、また、つまらない人生よりは死んだほうがいいんだ、みたいな観念は一時あったんですよ。しかし、それは、脱北者と、特に中国で直接会った途端に、もう口にもすまいと思いました。ただ生きる、その事にこれだけ必死になるしかない人がいる。今、私達が当然のように思っている権利は、およそこの百数十年の間に、人類が多くの血を流して、試行錯誤の末にやっと確立したものに過ぎない。全世界でも、それを享受している人はごく一部なんだ。そういうことはやっぱり、どこかで誰かが教えておくべきことのような気がする。(これはお前達は恵まれてるんだ、文句言うなという意味じゃないですよ。人の命を奪う事、社会を大切にしないことがどれだけ罪深いかを教えるという事)
・秋葉原の事件について(日研総業)
http://www.nikken-sogyo.co.jp/news/2008/pdf/news_080610.pdf
・6月8日秋葉原通り魔事件の報道について(関東自動車工業)
http://www.kanto-aw.co.jp/jp/corporate/080609.pdf
いずれも判で押した様に、「6月4日までは欠勤もなく真面目な仕事ぶりであった」「(何も)変わった様子はみられませんでした」とあり、今後の対応についても「派遣スタッフの管理体制を見直す」(日研総業)、「派遣会社に人材の確保・管理・監督を要請すると共に、メーカーとしても管理・監督を含めて良い職場作りをめざす」(関東自動車工業)という、当たり障りの無い内容に終始しています。
要するに、「会社は何も悪くない、事件はあくまでも当人の異常性格に因るものだ」と言いたいのでしょう。確かに、当人の人格にも問題大有りである事は、既にマスコミが報じている通りです。しかし、会社の働かせ方についても、「問題が何も無かった」とは到底言えないのでは。
実際、私がついこの前に蒙る事になったパワハラ被害についても、その裏には「とりあえず頭数を現場に放り込むだけで、人の管理など在って無きが如しの派遣会社」や「それを利用するだけ利用して、問題が起こったらお払い箱で済ます受け入れ側の思惑」が、事件の背景にありましたからね。
「人材の確保・管理・監督に努める」とか「良い職場作りをめざす」とか言っていますが、今の働かせ方を続けている限り、それは無理です。そんなものは、次にまた何か起こった際の、会社側の「言い訳・アリバイ」作りでしかありません。
合理化、効率の向上によってコストダウンを図る、これには大変な努力が必要なわけですが、「値引きしてくれ」というにはなんの努力もいらない、単にずうずしければいいわけです。長期の不況がこんなことを可能にしたわけで、まさに頽廃、深刻に考えなければならない問題だと思います。
ある大手メーカーのトップのインタビユーで部下にコストダウンを命じるときは、原価を半分にしろ、とか三分の一にしろとわざと無理難題を吹っ掛けるんだそうです。こうなると設計を根本的に見直すとか、製造工程を革命的に改善するとかしないと実現不可能。小幅な指示では、取引先に電話して「いくら値引いてくれ」で御仕舞になってしまうから、ということでした。