雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

本と映像の森19 変わり種でネット「青空文庫」を紹介します

2010年03月24日 04時32分59秒 | 本と映像の森
本と映像の森19 変わり種でネット「青空文庫」を紹介します

 みなさん、「青空文庫」って知っていますか?
 図書館の巡回車?というイメージの名前ですが、違います。(公立図書館でそういう巡回車があるかもしれませんが)。

 「青空文庫」は、ネットでアクセスできる電子図書館です。

 著作権の切れた作家(没後50年)や著作権はまだ切れていないけど遺族が権利を承諾してくれた作家の作品を、ボランテイアの人たちが打ち込んで、誰でも無料で自由に読めるようにしています。

 たとえばぼくの大好きな宮沢賢治さんは、161の作品が掲載されていて、自由に読めるようになっています。
 無料でダウンロードもできます。

 うれしいのは、宮沢賢治さんの場合は、戦前の人ですので、戦前の「旧かな」、戦後の「新かな」という問題があって、その両方を掲載されていることです。

 希望としては、たとえば「銀河鉄道の夜」は、第1次稿から第4次稿まで賢治さんはずっと推敲してきて、かなり変わっているのですが、それも掲載してもらえないかな、と思います。
 「雨宮さん、自分でやれば」と言われそうですね。
 余生があれば、したいですね。

 
 

哲学の学習15 量 その2 分離と連続、外延と内包

2010年03月23日 04時14分13秒 | 人間・生命・宇宙
哲学の学習15 量 その2 分離と連続、外延と内包

 遠山啓さんの本の続きです。

 遠山さんは、量を、まず分離量と連続量に分けます。
 そして連続量を、外延量と内包量に分けます。

 「物体もしくは物質に対するもっとも基本的な操作は合併である。
 たとえば、2つのバケツのなかにはいっている水をあわせて1つにするような操作が、この合併という操作である。
 この合併に対して加法的なのが外延量であり、そうでないのが内包量である。
 たとえば、2つのバケツのなかにはいっている水の体積がそれぞれ3リットルと5リットルだとすれば、あわせた水の体積は3リットル+5リットル=8リットルになる」
 「体積・重さ・値段などは問題なく加法的である。」(p107)
 
 「これに対して、合併が加法を意味しないような量も存在する。密度・濃度・温度・速度・単価などがそうである。20度の水と30度の水をあわせてかきまぜても50度にはならないで、20度と30度とのあいだのある値をとるだろう。つまり合併から加法がでてこないのである。」(p107~108)

 「べつのいい方でいえば外延量は“大きさ”もしくは“広がり”の量であり、内包量は“強さ”の量である」(p108)
 
 遠山さんは言います「このような内包量をくらべるのには計算という手段を必要とせず、感覚の助けによって判定することができる」

 つまり「熱い」「冷たい」「暑い」「涼しい」などの感覚で判定することができるということです。
 これは量?質?
 どっちなんでしょうか。

雨宮日記 3月21日(日)続報 中国の黄砂でした

2010年03月23日 04時06分07秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 3月21日(日)続報 中国の黄砂でした

 この日はひどい黄砂(こうさ)だったようです。ぼくは寝ていて、午後の遅くに起きてきて、しかも外出しなったし、テレビのニュースも見なかったので、気づきませんでした。

 この日の夜は仕事中、雨で、帰ってきて、午後、車で2人ででかけようとしたら、車のガラスが雨の跡がいっぱいついていて、アレッと思ったら、N子さんが「これ,黄砂の跡だよ。職場の窓もこうなっていた」と言っていました。

 この黄砂ですが、実は砂だけではなくて、顕微鏡で拡大すると怖いくらいいろんなバイ菌やら汚染物質が入っているようです。
 どの程度か、定量的な分析があるかどうか、調べてみます。

