昨日、BSで東福寺が放映されていました。行く前に何も理解していなかったけど、復習としてみると大変よくわかりました。ブログにアップするのも、訪問してくれる方にとっては見飽きた同じものに見えますが、自分の頭の中での整理に大変役立っています。
大昔、最初に株で儲けたロームでした。このロームは京都に先進的な企業が多いですがその一つです。そのロームが京都の観光名所を紹介しています。今回、訪問した東福寺の事についてもアップされていましたので、参考に引用させて頂きます。ローム彩時記(本来は歳時記はとしの歳ですが。)として四季折々の京都の名所旧跡です。
通天モミジ 紅葉が織り成す真紅の海
真っ赤な紅葉の中に浮かぶ通天橋(つうてんきょう)。東福寺の紅葉として思い出されるのは、この橋の秋景色ではないでしょうか。方丈から開山堂の間には川が流れる渓谷が広がり、この洗玉澗(せんぎょくかん)を中心に、境内には約2000本ものカエデが植えられています。その中でも、通天モミジは、開山・円爾(えんに)が宋(現在の中国)より持ち帰ったものといわれ、葉先が3つに分かれ、黄金色に染まるという特長があります。
近年では、夏場の青々としたモミジも人気がありますが、やはり紅葉のそれは別格。例年、色づき始める11月中旬から12月上旬までは、多くの見物人でにぎわいます。
この秋の紅葉に対し、東福寺では桜をほぼ目にすることはありません。その理由は東福寺の僧であり水墨画の開祖とも呼ばれる画聖・明兆(みょうちょう)の一言にあります。その昔、三門楼上の極彩画など、多々ある明兆の作品のひとつである「大涅槃図」が足利義持の目にとまりました。明兆は絵のほうびとして、遊興の場となり、僧侶たちの修業の妨げとなる恐れのある桜の伐採を願ったのです。
桜が姿を消した現在、境内一面を真っ赤に彩り、訪れる人を魅了する東福寺の紅葉。通天橋や方丈では視界いっぱいに広がる紅葉、洗玉澗では地面を彩る落ち葉など、さまざまな秋の風景が人々を待ち構えています。
1
2
3
4
5
6 通天橋から見た洗玉澗です。
7
8
9 通天橋から見た方丈方面
10
11 拝観者が少なくなったので通路上での撮影禁止が解除されました。
12
13
14
15
16
17
18
19
20 この先の方丈拝観受付(庭園)の庫裡です。京都旅行を申し込みした内容にこちらの庭園の入園券が入っていた。夜の永観堂の件があり、スルーしたのが残念です。ここで方丈庭園観ずにもどりました。ローム彩時記から引用させて頂きます。
方丈庭園 一度に楽しめる4種の庭園
境内中央の方丈には、日本で唯一ともいえるユニークな造りの方丈庭園・「八相の庭」(はっそうのにわ)があります。方丈内をぐるりと巡れば、東西南北でそれぞれ異なる趣向の枯山水庭園となっていることに気付くことでしょう。
これらの庭園は昭和の作庭家・重森三玲が作庭したもので、三玲が手がけた庭園は京都だけでなく日本各地に点在します。東福寺方丈庭園は、初期の頃の作品で代表作のひとつとされ、お釈迦さまが悟りを得て仏となる「釈迦成道」(しゃかじょうどう)を表現しているといいます。
白砂に石組み、苔という枯山水庭園のベーシックな構成物を三玲独自の視点で組みあわせることで、表情を変えられた各庭園。方丈正面に位置する南庭は4つの庭の中で最も広く、神仙境をイメージして巨石や築山が配されています。このオーソドックスな庭と対照的なのが、石と苔が生み出す市松模様が印象的な北庭。また、西庭にはさつきの刈り込みと砂地で、より大きな市松模様が描かれています。東庭では、白砂の上で東司(トイレ)の柱石の余材からなる北斗七星が小宇宙を感じさせます。
「八相の庭」という呼び名にふさわしく、斬新かつ魅力的な方丈庭園。じっくりと眺めてお気に入りの庭を探してみましょう。
東福寺 東福寺本坊庭園(国指定 名勝)です。東福寺のHPから引用させて頂きます。(本坊庭園=方丈庭園)
東福寺本坊庭園のご案内 方丈とは、禅宗寺院における僧侶の住居であり、後には相見(応接)の間の役割が強くなりました。当初は“東福寺方丈「八相の庭」”という名称でしたが、2014年に“国指定名勝”に登録され、改めて「国指定名勝 東福寺本坊庭園」となりました。東福寺本坊庭園は、明治十四年の火災により仏殿、法堂、庫裏とともに焼失しましたが、明治二三年(1890年)に再建され、災禍を免れた三門、東司、禅堂、浴室などの中世禅宗建築とともに、現代木造建築の精粋を遺憾なく発揮しています。内部は、三室二列の六室とし、南面に広縁を設けています。中央の間を室中と呼び、正面は双折桟唐戸としています。
広大な方丈には東西南北に四庭が配され、「八相成道」に因んで「八相の庭」と称しておりました。禅宗の方丈には、古くから多くの名園が残されてきましたが、方丈の四周に庭園を巡らせたものは、東福寺本坊庭園のみです。作庭家・重森三玲(1896-1975)によって昭和十四年(1939年)に完成されたもので、当時の創建年代にふさわしい鎌倉時代庭園の質実剛健な風格を基調に、現代芸術の抽象的構成を取り入れた近代禅宗庭園の白眉として、広く世界各国に紹介されています。