自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

家では邦語、外ではポ語/こども世界のひろがり

2010-09-04 | 環境>教育

大家族の共同炊事、共同食事は初体験だった。
準備ができると女たちの誰かがカランカランと鐘を鳴らした。
男たちが離れた作業所から集まってきて一つなぎの長いテーブルを囲んで食事する風景は今はまれなゴッドファーザーの世界だった。
子どもはまだ少なく一族の長女の息子であるわたしが最年長だった。
したがって外での遊び仲間はほぼガイジンだった。
わたしにとってそこは別世界だった。
リーダーはサンパウロ市から流れて来たネルソン兄弟と姉妹だった。
彼は都会育ちだけあって垢抜けしていて国内の情報に通じていた。
かつては通学もしていたに違いない。中学生ぐらいの年齢だった。
わたしの行動範囲がいっきょに広がり耳にする情報も多彩になった。
遊び仲間はわたしにとってブラジル文化そのものだった。
すぐさまネルソンがフットボールを始めた。
ワールドカップが始まったのが1930年、ブラジルはわたしが生まれた1938年の第3回フランス大会で3位に入賞、オーヴァーヘッドの名手レオニダスが得点王に輝いていた。
それに戦争中の中断を挟んで戦後最初の大会(第3回)がブラジル開催に決まっていたから、都会ではフットボール熱で沸騰していたことだろう。
わたしにはすべて初体験だった。ボールはわたしが買った。
チームで唯一の縫いボールだった。
靴下にボロを詰めたボールが子供の間では一般的だった時代に縫いボールは貴重だったが、盗まれることも脅されることもなかった。
ブラジルは平和で安全だった。
フィールドは牧場か空き地の草地だった。
キックはもっぱらトーキックだった。
裸足のトーで蹴るから足の骨と皮が丈夫になった。
ブラジル人は今でも日本人よりトーキックを上手に多用する。
ネルソンがインステップキックをみなに教えた。
大人が子どものフットボールに関わることはなかった。
ブラジル人はサッカーとサンバ(の真髄)は教えられない、という固い信念を今なおもっている。
大人は大人でチームをつくり休日に正式の(といっても木組みのゴールが立っていただけだったが)会場で試合をしていた。
われわれは観戦がてらにコーヒー園に入ってスイカ狩りをした。
野糞から生えたスイカだったので盗みの意識はなかった。
熟れているかを確かめるやり方が滅茶苦茶だった。
携帯している事が珍しくない折りたたみナイフでスイカに四角い穴をあけて回った。
われわれはこれをカッパ(去勢)とよんでいた。
熟れたスイカにありついた記憶はほとんどない。