哲学の学習14 量について その1

2010年03月22日 23時23分22秒 | 雨宮日誌
哲学の学習14 量について その1

 数学から学ぶということですが、量とは何でしょうか。

 たとえば「お皿のなかに果物がいくつありますか」という場合で、「7個あります」というのは量です。

 数学的にいうと「お皿」の中に果物の「集合」があり、たとえばミカン3個とリンゴ4個の「集合」があります。
 
 量というのは、遠山啓さんによれば「3メートルの棒、高さ3メートルの家は、物体もしくは物質として存在するが、3メートルそのものは存在しない。つまり、量の背後にはじゃばらず物体もしくは物質が存在しているのである。」
 (『遠山啓著作集 数学教育論シリーズ5 量とは何かⅠ』太郎次郎社、1984年新装版、p107)

 そして量とは、集合の要素が等質であるときに量となる。つまり、ミカン3個の集合、リンゴ4個の集合、あるいは果物7個の集合。

 そして、量よりさらに抽象的なものが数となります。たとえばミカン3個とリンゴ3個は量としては異なったものですが、数としては同じものです。

 つまり、集合 → 量 → 数、という概念の発展系列が考えられます。(遠山さんの同書、p82~83)
 
 量についての学習は次回に続きます。

 この遠山さんの本は、25年前に買ったので、今はどういう形で出ているのかは調べてありませんが、「水道教育」の著者として著名なので何らかの形で出版されているだろうと思います。


雨宮日記 3月21日(日) ブログ訪問者1万ヒット!お礼

2010年03月22日 04時36分15秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 3月21日(日) ブログ訪問者1万ヒット!お礼

 今日までで、雨宮のブログを見てくれた人が、ブログがスタートした昨年11月からで、総計1万人を超えました。

 この、こむずかしい、つたないブログを見てくださり、あるいは定期的に見てくださり、ありがとうございます。
 心からお礼申し上げます。
  
 今後も、ちゃんと「学習」し、妻のN子さんと「夫婦活動家」の人生を充実させ、その成果をブログに書いていきたいと思います。
 よろしくおねがいします。

 雨宮は、フランシス・ベーコンのいう「知は力」ということを信じています。

 ただし「知」というのは記憶としての「知識」ではなく、
 その結果を導き出すプロセスとしての「知恵」のことです。

 対等平等のみんなが「知識」ではなく「知恵」を、対等平等のみんなの努力で探求していく、そんな未来社会をつくりたいと思います。

 妻のN子さんなどの雨宮の「旅の仲間」や、みなさまとともに、未来を切り開いていきたいと思います。

雨宮日記 3月20日(土) 「灰木川里の家」のお掃除

2010年03月22日 04時24分08秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 3月20日(土) 「灰木川里の家」のお掃除

 曇りで,雨が降り出しそうなお天気でしたが、来週日曜日の「第3回里山喫茶」があるので、里の家のお掃除をしました。
 午後2時に集まって、男性1人(ぼく)と女性2人で、里の家の中を掃いて,ぞうきんで拭き掃除をしました。

 里の家は、数十年昔の家なので、「かまど」があり、「雨戸」や「障子(しょうじ)」があります。

 これから「かまど」「雨戸」「障子」なんかは、子どもたちにはわからない死語になっていくんでしょうね。

 里の家のすぐ横で、ピンクの三つ葉ツツジが花盛りでした。
 裏山に行くと、「イモリの池」で今年もイモリたちが復活、黒い細い体が池の底にいました。
 「今年も会えたね!よろしくね」という感じであいさつしました。

 青いハルリンドウも、いっぱい。
 午後なので、もう閉じてしまった花が多かったのですが、1つだけ、満開の花が。

 
 

雨宮日記 3月18日(木) 春の馬込川を散歩

2010年03月20日 19時34分33秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 3月18日(木) 春の馬込川を散歩

 春の馬込川の土手を2人で散歩しました。家のあたりから東岸を南下して、太鼓橋を越えて、次の橋まで。
 そこから今度は西岸を北へ。

 まだカモたちが残っていたり、真っ黒くてくちばしが黄色いカワウが1羽いたり、小さな青いイヌフグリがいっぱい咲いていたり、早足で歩くのではなくて、のんびりとじっくり観察しながら歩くのがおもしろいです。

 ぼくたち夫婦「人生2人旅」だからおもしろいので、1人ではおもしろくないかも。
 夫婦でなくても、家族でも親子でも、友達でも、感動をわかちあえる、あるいは共感できる相棒がいれば、人生こわくないですね。


