雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 3月5日(金) 妻が札幌から帰ってきました

2010年03月07日 21時54分41秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 3月5日(金) 妻が札幌から帰ってきました

 妻のN子さんが、札幌から話をいっぱい持って帰ってきました。お疲れさまでした。N子さんが言うには「雪の札幌よかった。リフレッシュになった」「札幌は大都市ね。東西南北に碁盤の目のように道路がつくられていて。地下鉄の朝の通勤ラッシュすごかった。」そうです。

 セントレア空港から札幌へ飛んだ3日は、札幌は雪で、もしかしたら函館空港へ着陸か、最悪引き返す場合もありますと言われて覚悟して飛んだそうです。
 なんとか千歳空港に着陸できた、ということでした。

 おもしろいのは、札幌では赤青黄色の信号機が、横ではなく縦だったそうです。雪の重みがすごいんでしょうね。

 翌日は北海道の自衛隊基地内で上司からセクハラを受けた女性自衛官が訴えた裁判で、札幌地裁で、朝から夕方までの1日を使った本人尋問でした。
 浜松からは弁護士は外山弁護士と塩沢弁護士が参加しました。
 夜は、裁判所のすぐそばのホテルで、全国で自衛隊員や遺族が訴えている裁判の初の交流集会でした。北海道・横須賀の海上自衛隊護衛艦「たちかぜ」裁判、浜松の私たちなどが集まりました。
 詳しくはまた「浜松基地自衛官人権裁判」のブログで。

 夜は、N子さんは、「国際女性デー浜松集会」で、自衛官人権裁判のことを5分間のフロアー発言、夜遅くは、明日の「ゴミ環境ネット」総会の議案のホッチキス綴じを2人でやりました。

 

雨宮日記 3月3日(水) ひな祭りです

2010年03月04日 05時43分55秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 3月3日(水) ひな祭りです

 今日は、ひなまつりで桃の節句です。
 私たち夫婦は、子どもが2人とも女の子なので、むかしは「ひな壇」を飾っていましたが、子どもたちがそうですね、10代後半になる頃が最後でしょうか。
 あの「おひな様」をどうしたのか、妻のN子さんに聞いてみます。

 今日はN子さんは、「浜松基地自衛官人権裁判」の事務局として、自衛隊浜松基地内で上官のいじめ・暴力で自らの命を絶つまでに追い込まれた自衛官の遺族が提訴した同じような裁判の交流集会で、故人の奥さんといっしょに札幌へ飛行機で飛びました。

 夜、N子さんから電話があって「無事、札幌に着きました」「札幌は雪です」と。

 雨宮家の家族の中心であるN子さんが、こういうふうに、2泊3日も家を離れられるのも、成長した,2人の娘たちに安心して,家のことをまかせられるようになったからでしょうね。

 今日は、ぼくの父親の節三さんの87歳の誕生日です。N子さんはいないので、近所のお寿司屋さんから、お寿司をとって、お祝いにしました。



 

雨宮日記 2月27日(土) ショパンの丘

2010年03月03日 16時32分19秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 2月27日(土) ショパンの丘

 夕方、浜松駅前で待ち合わせで、すこし時間があったので、初めて駅ビルのメイワンにある谷島屋書店に行ってきました。

 ここは浜松市内で最大規模の書籍をおいてあるお店です。
 何がどこにあるかを探すだけでたいへんでした。
 岩波文庫の『西遊記(1)』などを買って、駅の西側にあるアクトシテイの一番東にある(つまり駅のすぐ西側)のショパンの丘に行って、ベンチで本を読んで時間をつぶしました。

 西側を向いて座っていると、夕方なので、駅前のバスロータリー付近の樹木をねぐらにしているたくさんのムクドリの群れが旋回して降りていきました。
 このムクドリ対策のためには、追い出す方法ではなく、駅の付近に森林公園をつくって、そこに誘導すればいいと思うのですが。



哲学の学習10 「量」と「質」を考えます、その1

2010年03月02日 04時14分02秒 | 人間・生命・宇宙
哲学の学習10 「量」と「質」を考えます、その1

 ある「教科書」(87年度ですから23年前でかなり古いですけど、全面改定したという話も聞かないので、もし、今はかなり違っていたら許してください)に、次のように書かれています。

 「世界におけるすべての事物は、質の側面と同時に量の側面をもっており、そして、この質の側面と量の側面には切りはなすことのできない密接な関係があります。」
 この叙述は賛成です。
 
 次に「「それはどんなものか」という問いに対応する事物の側面、それが質です。つまり、質とは、ある事物を他の事物から区別する特徴・性質の総体のことをさします。」書いています。これも、まあいいかな。
 叙述は、質の具体的例として、「資本主義」と「社会主義」の質の違い、別の例として、液体状態にある「水」と気体状態にある「水蒸気」の違いをあげています。
 1987年なので、まだソ連のいつわり「社会主義」崩壊の前で、まだ日本共産党の認識が、ソ連社会主義は社会主義ではなく、歪んだ別の種類の社会である、というところには到達していない段階ですから、仕方ないですね。

 では、量とはなんでしょうか。
 同書では「量とは、長さ、広さ、重さ、温度、速度、人数など、「どれだけか」という問いに対応する事物の側面、つまりなんらかの単位で測定できる事物の側面のことです。10万人のデモ隊、40度の湯、1日1時間の学習などという時、問題にされているのが量の側面です。」と明確に書かれています。

 つまり「量」とは「単位で測定できる事物の側面」だと主張しています。でも、ここでちょっと立ち止まって考えてみました。

 たとえば温度、現代では温度計で、どんな温度でも測ることができますが、それは温度計ができてからの話です。
 それまでは「今日は暑いね」「今日は寒いね」という感覚で会話がされています。
 
 「熱い」「冷たい」「暑い」「寒い」「大きい」「小さい」「速い」「遅い」などのけいようしをすべて「量」であると強弁するなら別だけど、事物の同じ側面を「量」として表現すると同時に「質」として表現することができるのではないでしょうか。

 つまり「事物の側面」の中には、同時に「量」であり「質」であるような側面がある。

 「事物の側面」の中には、「優しい」「きれい」「美人」のような質的にだけ表現ができて、量的表現ができない側面もあるのかな。

 だれか「美人」という質を量に変える「美人指数」を発明できれば、すごいですね。

 なんだか、本題から逸れてきたような気もしますが。量と質を考える第1回目とします。