自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

労働、遊びと勉強/にわかに勉強モード

2011-01-21 | 体験>知識

11歳ぐらいになって自転車に跨って乗れるようになったので街の「寺子屋」に土日だけ通うことになった。
10数キロの遠方だったので土曜は市街に移り住んだY叔父の家に泊まることになった。
日伯の国交回復交渉がすすむにつれて「帰国請願運動」が信用を失っていく中で父も動揺していたのであろう。
集団帰国船が来ないならとりあえず勉強させねば、と思ったに違いない。
「寺子屋」と云ったのは父で、江戸から明治にかけて町人、農民の子が読み書き算盤を学んだ私塾のことである。
私塾と言っても自学自習が普通だったらしい。
市内に寺があるわけなく戦中強制閉鎖されていたが再開を許された日本人学校に通うことになった。
寄宿舎と運動場があった。
最初のうちは生徒が数人と先生らしい大人が1人いたが事情は不明だが数回通っただけで「学校」は立ち消えになった。
覚えているのは算数問題集の小冊子を途中までやったことである。
割り算までは難なくできたが通分で壁に突き当たった。
解き方も説明もなかったので指導なしでは挫折するのが普通だと思う。
多分ここで貰った戦前の国語の国定教科書は装丁も印刷も立派だった。
「寺小屋」が自然消滅したのでY叔父の家で読み書きだけの勉強を続けた。
いとこ兄妹は年下だったので一人で音読し漢字の書き取りを繰り返した。
書き順などあることさえ知らずひたすら書いた。
教科書の内容は高学年用で、日露戦争終結時の乃木大将とクロポトキン将軍の「水師営(の会見)」が一番印象に残っている。
楠木正成、山中鹿之助等忠君愛国の武将物語を戦後5年も経って学習した。
日本では戦中の教科書の不適当部分を墨でぬりつぶして使った時期があったが、とっくに占領国の指導にそった新教科書に代わっていた。