古代史の本 『日本書紀』のテキスト、文庫本

2010年03月20日 16時56分22秒 | 古代史の本

本と映像の森18 『日本書紀』のテキスト、文庫本

 日本古代史の基本文献の1つは「記紀」、つまり『古事記』『日本書紀』であることいn異論のある方はないと思います。

 「あんなものは7世紀初めの創作で事実ではない」「天孫降臨とか神武東征とかうそだ」と考えている人がいたら、伝承を何の根拠もなく軽視しない方がいいと私は思います。
 
 まず読んで批判すべき所は批判するのが筋道だと思います。
 まず全文をきちんと読みましょう。

 『古事記』の方は、文庫本や現代語訳がかなり出ていますが、『日本書紀』の方は、手軽な文庫本で読めるのは限られていますので紹介します。

 おすすめは、講談社学術文庫で宇治谷孟(うじたに つとむ)さんの現代語訳で上下・2巻本で出ているテキストです。
 『日本書紀 全現代語訳』、1988年第1刷発行で、私が買った2004年に第33刷ですから、かなり売れているのだと思います。
 私が買ったときで1冊1150円+税、でした。

 原文と現代語訳と注釈まで載っている文庫本は、やはり岩波文庫の5冊本ですね。私が買ったときで1冊1000円+税です。

 なお『日本書紀』に続く古代日本の正史である『続日本紀』も同じ宇治谷さんの全現代語訳で、3冊本で出ています。
 これも買って、通読することをおすすめします。


資本論の学習5 「実存する」とは何でしょうか?

2010年03月20日 04時15分49秒 | 人間・生命・宇宙
資本論の学習5 「実存する」とは何でしょうか?

 前回第4回に『資本論』第1章第1節から以下のような引用をしました。ページは新日本新書版第1巻です。
 
 「さらに、2つの商品、たとえば」300リットルの小麦=akgの鉄「この等式は何を意味するか?
 同じ大きさの1つの共通物が、2つの異なった物のなかに、すなわち」300リットルの小麦のなかにも、akg「の鉄のなかにも、実存するということである。」
 「したがって、両者は,それ自体としては、一方でもなければ、他方でもないある第3のものに等しい。」(p63)
 「この共通なもの【第3のもの】は、商品の幾何学的、物理学的、化学的、またはその他の自然的属性ではありえない。・・使用価値としては、諸商品は、なによりもまず相異なる質であるが、交換価値としては、相異なる量でしかありえず、したがって、1原子の使用価値も含まない。」(p64)
 注)原文の「ブッシェル」では現代の私たちにはぴんとこないし、イメージできないので「300リットルの小麦」という表現をしてみました。

 ここで問題なのは「実存する」というマルクスさんの表現です。
 ドイツ語原文では「existireren」で、その直前の「交換価値は、一般にただ、それとは区別されうるある内実の表現様式、「現象形態」でしかない。」(p62)という「現象形態(Ersheinungsform)」とは明らかに用語が異なっています。

 マルクスさんの用語が異なっていれば、概念も違うというのが特別の理由がない限りは妥当な話だと思います。

 脱線して考えると、たぶん、ここでいう「実存」はフランスのサルトルさんの「実存主義」とは何の関係もないと思います。
 もし関係があったら、ごめんなさい。

 第4回では省略した文章はこうです。

 「両者はどちらも、それが交換価値である限り、この第3のものに還元されうるものでなければならない。簡単な幾何学上の1例がこのことを明らかにするであろう。およそ直線形の面積をはかり、比較するためには、それをいくつかの三角形に分解する。三角形そのものは、その目に見える形とはまったく異なる表現ー 底辺×高さ÷2 ーに還元される。これと同じように、諸商品の交換価値もある共通物に還元されて」(p63)

 つまり、「二つの異なった物のなかに」「実存する」「同じ大きさの1つの共通物」は「その目に見える形【交換価値】とはまったく異なる表現に還元され」ます。

 あとの第3章第1節では、こう述べられています。
 「鉄、リンネル、小麦などの価値は、目には見えないけれども、これらの物そのもののうちに実存する」(p162、原書p110)

