自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

久留米大学附設高校とは/1956年当時の印象

2014-01-29 | 体験>知識

校名に、大学の付属ではなく、大学の学部と同格だぞ、という強い意志を感じる。
校長名と立地、カリキュラムをみるとそれ以上に創立の志を感じる。
校長は板垣征四郎大将(石原莞爾とともに柳条湖鉄道爆破事件1931の首謀者とされ満洲、上海、朝鮮、シンガポールでの参謀長、司令官の要職ゆえにA級戦犯として極東軍事裁判により絞首刑になった)の実弟(医学博士)である。
わたしたちはその高校の7期生であった。
男子だけの受験校、生徒会も部活動もなし、在学中に上級生が部活動を始めようとしたが学校側に断念させられた。
附設高は戦後国家と社会のエリートを養成することを使命として創設された。
勉学一道かといえばそうでもなく文武両道にも未練があった。
時々絵画の自由で愉快な授業があった。
週一回体育があり年配の体育教師が主にラグビーを、従にソフトボールを指導していた。
最初の漢文の時間は学校の成り立ちと性格をうかがわせるものだった。
年配のカイゼルひげを生やした大石亀次郎先生がわれわれを久留米つつじが満開の隣接公園に連れ出して授業をした。
そのときの忘れられない先生の心情吐露・・・××がなければ出刃包丁で最後までアメリカと戦わんか。
その場所は台座だけが残っていた肉弾三勇士の銅群像前だった。
そうだ、わが高校は上海近郊廟行鎮三軍神を輩出した久留米師団第18工兵連隊跡地に建設されたのだった。教室は元兵舎であった。
上記満洲事変から5ヵ月後満洲から世界の耳目をそらすため関東軍による謀略で上海事変が勃発したのだった。
上海の日本人托鉢僧襲撃殺害事件がきっかけだった。
陸軍上海駐在武官田中隆吉少佐と工作員川島芳子が実行した謀略事件である。
わたしは亀次郎先生のアナクロニズムを冷やかしてすぐ黒板に駄洒落を大書した。
亀ちゃんよ、亀頭を磨け!
入って来た次の時限の若い数学の先生が苦笑しながら消された。
軍国主義の名残は感じられたが学校は全国指折りの現代的進学校として発展して行く。

追記。国民を扇動し戦争に誘導した戦争責任者たちが舌の根が乾かない内に米国にへいこらしている中でアナクロを貫くのには勇気がいる。



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