 とにかく「実存」という概念と「現象」という概念が違うということを今日は学習しました。

 「実存」という概念は、ヘーゲルさんから来ているので、またそっちも含めて縦横斜め、学習を続けます。

人間・心・集団3 森繁久弥さんの「人間は、芸+人」

2010年03月19日 04時30分42秒 | 人間・生命・宇宙
人間・心・集団3 森繁久弥さんの「人間は、芸+人」

 今年、森繁久弥さんが亡くなったあと、NHKラジオで深夜に、追悼放送があり、以前の森繁さんの録音が流れていました。

 その中で、森繁さんが「以前は、芸人というのは、芸のある人だと思っていたが、いまは、芸人というのは、芸+人だ、芸も、人もどっちもだいじだと思う」という意味のことを語っていたのが印象的でした。

 芸というのは、能力のことだと思います。
 それに対して「人」というのは、人間のなかで、ふつう「人格」とか「魂」とかいわれるもので、これが一人ひとりの人間の中心、司令塔なのだと思います。

 私のイメージでは、1人の人間の中心には「魂」「人格」とか呼ばれるものがあり、その周囲に、周りの人間や自然とコミュニケーションする「能力」が発達していきます。
 それを「労働力」「労働能力」と呼んでもいいでしょうね。

 「芸」という「能力」が発達しても、それは必ずしも「人格」「魂」の発達とはならず、その変質や後退になる場合もある、ということを森繁久弥さんは言っているのだと思いました。

 自分の能力が発達したことを、自分の「人格」「魂」そのものが発達して,他人より上に立ったように誤解してしまう人もいるのではないでしょうか。
 
 (未完、詳述します)



本と映像の森17 高畑勲『「ホルス」の映像表現』

2010年03月19日 04時01分04秒 | 本と映像の森
本と映像の森17 高畑勲解説『「ホルス」の映像表現』アニメージュ文庫、徳間書店、1983年10月31日初刷、定価379円+税=390円、212ページ

 宮崎駿さんと高畑勲さんのコンビの始まりの一つが、1968年(昭和43年)公開の東映アニメ「太陽の王子・ホルスの大冒険」で、高畑勲さんの長編演出の第1作です。
 このアニメに、宮崎さんもスタッフの1人として参加します。

 高畑さんの解説は、アニメの映像を追いながら、冒頭の少年ホルスと銀色狼の格闘しーんから始まります。

 ホルスは父親と住んでいた「村」を悪魔グルンワルドによって崩壊させられ、そこから逃げだした孤児です。

 「太陽の王子」という表現は、エジプト神話の太陽神の息子で鷹の神・ホルスの名前からきています。
 エジプト神話は、このアニメのストーリーとは関係なのですが、まあ少年ホルスの能力から言っても、悪魔と真っ向から対決する資格と決意のある人間ホルスを「太陽の王子」として表現したのか、と思います。

 ホルスと対照的な主人公が、ホルスとともに別の村に入り込む少女ヒルダと、その村の少年ポトムでしょう。
 ヒルダは実は人間の娘ですが、悪魔の妹と思い込まされています。
 テーマは「村を守るのか」です。あるいは「村は守るに値するか」です。
 
 ホルスもヒルダも、脳天気な「正義の味方」ではなく、悩める主人公なので、ぼくも感情移入ができます。

 ホルスは、ヒルダの策動もあって村から追放されて、さまよいます。
 ヒルダは「兄」の命令で、ホルスと村を2つに裂きますが、自分自身が2つに裂けていく少女です。


 そういうストーリーの内容とともに、アニメ撮影の技術が微細に語られて、すごくおもしろい本です。
 
 20年以上前の本なので、いま新刊で出ているかは不明です。

 アニメ映画は、DVDで買うなり、借りるなりできると思います。
 

 

 

哲学の学習13 微細な質・質の微細な変化を感じられるか

2010年03月18日 04時17分57秒 | 人間・生命・宇宙
哲学の学習13 微細な質・質の微細な変化を感じられるか

 ふつう、哲学の学習と、一人ひとりの人間の「感覚」とは無関係なのですが。
 
 いろいろ考えてきたら、そもそも一番大事なのは、「質」の定義や概念ではなく、具体的なリアルな微細な質や、質の微細な変化を、ぼくが感じ取れるかどうか、ではないかと。

 たとえば「色 カラー」の微妙な変化を日本人は、感じ取ることができるといいますね。
 萌葱色(もえぎいろ)とか。
 浅黄色(あさぎいろ)とか。
 
 妻のN子さんの介護の仕事で「入居者の心の内を感じて仕事をしなければ」という時も、グループホームの入居者のお年寄りの、表情や言葉の揺らぎを感じ取って仕事ができますかということだと思います。
 
 ぼくは、そういう微細な質、微細なゆらぎを大事にしていきたいと思います。

 現実は、無神経で、職員の意向を押しつけることが多いのだと思いますが。

 哲学の学習と、人間・心・集団の学習とは、本来、別の物ではないと思います。表裏一体、表と裏と追求していきたいと思います。



 


雨宮日記 3月17日(水) 父の評論が市民文芸に入選

2010年03月18日 03時51分55秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 3月17日(水) 父の評論が市民文芸に入選

 浜松市は毎年『浜松市民文芸』という雑誌を発行し,市民から小説・児童文学・評論・随筆・詩・短歌・定型俳句・自由律俳句・川柳の9つの部門に市民から原稿を募集して、それぞれの部門ごとに「市民文芸賞」と「入選」を掲載しています。

 ぼくの今年87才の父親は、昨年の『浜松市民文芸 54号』で、「浜松詩歌事始ー上編」で市民文芸賞を受賞して、今年もその続編で「浜松詩歌事始ー中編 左千夫・茂吉と城西」で「入選」となりました。
 おやじさん!おめでとうございます。
 今年が「下」の予定でしたが、長くなって、今年は2回目、来年で完結の予定です。

 元々、おやじさんは、浜松工業高校の出ですが、戦後、祖父の起こした本屋「林泉書房」をついで、ずっと浜松市内の最初は新町で、引っ越して松城町で営業してきました。
 ぼくも手伝ってやってきたお店を不景気なので閉じて、ぼくは他の仕事に移りました。ちょうど、バブル時代のピークの時期だったので、松城町のお店(自宅)を売り逃げして、今の十軒町に移ってきました。
 
 書き物をし出したのは、十軒町の時代からだと思いますが、認知症になったおふくろのことや、万葉集の「ひくまの」はどこかなど、いろいろ書き始めて、それは『浜松市民文芸』に何回も入賞しました。

 おやじさんの父親の、つまりぼくの祖父の福男(とみお)さんが、アララギ派の短歌人だったので、そういう文献もあったので、書いたのだろうと思いますが、数年がかりの力作です。

 おやじさんは耳が遠くなったので、昨年の授賞式には、ぼくは時間的に合わなくて,妻のN子さんに同席してもらいました。
 
 来年、論文が完結したら、他の評論と合わせて、本にしたいなと思います。

 この『浜松市民文芸 55号』は、浜松市中区鹿谷にある「浜松文芸館」で、1冊500円で買うことができます。
 浜松文芸館の電話は、053-471-5211 です。
 浜松文芸館の場所は、鹿谷の「ステーキのあさくま」から道路を少し上に上った左側です。

 浜松市は、ムダを削減という方針でしょうか、この「浜松文芸館」を廃止するという方針を最初出しましたが、関係者の抗議を受けて,撤回して、今の場所ではないけど(現在の建物は東海地震に耐えられないので)、浜松文芸館存続を明言しました。
 当然のことだと思います。

 文化や芸術を大事にしない自治体は滅びますよ、と思います。



 

本と映像の森16 養老孟司・宮崎駿『虫眼とアニ眼』

2010年03月17日 04時01分49秒 | 本と映像の森
本と映像の森16 養老孟司・宮崎駿『虫眼とアニ眼』新潮文庫、2008年2月10日初版、192ページ、定価438円+消費税

☆「本と映像の森」で扱っている本・映像・音声は、すべて雨宮智彦が現在か過去に
 実際に読んだか、見た・聞いた、あるいは使っている作品です。

☆客観的な作品紹介ではなく、あくまでの雨宮智彦が感じた、あるいは読み取った内容
 ですので、他の人が紹介すると、まったく別の意味になるかもしれません。

 解剖学者で昆虫マニアの養老孟司(ようろうたけし)さんと、アニ眼じゃない、アニメ映画監督の宮崎駿(みやざきはやお)さんと言えば、まあ時の人でしょう。
 このお二人の、とりとめもない(ごめんなさい!)というか、あっちへ飛び、こっちへ飛びという対談が、どこへ飛ぶのかわからない宮崎アニメのように,おもしろいです。

 というより、結末のわかっている作品や、歴史や現実は、おもしろくもなんともないですね。
 結末のわからないのが、本来の「弁証法」的現実だと思います。

 宮崎さん「ぼくが思いつくのは、学校の校庭を平らなのをやめてデコボコにしろとか、運動会は、丘から丘に紐を張って、それにぶら下がって渡ればいいじゃないか」「平らな地面の上で、前へならえして、行進なんかしてちゃだめなんだ」(p48~49)

 養老さん「感性の基本には、ある種の「差異」を見分ける能力があると思う」「いまや子どもまでもがそういったディテールを見分ける能力が抜け落ちてしまっている」(p50)

 同じく養老さん「自然環境というのは、ものすごいディテールで成り立っていて、いまの人間はそれを完全に無視して生きているといいうことです。」(p51)

 あ、これって、同じだと思ったのは、介護施設の職員である妻のN子さんが去年くらいに言った言葉「お年寄りの心の中を読み取らないと、介護の仕事はできない」「そのためにはお年寄りの言葉や表情の微妙な変化が読み取れないと」という話と同じだなと。

 哲学の学習で「量と質」を考えていますが、一人ひとりが、どう「質」の違いを読み取れるかが、実は一番大事なことではないでしょうか。

 宮崎さんの言葉「子どもたちに生まれてきてよかったねって言おう。言えなければ映画は作らない。自分が踏みとどまるのはその一点でした」(p130)

 この言葉を読んで思い出したのは、10代の頃、学校でいじめにあっていた次女が「もうあんな学校には行かない」と決意して、それを学校に告げて帰ってきた時に、ちょうど家の玄関にぼくが、いました。
 次女が「ただいま」と言うので、親として何を言えばいいのか、うろたえながら言ってしまった一言「おめでとう」。

 うわあ、なんてことを口走ったんだ!と思ったけど。
 次女の決意に「おめでとう」というこ感じです。

 宮崎さんの言葉を借りれば、こういうことになります。
 「きみは生まれてきて、よかったんだよ。きみの人生に、おめでとう!お父さんはきみの決意を全面支援するからね!」というような気分だと思います。

 宮崎駿さんとその親友の高畑勲さんのアニメ映画をきちんと学習したいと思います。最初は「太陽の王子ホルスの大冒険」「怪盗ルパン カリオストロの城」に始まります。

 その後、宮崎駿さんのアニメ映画で「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」「となりのトトロ」「もののけ姫」「千とちひろの神隠し」「ハウルの動く城」などです。
 その一つひとつの感想は、また書いていきます。

 写真は、種名がわからない小さな「虫」です。


 
 

本と映像の森15 日本気象協会『季節と暮らす365日』

2010年03月16日 23時18分13秒 | 本と映像の森
本と映像の森15 日本気象協会『季節と暮らす365日』アリス館、2009年4月10日初版、150ページ、定価1300円+税

 私が雨宮日記で書いている四季の暦や気象の話題などの種本の一つです。
 1月1日から12月31日まで365日を、3段組で1ページに3日、その日ごとの暦や気象の話題が書かれています。
 フツー、こういう「暦」の本って、古風な本が多いのですが、この本は、毎日1つ、しゃれたイラストがついた明るい本です。
 
 たとえば今日3月16日は「ぼた餅」という項目で、「ぼた餅」と「おはぎ」の違いを説明しています。